1、2
1.
宿屋の老婆は客を見た途端、あからさまに嫌そうな顔をした。
若い男の二人連れだ。若いといってもとうに成人はしていよう。揃って長身だが、やや年かさに見える男は傭兵か剣士、若い方は呪術師か妖術使いの類である。推理も何もあったものではない。隻眼の男のマントの下では剣と軽鎧がその存在を声高に主張しているし、額に幅広の布を巻いた男の左頬には何か得体の知れない紋様が彫られている。
「空いとらんよ」
二人の客が何も言わないうちから老婆は無愛想な言葉を投げつけた。一刻も早く立ち去って欲しいという意思を露骨に表示している。
特に客を選んでいる訳ではない。下っ端の船乗り、傭兵や魔法使い――魔法使いには「えせ」の枕詞がつく者がほとんどだが――など、客としてはありふれた部類だ。つまり、柄の良くない安宿である。狭い部屋に寝台が四台、六台と置かれているだけ、まさしく眠るためだけの宿である。寝台の数が偶数なのは、可能な限り寝床を詰め込もうと二段でしつらえられている為だ。大抵は見知らぬ者同士が隣り合って眠ることになる。当然、部屋に鍵はない。こんな所に泊まるのは、余程腕っ節や身を守る術に自信のある者か、盗まれて困るような物など持ち合わせていない人物に限られる。
そんな宿屋でさえ、この二人を泊めたくはないらしい。
「駄目だな、ばあさん」
若い男が含み笑いを漏らした。
「その手には引っかからねえ。部屋なんぞがら空きだろうが。金ならいくらでも出してやる。なんなら全部の部屋でも借りてやるぞ? そんな気前のいい客が、こんな場末の安宿に来たことがあるか?」
「儲からんでもええ」
言いながら老婆は落ちくぼんだ眼窩からじろりと二人を睨め上げた。
「宿を瓦礫の山にされたらかなわん」
二人の若者は顔を見合わせた。
彼らが行く先々で騒ぎに巻き込まれ、もしくはより若い男の方が巻き起こし、立ち寄る町から追放処分を食らい、場所によっては法外な額を科せられた賞金首になっている事実は、ここではまだ知られていない筈である。
「御老女」
剣士が口を開いた。
「何かそのような噂でも耳にされたか」
言葉遣いは丁寧だが人相が良いとはいえない。いや、人相の割に言葉遣いは丁寧というべきか。
「知らん」
老婆はにべもない。
「わしゃ何も知らん。じゃが、長生きすりゃ少しは目が利くようにはなるわい。おまえさんらが禍のメトス神に余程好かれとることぐらい、分からいでか。カゼールに宿はいくらでもある。他所へ行け」
「へえ」
魔法使いが感心して腕を組む。固い物の触れ合う音が鳴った。年齢の割にはまだ視力のある老婆の目に、マントの下、幾重にもぶら下げられた首飾りがちらりと映った。水晶、瑠璃、黒蛋白石、およそ魔力が秘められているものと考えらえる全ての宝石の色彩が一瞬覗き、視界から消える。
「ばあさん、千里眼でも持ってんのか」
「そんなもん、ありゃせんわ」
相手は二人である。一人は傭兵らしいが片目がなく、自称魔法使いの方はやけに愛想が良い。詐欺師にこの手合いが多いものだ。用心棒たちに寝こみを襲わせれば大層な収穫が得られるだろう。例えば、魔法使いが左の中指に嵌めている大きな柘榴石の指輪、あれ一つだけでも老婆が五年は遊んで暮らせる、それ以上の価値がある。が、彼女はそれでも心を動かさなかった。
「はよう、去ね」
しっしっ、と犬でも追い払うかのように、二人の男に手を振る。
「この、くそ婆!」
失礼なその仕種に魔法使いが悪態をついた。
「なんだその態度は。この俺が蝿とでも言いてえのか?」
大股で老女に詰め寄ろうとする魔法使いの襟首を、剣士が掴んで引き留める。
「邪魔をした」
至って礼儀正しく挨拶を済ませると、彼は魔法使いを引きずって宿を出た。
身に染みついた災厄の匂いは、その道に関わりを持つ者にとっては目に見えるほど明らかであるらしい。
