24、25
24.
「女。老人の命、惜しくはないのだな」
ベリスはこう言うと沈黙した。ナウシズが現れるのを待っているのだ。
「出たらぶち殺すぞ」
魔法使いが走りながら声に出して念じる。
『その心配はなかろう、あの娘は聡明だ』
狼が請け合った。
「娘って年か、年増だぜ」
『我から見れば汝も子ども同然ぞ』
「へっ」
魔法使いは唇の端を歪めた。
「そのガキに頼らなきゃならねえんじゃ、大口叩けねえよな」
一直線に伸びる裁判所の廊下を突っ切り、反対側の窓から身を乗り出す。今度は建築中の建物が現れた。新市庁舎である。
「出て来ぬか」
ベリスの声が聞こえた。
「ならば、こちらから出向いてやるわ」
狼の言った通り、ナウシズは愚を犯さなかったようである。
仮に渡されただけの足場へ移り、三階の床に飛び移ると、魔法使いは広場側へ上半身を乗り出した。大きく息を吸い込み、叫ぶ。
「どっち向いて喋ってやがる、馬鹿め!」
我ながら間が抜けている。が、時間稼ぎをする以上、残虐公に己の居場所を知らせ注意を引きつけるしかない。
今にも旧市庁舎の玄関を破壊しようと鉾槍を振り上げたベリスが、その腕を止めた。魔法使いを見上げる。冷え冷えと光る炯眼が、魔法使いのいる場所からでも見てとれた。
黒々とした髭の下で、顔筋が動いた。
「良かろう」
声は嗤っていた。甲冑姿が音をたてて近付いて来る。
「乗ってやろうではないか。が、己が身を犠牲にして後の二人を逃がしたところで、遠からず彼奴らも後を追うぞ」
「てめえが死ね!」
言い返して魔法使いは顔を引っ込めた。さらに隣の建物へと向かう。風の精に詠いかけようと口を開いた瞬間、ずん、と新市庁舎が縦に揺らいだ。身体が突き上げられ、床へ投げ出される。
「もう来やがったのか?」
魔法使いは起き上がりながら驚いて尋ねた。杖が答える。
「ベリスは地を突いた。先の振動はその衝撃波と思われる。両隣の建物に被害はない』
「なんだと」
魔法使いが呻く。
「地震まで起こすなんざ、召喚書に書いてなかったぞ」
『炎を封じられ本気を出したというところか』
「この、役立たずどもが」
青年は罵った。
「奴の弱点かなんか、分からねえのか」
『ハルベルトが構えられた』
とナルバ。
第二波は魔法使いの予想を遥かに超えていた。やぐら状に組まれた足場が空中分解し、落下する。石の間に流し込まれた石膏に裂け目が走るのを見て、彼は泡を食った。
『崩れるぞ』
「いちいち実況するな」
狼に噛みつきながら、激しい揺れの中、降ってくる健在を躱して端へ辿り着く。ナルバの報告通り、揺れているのは新市庁舎の真下だけらしい。
「くそ」
魔法使いは舌打ちをした。眼前に石の壁が立ち塞がっている。商館の妻切り側に窓はない。都市の建物は隙間なく隣接しているのだ、これが普通である。
魔法使いが立っているのは三階の床、商館は四階建てである。しかも彼の頭上には稲光する雲が見えている――屋根がない。
『どうする』
狼が心配げに尋ねた。下へ降りれば瓦礫の下敷きになるのは目に見えていた。
青年は自棄を起こし、しかし完璧な発音でもって風精を呼んだ。
一瞬、魔法使いの周囲に強風が巻き起こった。範囲は狭いが、強さはナウシズが起こした砂嵐の比ではない。竜巻である。塵芥、縄、厚い木の板、崩れた切石までもが、宙に吹き上げられる。
風に乗って、などという格好の良い描写とは無縁である。ぼろぼろの黒衣をまとった身体も空中に巻き上げられた。
竜巻が消滅する。
「お」
杖を掴んでいる魔法使いが、顔を上に向ける。
急な斜面が頭上に迫っていた。真っ逆さまに頭から屋根へ墜落しているのだと悟る間もない。魔法使いは反射的に空いている右手で屋根飾りを掴んだ。全体重が落下の勢いと重力によって倍加し、腕一本に圧力がかかる。腕の骨が軋んだ。