魔法使いは中央塔の台座の上で胡坐をかいた。道すがらに買ったナッツを宙に放り上げ、口で受け止める。ぼりぼりと噛み砕きながら二頭の馬と一人の男を見上げた。
「仕方ねえな」
二人は中央広場まで来ていた。カゼールは大陸の最西にある港町である。南側が海に面しており、海峡を行き来する小船の他、西の果てまで貿易に訪れた船も何隻か停泊している。海の荒くれ男共を泊める場所がいくらでもある筈なのだ。それでも入る宿に片端から追い出されるうちに、彼らは市の立ち並ぶ広場まで来てしまった。
仕方がないという言葉とは裏腹に、日に焼けた赤銅の貌はだらしなく緩んでいる。
「女付きの部屋取るしかねえよな」
娼館に泊まるしかないと言っているのだ。
「同じような結果にしかなるまい」
剣士が無情に却下する。肉の削げた顔は浅黒い。魔法使いと違って彼は、もともとこういった肌の色をした民族である。
「そりゃ分からんぜ。女郎部屋に泊まりたくないからって諦めが良過ぎるんじゃねえのか? いい加減くそお上品ぶるのをやめろよ。おまえだって股に立派なもんぶら下げてんだろ。正確に言うと」
「私が言いたいのは」
連れが公衆の面前であからさまな単語を吐く寸前で、剣士は素早く遮った。
「たとえ部屋を取れたとしても、またお主が騒ぎを起こして追い出されるのがおちだということだ」
「口は災いの元」という諺を魔法使いは正確に具現している。そのような者が盛り場へ行けばどうなるかは想像に難くない。想像だけでなく実際に何度も巻き添えを食らっている剣士は、確信に満ちた口調で述べた。
「若い女を前にすりゃ、誰でも気が大きくなるだろ」
「お主の気が小さいときなど、ないではないか」
「ものの例えだ」
この石頭と言いたげに魔法使いは剣士を睨み、空を仰いだ。中央塔の先端が視界に入る。どの広場にも似たようなものがある。神官が台の上に立って講釈をしたり、行政者が演説をしたりする。塔には役所からの通達が掲示されている。
空色の目が掲示を読んだ。市庁舎移転、改築による労働者を引き続き募集中とある。「希望者は広場脇の作業現場まで。大工、あるいはそれに類した技術を持つ者は高給にて雇用」。
確かに、広場をぐるりと囲んでいる建物が一角だけない。大勢の人間がその辺りで動き回っているのが、魔法使いがいる場所からも見て取れた。時折、人が中央塔の下までやって来ては掲示を読み、建築現場へ向けて立ち去って行く。建築現場と反対の一辺をまっしぐらに目指す人々は巡礼者である。カゼールは智慧を司るイルズィー神の本殿がある。当然、神殿も大学を要する大規模なものであり、それに関連した建物群が広場の一辺を全て占めている。
「三食ベッド付きだとさ。よし、決まり」
魔法使いはぱんと手を打った。
「騎士殿は土方でもしてやがれ。俺はいい女を探しに行く」
「数日だけでも雇われるものなのか」
剣士が真面目な顔で疑問を呈する。魔法使いは、がっくりと項垂れた。
「おまえ」
首を振る。
「俺が嫌がらせを言ってんのが分からんのか」
翠玉と見紛うばかりの隻眼が魔法使いを見下ろす。やけに鮮やかなそれはするどく無機質な光を湛えていた。整っているというには険のある相にこの瞳である。大抵の子どもは剣士を見ると、魔神にでも遭ったかのように彼を遠くから眺めるか、泣き出すか、逃げ出す。決して悪人ではないのだが、外見は人を判断するに最もたやすい手段である。
「それは知らなかった」
剣士は涼しい顔で答えた。魔法使いの紋様に彩られた頬が、ひくりと痙攣する。何かもう一つ痛烈な嫌味を言い返してやろうかと彼は口を開きかけたが、剣士は構わずライファの轡を取って歩み出した。
「もう少し回ってみよう。まさかカゼールの全ての宿から締め出しを喰らうこともあるまい」
「あるかもしれんぜ」
やれやれ、と魔法使いも重い腰を上げる。
「なんなら賭けるか?」
「賭博はやらん」
あくまで生真面目な剣士であった。
2.
「へい親爺!客だぜ!」
魔法使いは自棄気味に叫びながら、ゲートハウスになっている玄関を潜り抜けた。中庭を突っ切り、酒場兼食堂になっている小さなホールへずかずかと入り込む。
「……」
主人はしばし魔法使いの貌をまじまじと凝視したが、不意に我に返ると営業用の笑顔で客に応えた。
「いらっしゃいませ。お泊まりでしょうか? お食事でしたらあと二刻程後から……」
「お泊まりだよ、お泊まり。野郎の連れが一人と馬が二頭」
「どうぞ。良い部屋が空いております」
親爺と言われる程年を重ねていない主人の言葉は予想外のものだった。
「ほお」
魔法使いが唸る。
「なんでも言ってみるもんだな。おい」
振り向いて彼は剣士に呼びかけた。
「泊まれるらしいぞ」
剣士が二頭の馬を連れて現れた。無言で厩に引いて行く。
「お名前をどうぞ」
宿の主人が帳簿を持ってきた。記入された名を読んで訝しげな顔になる。
「雷様に雨様ですか」
「おかしいか?」
魔法使いが嘲笑を浮かべる。
「いえ……どうぞこちらへ」
当惑した様子を見せながらも主人は二人を部屋へ案内した。ごゆっくりと言葉を残して早々に姿を消す。
「おかしいぞ」
開口一番剣士が言った。
「おまえに言われるまでもない」
魔法使いは、どさりとベッドに腰を降ろすと幾重にもぶら下げた首飾りを外して無造作に放り出した。黒い上衣も脱ぐ。ブーツから足を引っ張り出し、すっきりしたと言わんばかりに両脚の指を閉じたり開いたりさせている。だらけた格好になっても、額を隠す布は外さない。
「まあこんな所、普通なら相場の三倍払っても俺たちゃ門前払いだろうよ」
彼らを受け入れた宿は、ある程度の成功を収め、さらに貿易の販路を拡大するためにこの都市を訪れた商人や、神殿の質素な食事と寝床では満足できない小金を持った巡礼人が泊まるような場所だった。格付けをすれば中の上、上の下、といったところか。
引き換えこちらは、この暑いさなかに黒衣と数々の装飾品で身を固めたペテン師に、険悪な目つきをした隻眼の傭兵。実際はペテン師でも傭兵でもないが、とにかくどう見ても胡散くさい二人であることには変わりがない。このぐらい小奇麗な宿であれば、多少金を積まれても客にしたくない人種だろう。
「だったら何故泊まるのだ」
「宿探しにもいい加減うんざりしていたからな。どこかで息抜きでもしねえと。これぐらいお上品なところだったら、まず追い出しにかかると思ってたんだが」
要するに言いがかりを付けたかっただけらしい。何故言いがかりをつけたかったかと言えば、憂さ晴らしの為に喧嘩の原因が欲しかったからだ。
剣士は眉を寄せた。翠色の隻眼でじろりと連れを見る。大抵の者は怖気づいて目を逸らしてしまうが、魔法使いは肩を竦めただけだった。自分の左頬を指す。
「こいつだよ」
彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「妙な奴が入って来たんで驚いた訳じゃねえ。あの亭主、俺の顔を、見世物小屋の珍獣でも見るような目で見やがった。先史文明とやらの手品をお目にかけて欲しいんだろ」
何を簡素化したのか見当が付かない。強いて言えば稲妻が月を取り囲んでいるような幾何学模様が、赤銅色の肌に描かれている。彫った者が余程の熟練者だったのだろうか、誰の目にもあきらかな精巧なものであり、群青と銀の二色が鮮やかなグラデーションを成している。
「それについても気になっていたのだが」
と、剣士。
「なんだよ」