折れる寸前で、魔法使いは倒立した身体を前に転がした。止まらない。急な斜面をそのまま転がり落ちる。
屋根が終わった。縁を掴んで彼は墜死を免れた。
「良い様だな、小僧」
若者の背に、残虐公の笑いが叩きつけられる。埃まみれ、切られ放題とはいえ、魔法使いがまとっているのは黒衣である。夜に溶け込み見分けるのも困難な筈だが、朱の兵士には屋根からぶら下がっている魔法使いがはっきり見えているようだった。
「そのような高い場所ばかりにおらず、地に降りて直に余の相手を務めるが良い」
言って、朱の巨人は商館の壁に漆黒の刃を突き立てようとした。その動作がぴたりと制止する。
黒々と密集した髭の間から、食い縛られた歯が覗いた。息と一緒に怒りを押し出す。
「……犬め」
腕だけではない。両脚も地面に縫い付けられたかのように、持ち主の意に反して動こうとしなかった。
その隙に、魔法使いが屋根の上によじ登る。残虐公は歯噛みして、生意気な若者が視界から消えるのを見送るしかなかった。
「馬鹿野郎」
自分以外の全てを罵りながら、魔法使いは逃走を開始した。
「俺は魔法使いだ。頭脳労働者だ。それがなんで、飛んだり跳ねたり転がったり吹っ飛ばされたりしなきゃならねえんだよ」
地上に降りると青年は、広場の反対側を目指し、建ち並ぶ建築物の裏手を走った。新市庁舎の対面には、イルズィー神を祀る本殿がそびえ建っている。
「野郎、あの馬鹿でかい神殿の下敷きにしてやる」
『ベリスが動き出す。私では制御できない』
「狼はどうした」
『ベリスの内部で弱まり、消滅寸前で探知不能になった』
何個もある目玉が輝きを失いつつある。
魔法使いが眉をひそめた。
「どういうことだ、死んだのか」
『不明。限界だ』
ナルバの目から、光が消えた。ベリスの支配を諦めたのだ。
「犬汁にできなかったのは残念だが……」
広場側からうねりが押し寄せた。よろめきながらも魔法使いはほくそ笑む。
「奴め、苛立ってやがる」
『しかしまだ異界へ飛ばせるまでに弱っていない』
「今からそれをかましてやるんだよ」
魔法使いは広場へ出た。呼吸を整え詠唱を始める。
地が揺れ、重い唸りと共に石畳を亀裂が走った。魔法使いから遠ざかるほど裂け目は大きく口を開き、遠く立つベリスの足下へ届いたときには、亀裂は飛び越えるのが不可能なまでに幅を広げていた。
朱の兵士が夜よりも暗い底知れぬ空間を見下ろし、割れ目を辿る。視線の先に、あの若造が立っていた。いかにも馬鹿にしていますと言わんばかりに手を振って寄越す。
「地震はてめえの専売特許じゃねえぞ!」
ベリスは足を踏み出した。もう、邪魔をする者はいない。目障りな狼は、この世界とあまりにも異質な自我の中に留まったためだろうか、一定の時間を越えた途端、急速に力を弱めベリスが追い出したときには姿さえ失われていた。魔法使いの手にある杖も、単独では魔神を支配できぬと察して大人しくしている。
ベリスが追ってくるのを見定めてから、魔法使いは神殿の中へ入った。がらんとした空間が広がっている。遠い正面の壁を背に、開いた書物を手にした巨大な男の彫像がこれまた巨大な椅子に鎮座している。
『ベリスは神殿ごと破壊するかもしれない』
「どうだか」
魔法使いの声が高い天井に反響した。だんだんと足取りも早くなる。
「ご親切にも奴を呼び出してやった恩人が、あの死に様だぜ。顔に傷を付けてやった俺に、んな楽な死に方をさせるつもりなんかないだろうよ。散々拷問された上に、馬鹿でかい足にぐちゃぐちゃに踏みにじられて血みどろの挽き肉になるってところじゃねえのか。まあそこが狙い目になんだが」