煩わしげに魔法使いが応じる。彼は窓枠に肘をかけ、小指の先で耳の穴の掃除を始めた。空色の目は窓の外を見ているが、焦点が合っていない。意識は耳掃除に集中しているようだった。
「この近くに学会の支部があるのだろう。にも関わらず、仲間らしき者はおろかその紋様を知っている者さえいないらしいのはどういう……」
魔法使いが外に向けていかにも愛想良く手を振り出したのを認め、剣士は口を閉ざした。こういう場合は九割九分九厘、視線の先に見目の良い娘がいる。
「聞いているのか?」
「我が『兄弟』は人間嫌いなのさ」
一応聞いてはいたらしい。外へ愛想笑いを振りまきながらも魔法使いは答えた。ただし揶揄の響きが言葉に秘められている。
「学徒が遺跡を住処にしているのは、おまえも知ってんだろうが。本で」
最後の一言は、言うまでもなく剣士に対する冷やかしだ。言われる方も慣れているので相手にしない。
剣士が仕入れた知識によれば、学会とは古代文明の復興を試みる知的集団である。人数はさほど多くない。各地に点々と散っている遺跡に住み着いて、古代の文化がいかにして営まれていたかを研究している。学徒に言わせれば、それほどに古代文明は現在のそれより優れている。顔に学会の象徴が彫られている以上、魔法使いも少なからず関係している筈だが、以前剣士が学会について尋ねたところ、返ってきたのは次の一言だった。「クソだね」。
「大抵の遺跡は町外れの、荒地やら洞窟やらにある。定期契約を結んでいる商人は要りような物でも運ぶだろうが、それ以外に連中とここの住民が顔を合わせる機会もないだろ。子どもが遊び半分で探検ごっこをするにも遠過ぎる」
「住民が何か頼みごとをすることも……」
「んなことある訳ねえだろ」
きっぱりと魔法使いが否定した。
「乞われりゃやるだろうが。それでも何故わざわざそこまで行く必要がある? 病気の治療も商売繁盛も色恋沙汰も呪いごとも、全部ここにある神殿か医者か、呪い師が引き受けようさ」
「神殿はともかく、その手の類は高額な報酬を要すると聞いているが」
魔法使いが剣士を見た。
「人間ってのはな」
空色の瞳に冷ややかな光が湛えられている。自分が人間ではないような口振りで、魔法使いは話した。
「個人ならそれこそ人によって違うだろうよ。だが、大勢が集まれば動く方向は大方決まっちまってるもんさ。学徒に接触するのは、おそらくさっき言った商人みたいなのだけだ。連中は奴らのことを変人の集まりだとか、何を考えているのか分からないとでも言うだろう。その場所がたまたま酒場で、話し手か聞き手のどっちかでも酔っぱらってりゃ、ガキや女をどこからか捕まえてきて得体のしれん儀式でもやってるって話になるだろうが。そんな噂が都市中に広がってみろ。遺跡で学徒が何をやっているかなんて誰も知っちゃいない。どこのどいつか、儀式の生贄になる危険も顧みずに一日半もかかって頼みごとをしに行くって言うんだ、ええ?」
魔法使いの語気が荒くなる。しかし、それが学徒たちに課せられているだろう不当な――かどうかは判断を付けかねたが――評判に対する怒りの為とも剣士には思えなかった。
「だが、一人ぐらいは実際に行ってみた者もいるだろう」
「おおとも、行っただろ。で、帰ってから連中を持ち上げるだろうが、周りの奴らは『おまえは運が良かった』の一言で終わらせる。行った本人もそうなのかと思うようになる。今まで何か所か回ったが、俺が出てきた所も含めてどこもかしこもそんな具合だ。めでたしめでたし」
剣士には多少独りよがりとも思われる筋書きで、魔法使いは強引に締め括った。普段から感情の起伏が激しくどこにいても喧嘩を始めてしまう若者ではあるが、それにしても自分が属していた共同体にすら大きな反発を抱いているらしい。
「私が言えた義理ではないが」
剣士は前置きをしてから、
「お主の兄弟たちはそんな誤解を解こうとはしないのか」
再び耳掃除に専念しようとした魔法使いが驚いて振り返った。
「誤解だと? 誤解を解く? おまえな」
呆れて首を振る。
「学会の人間を知らねえからそんな考えが浮かぶんだ。奴らは外に興味なんぞ持っちゃいない。文明を退化させた一般人にどう言われようと構やしないんだ。そとの人間を猿ぐらいにしか思ってねえ。あいつらが熱心なのは先史文明の残骸にしがみつくことだけだね」
二人がひょんなことから旅の道連れになって以来、まださほど時を経ていない。剣士は今更ながら、魔法使いが自分の過去をほとんど語っていないことに気付いた。おそらく剣士よりも。表面上の口数の多さにごまかされていたのだ。剣士自身がその手の事柄にあまり踏み込まないせいもある。彼自身、余程しつこく尋ねられない限りは自分の出生について話すことがない。
ここで口を閉ざした方が良いという賢明な考えが脳裏に浮かんだにも関わらず、剣士は自身でも理由が分からないまま問いを発した。
「そんなに学会を嫌っているのならば、何故その学徒として旅をしているのだ?」
魔法使いが石像のように硬直した。
と、思う間もなくいつもの様子に戻る。
「うるせえ」
彼はうんざりして剣士を指差し、その首を刎ねる線に沿って指を動かした。
「俺は学徒なんかじゃねえんだよ。これ以上くだらんことを訊いてみやがれ、こっから消しちまうぞ!」
喚いた途端、椅子に座っていた剣士の姿がかき消えた。
剣士の体重を支えていた椅子が消えた。
当然ながら重力の作用に従い、剣士は地面に尻餅をついた。
眉をひそめながら立ち上がる。
地面?
翠の隻眼が見開かれた。
見たこともない景色が広がっていた。書物で読んだことさえない光景が。
空が、汚水のように濁っている。雲とも違う得体の知れないものが網の目のように黒く張り巡らされている。
大地は見渡す限りひび割れ、剣士の他に立ち尽くすものといえばまばらな枯れ木だけである。
耳鳴りがする。
否。
微かな地響きを感じ、剣士は土煙の上がる地平線を凝視した。
「それ」が走ってきていた。
何者とも知れない。だがぶよぶよとしたそれが確かに自分を目指してまっしぐらに迫っているのが、何故か剣士には分かった。
強烈な敵意と共に。
見る間に輪郭がはっきりとしてきた。剣士は一つしかない目をさらに凝らす。
やはり分からない。
無理矢理似ている物を引き合いに出すならば、時間が経過して固形化の途中にある粘液で構成された魔物の死骸だろう。しかし「それ」と比較が許されるならば、剣士にとって魔物の死骸など仔猫よりも可愛げのある代物だった。大きさからして違う。小山ほどもあろうか。逃げても人間の脚力では到底間に合わない。また、例え斬れたとしても、あの不定形の塊に原型を留めぬまでに押し潰されるのは明白だった。
それでも彼は剣を抜いた。鎧を脱いでも、ベッドに入るときを除いて剣だけは常に腰に刷いている。片目を失い、名前もいでたちも変わり、短く刈っていた黒い頭髪も伸びたが、騎士であった頃からその習慣だけは変わらない。
何もせぬ死ぬよりはましだ。
青味を帯びた刀身が鏡の如く冴え渡り、周囲の景色を映し出す。