目を付けた者は必ず己が手で虐殺する。でなければ業を煮やした魔神はとっくに、辺り一帯に大地震を起こすか、あるいは魔法使いと剣士が刃向った時点でカゼールを火の海にしていただろう。
魔法使いは講堂を横断し、二つある両隅の扉の片方を開けた。当然のことながら神官の控室も無人である。裏口から外に出て、彼は時間が許す限り神殿から遠ざかった。
「……と天空、そして地上において、怒りと力を司るものよ……」
唇から低い旋律が流れ始める。詩は、今まで唱えたどれよりもはっきりと詠われ、その上優雅とさえ響きを帯びていた。日頃の言動からかけ離れたこの声を、剣士が聞けば意外に思っただろう。これから呼び出すのは、精と呼ばれるだけの意思を持たぬ末端の存在ではない。
周囲が明るくなる。光精とは別のものが大気にひしめき合い、白く輝き出した。が、万が一にもベリスに見えることはない。魔神だけではない。幾つもある杖の目をもってしても光は見えない。ものの精を見られない者にとって、依然として路地は暗闇である。
針を刺されるような刺激が全身を走る。水中にいるかのように、短い金髪が揺れた。黒衣の裾がふわりと持ち上がり、光になびく。
三個の瞳が、空の一点を見つめた。直接見る太陽にも劣らぬ輝きが魔法使いの目を射る。が、視神経が焼き切れることはない。青年を照らしているのはある意味で、現実の光ではない。
「そう」
赤銅の貌に笑みが浮かぶ。
「また、俺だ」
眩しさに目を細めもせず、魔法使いは、名を持たぬ雷神に対して己の作り上げた詩を披露した。
諾、と意思が伝えられる。雷の名は伊達ではない。風水地火光、五大元素のどの精霊からも不興を買っている魔法使いだが、雷神となれば話は別だった。
「感謝する」
魔法使いは不遜な笑みを浮かべた。
人間が取るにしては神と呼ばれる存在に対して横柄に過ぎる態度である。が、気紛れで荒々しい雷神はしかし、気分を害して黒衣の青年に落雷を下すこともなかった。時折素晴らしい詩を詠み上げる三つ目の青年を、雷神は存外気に入っている。
魔法使いは詠唱を始めた。
皮膚を刺す感覚はますます強くなっている。
黒衣の若者は本当にやるつもりだ。
あれを発動させようと思ったら、雷精どころではなく神と位置づけられる存在の力も借りねばならない。あれだけの雷精を動かす人物である。彼なら雷を司る神とさえ意志疎通できるのかもしれないが、もし対話しているのなら、今頃彼の全身は、ナウシズの想像をも絶する痛みに苛まれているだろう。名を持たぬ雷神は人間などのために、己から放射される力を鎮めはしない。
たった半日で中心街の何割かを吹き飛ばす詩を作り上げ、なおかつそれを発動させうる若者の才能に、彼女は戦慄と驚異を覚えた。が、破壊しか能がないと自ら宣言した魔法使いが、自分をも含めた誰かを保護するような術を同時に発動させられるとは、ナウシズには考えられない。
どこまで有効かは分からないが、何もせねば若者の術によって三人が死ぬのだけは間違いがない。
剣士を送り出してから作り続けていた詩を、彼女も口ずさみ始めた。
神殿の中に、魔法使いの姿はなかった。
朱の兵士は怒りに任せ、鉾槍で床を貫いた。建物全体が悲鳴をあげ、天井から石と木の破片がぱらぱらと降り注ぐ。
「出て来ぬか!」
大音声が虚しく神殿に響く。ちょこまかと走り回っては隠れる黒い虫けらを燻し出そうにも、今は炎を封じられている。
ベリスはしばし何もない空間を睨んだ。兜の下で光る目が、思案の色を浮かべる。