「それ」は視界一面を占めるほどに近付いていた。
半透明の塊の奥から、赤い網をまとった無数の巨大な球体が剣士を見下ろした。
眼球である。
剣士は死を覚悟した。いや、彼は覚悟した。
夢にも思わなかった醜悪な死に様を。
「クソ!」
魔法使いは叫んだ。短い金髪をかき混ぜながら悪態をつく。相手は壁に立てかけられた、布に包まれたナルバという名の杖だった。
「阿呆! いつ俺が実際にやれと命令した!」
『しかし、貴方は彼が消えるのを心から望んだ』
声ならぬ声には笑みが含まれていた。悪意と揶揄が入り混じっている。元来杖族は人間に好感を抱いていないが、ナルバは特に魔法使いを嫌っていた。彼が自分の所有者として相応しくないと考えているからだ。
杖を支配下に置く方法。それは所有者の生命力と知力でしかない。杖の糧は所有者の生命力である。あるいは電気。だが、杖が食料にできるほどの量の電気など、学会施設を除いた外界ではないに等しい。所有者は杖と契約を結び、部分的な命を与え続けるのと引き換えに杖の能力を行使する。
「俺が情緒不安定だと抜かしたのはテメエだろ、自分で指摘しといたことも忘れて何言ってやがる、このボケ! さっさと戻せ!」
杖が最も蔑むのは論理を理解できない者であり、最も嫌うのは己の論理的矛盾である。例え契約を結んでも言葉や意志によって杖を納得させられなくなったが最後、所有者と杖の関係は逆転する。精神力の弱い者などはたちどころに、単なる杖の食糧源と化すのだ。知性を持たぬ動物同然の存在か、または杖の操り人形となる。
己の落ち度を指摘され、杖は不承不承所有者の要求を受け入れた。
「それ」が消え失せ再び眼前に魔法使いの姿が現れた瞬間、剣士は瞬きをしてから息をついた。構えていた剣を下ろす。
「よう」
魔法使いが片手を挙げて迎えた。
「お帰り」
謝りもしない。
「ああ」
剣士は目を閉じて椅子に腰を降ろす。先の影響か、腰を降ろしたのは、椅子がきちんと下にあることを確認してからだった。剣を鞘に戻し、両膝に肘をついてその上に顔を伏せる。
「眩暈がする」
杖は余程手荒に剣士を引き戻したらしい。
飛ばされた方も、魔法使いと杖の不仲は知らされている。彼は怒るでもなく尋ねた。
「一体、私はどこへ追いやられていたんだ?」
「何があった。呼吸はできたか?」
「息はできた。気色の悪い空に、荒れた大地。無数の目を持つ、ゼリーのような巨大な生物。それに押し潰されるところだった」
「多分、ン・グァイ・ガ・ルウだろう」
全く耳にしたことのない単語を魔法使いが口にする。剣士は顔を上げ、覚えず鞘に納めた剣の柄に手を伸ばした。
ほとんど装飾の施されていない、くすんだ鉛色の剣。鞘に納められる直前、刀身は先程の輝きを失っていた。持ち主の闘争心を反映するらしく、常時は包丁代わりにもならないような鈍色をしている。宮廷から追放される前に、王家から密かに賜ったものである。追放処分を受けるほどのことをやらかしたが、それでも王は剣士から、この剣を取り戻そうとはしなかった。王家に伝わる伝承によれば、この世に斬れぬものがない驚異の剣だという。現にどれだけ酷使しようと刃を鍛え直す必要がなく、どれだけ生き物を斬ってもその体液が付着することがない。
しかしこれが、と剣士は思う。魔法使いが探し求めている「アルナージルの剣」だとはどうしても信じがたい。
「異界の神だ」
魔法使いの声で、剣士は我に返った。
「生きとし生けるものは己のみであらねばならぬ、てのが信条らしい。生者を見ればことごとく排斥にかかる」
「それで神といえるのか?」
半ば呆気に取られて剣士が問う。
「広義には。もっとも」
魔法使いは再び肩を竦めた。
「何でもかんでも広義に解釈すれば、人間を含めた森羅万象が神たりうるさ」
「何かお気に召さないことが……」
魔法使いの大声を聞きつけて飛んできた主人に剣士は、いや、と短い返事をした。
「おまえの娘だったんか。年の割にゃ気が利くようだな」
魔法使いがにやりと笑って主人の背後に目をやる。主人は驚いて振り返った。
「ハティジェ」
「さっき外で会ったぜ、な」
魔法使いが邪気のない笑顔を見せると、少女ははにかんだ笑みでそれに応えた。
「お声が聞こえてきたから」
父親と魔法使いを見比べながら小声で呟く。
「親父に教えたんだよな」
「うん」
頷いたが、剣士と目が合った途端さっと父親にしがみつきその後ろに隠れた。剣士はこのような反応に慣れている。このぐらいの年の娘ならとりあえず魔法使いが面倒を起こす心配はなさそうだと、いささか見当違いなことを考えていた。
「向こうへ行ってなさい」
娘を階下へ行くよう促す一方で、宿の主人は部屋に留まっている。
「何か御要りようのものがございましたら……」
「何をして欲しい?」
魔法使いが早回りをした。幼い少女に対するのとは真逆の、意地の悪い笑みを浮かべる。
「火でも吹くか、雨でも降らすか、それとも矢か? お望みとあらば石を蜥蜴に、花を孔雀に変えてやろう」
「滅相もございません」
宿同様に小奇麗ななりをした男は恐縮した体で首を振った。
「古代の上級魔術師様を見世物にしようなどという、そのような」
「古代の上級魔術師!」
魔法使いがおうむ返しに繰り返し、両手を広げた。上半身は袖のない下着をつけているだけである。両腕を広げると肩の筋肉が盛り上がった。胸板も厚い。それなりの恰好をすれば戦士と言っても通用する。いっそ服装を剣士と交換した方が、傍目からはしっくりとしたものになるだろう。剣士は貌ばかりでなく身体にも肉がない。同じ背丈の魔法使いより一回りも細いのだ。腕力に頼るだけの戦士でないことだけは一目瞭然である。
「へえ、ここじゃそう呼ばれてんのか。じゃ訊くが、古代の上級魔術師様がこんなだらしない恰好でベッドに胡坐をかいてると思ってんのか? なあ、おい」
最後の「なあ、おい」は剣士に向けられたものである。
「さて」
低く短く、剣士が応じる。威嚇するつもりなど毛頭なかったのだが、それだけでも主人はたじろいだ。
「何をおっしゃることやら」
「……まあいいさ」
魔法使いが鼻を鳴らした。
「こんなお上品な宿が、金を払うと言われたって俺らのような柄の悪い客を泊める訳ないだろうが。とっとと用件を言っちまえ」
「では単刀直入にお伺いします」
主人が姿勢を正した。尊大に、魔法使いが顎でもう一つの椅子を指す。商売柄、主人も嫌な顔ひとつしない。恐れ入りますと言って彼は腰を降ろした。ただし、強面の剣士と向かい合う形になるのであまり嬉しそうではない。
もちろんそれは魔法使いも承知している。性質の悪いからかいだと剣士は内心で天井を仰いだ。
「御兄弟方に関して気になるお話が耳に入りましたもので、それは事実なのかと」
兄弟は学徒を指す。剣士同様に、宿の主人も魔法使いを学徒だと思っているようだった。
「奴らの評判が悪いのはどこも同じだね」
「新月の夜に怪物が出没するのでございます」
「それが連中の飼ってる愛玩動物とでも言うんじゃねえだろうな」
「それがそうでして」
「毎月同じ時間に現れて」
「はい」
「人間を食っちまう訳だ」
「然様で」
「後に残るは食い散らかした人間の死骸や動物の毛、血の足跡」
「そうです」
「だが一人だけ正体を見た奴がいるんだろう」
「さすが上級魔術師様」
主人が感嘆して声をあげた。
「もうご存じなのですか」
魔法使いが苦い顔で答える。
「そこらに転がってるような、典型的な噂を言ってみただけだ。冗談だろ」
「それが本当なのでございます。手足や頭を食い千切られた死体が何体も見つかっております」
「実際に事件が起きたのであれば、市が調査に乗り出している筈だが」
剣士が言葉を挟む。魔法使いも頷いた。
「そうだな。支部……学徒が住む遺跡に勝手に踏み込めばいい。俺は見込み違いだと思うがね。それで証拠が見付からなかったら、次の新月の夜に警備を強化するしかない。狙われるのはさしずめ、その怪物の正体を見た奴だろうが」
「それが、市議会は尻を叩いておりますが、自警団がなかなか動きませんで。都市の警備には力を入れているようですが」
大抵の都市は大なり小なり自治権を有している。国家の規模から考えてこの近辺では滅多にないが、国からの信用が大きければ軍の保持も許される。カゼールもこの辺りの市の例に漏れず、壮健な男子を集めて自警団を組織しているのだろう。
「そんなに市民は学徒が恐いのか」
魔法使いが嘲笑を浮かべた。そら見たことか、と剣士に目配せする。所詮人は噂に左右されるという、先の話を指しているのだ。しかしそれも無理はない。自警団も訓練を行うとはいえ、剣士の故郷で行われる、国を挙げての徹底したものにはなるまい。恐怖を士気と使命感に変えるところまで辿りつくのは難しい。
「代わりに、俺に確かめて来いと言いたいんだな。てめえ、何考えてやがる? こいつを」
魔法使いはこれみよがしに左の横顔を主人に見せた。
「見知った上で? 疑っている組織の一員に事を確かめさせようって言うのか」
「無論存じております」
主人は頷いた。
「私、こう見えましてもひとときは学徒への道を目指した身でして。学会に関しても少しばかり存じ上げております。貴方様始め御兄弟はむやみやたらに人を害するような方々ではないことや……」
壁際の細長い包みに目をやる。
「杖を所有できるのは、学会の中でも高位にある限られた御方のみだとか。そのお力でもって、何とぞお助け願えないかと」
魔法使いが眉間に深く皺を刻んだ。杖を横目で睨む。ナルバは沈黙を保っていた。
主人の言わんとすることが分かった。学会が本来人に危害を加えるような団体ではないと彼は知っている――もしくは思い込んでいる。しかし事件は起きた。ここの学徒たちは規律違反を犯しているのだろう。魔法使いが視察に来たのがその証拠だ。どうせ確かめに行くのならついでに結果も教えて欲しい。
「俺はおまえが思ってるようなお偉方じゃないぜ。あんまりにも出来が悪いんで本部から追い出されたのさ。だからここにも監査で来た訳じゃない」
「御主人」
再び剣士が口を挟んだ。
「役人ではなかろう。何故それほどまで事件の解決に熱心なのだ」
「はい」
宿の主人はテーブルの向かい側に注目し、鋭い翠の隻眼にぶつかると視線を落とした。明らかに魔法使いよりも剣士を恐れている。
「確かに私めは一介の宿屋でございます。父を亡くしましたので、家を継ぐ為に自警団からも退きました。しかし怪物を見た者がいると申しましたように」
「おまえか」
魔法使いが尋ねる。
「いいえ」
主人は否定した。
「先程お目にかかりました、娘でございます」