要は隠れる場所をなくせば良いのだ。あの黒い若造、あれほど動くのであれば、多少の地震で死ぬこともあるまい。剣使いをこの手で苦しめてやれぬのは残念だが、放っておいても遠からず死ぬ。まだ一度も姿を見せぬ女魔術師の行方は、三つ目を捕まえて吐かせれば良い。あのギルドの長にしたように、とベリスは残虐な笑みを浮かべた。生きが良い分、痛めつけ甲斐もあろう。楽しむ時間もまた増える。
魔神は地を揺るがす漆黒の刃を振りかざした。怒りに任せてではない。
カゼールを廃墟にするのだ。
魔法使いは光の真っただ中に立っていた。見える者が外から見れば、黒衣の青年は眩しい輝きに抱かれているように見えるかもしれない。実際、名のない雷神は魔法使いの手助けをするべく、彼を包むようにして地上に留まっている。
目を開けていても、路地裏の風景は映らない。白い光の洪水だけが、点にまで瞳孔の縮んだ三個の瞳へ際限なく流れ込んでくる。
痛い。身体の表面で幾つもの青白い火花が散り、彼の周りを巡り走っては消える。帯電し、全身の毛が逆立っている。
依然として針で刺されるような刺激を絶え間なく受けながら、魔法使いは長い凄烈な詩を詠い続けていた。無意識のうちに痛む右腕が上がり、長い指先は雷精の集中している天の一角を差す。
通常の人間ならば、詠唱はおろかまともに考えることもできない環境である。が、魔法使いの意識はすっきりと冴え渡っていた。幼い頃より苦痛は彼の友である。旋律に僅かな乱れもなく詩を詠う一方で、彼は唇の片端をつり上げ笑った。
こうでなければ。
他自然の神との交流などやっていられない。第一、相手が神といえども頭を下げて願いを聞いてもらうなど、彼は願い下げである。
雷雲は上空に分厚く重なったままである。魔法使いが指差す延長上、熱のない光が輝き暗い雲を照らしている。あそこは生物の存在できない領域だ。少しでも触れれば感電死を免れないだろう。
冷たいものが魔法使いを濡らし始めた。すぐに雨足は強くなり、詠唱を続ける男に大粒の雫を叩きつける。
足の下は熱い。地素が急激に呼び集められている。大神殿から伝わる熱い急流をブーツ越しに感じ、魔法使いは笑みを深めた。
面白い。
強い光に包まれた赤銅の貌に影はない。が、瞳孔の収縮した明るい瞳とあいまって、笑顔は一種凄惨な様相を帯びた。
やってやろうじゃねえか。
光と痛みがますます強くなる。詠唱を続けながら魔法使いはナルバに指示を下した。
ベリスが地震を起こす瞬間を知らせろ。
『危険だ』
杖が難色を示す。所有者の意図を、ナルバは察していた。自身と同時に魔術を発動させ、力を競り合おうというのだ。
『貴方の魔術だけでも我々は命の危機に晒される』
「構やしねえ」
魔法使いが声に出して応える。詠唱は終了していた。あとは引き金を引くだけである。
「死んでも勝ちゃいいんだ」
自分が死なないと信じているからこそ吐ける台詞である。この確信がどこから来るのか、魔法使いの心を読む杖さえも分からない。このような状態の所有者にどんな圧力をかけても無駄であることを、ナルバは経験から熟知していた。無謀な主を呪いながら、杖は魔神を監視する。朱の兵士は暗い神殿の中央に立っていた。ハルベルトを持ち上げ漆黒の刃を地に向けて、その瞬間を待っている。
朱の甲冑がぴくりと動いた。
『来る』
魔法使いの笑みは消えない。
彼は、右腕を地上へ振り下ろした。
剣士は外へ飛び出したものの、呆気に取られ立ち尽くしていた。
視界の利かない夜である、見間違いかと思ったがそうではない。
隣の建物が消えていた。その隣の、建築中の新市庁舎もない。さらにその隣に並んでいた筈の商館もなくなっていた。
ひび割れた石畳に布のようなものが打ち捨てられている。よもやという思いが剣士の心をよぎった。布の下から出てきたのは見知らぬ老人だった。ギルドの長ではない。
稲妻が閃いた。一瞬、中央広場の全域を照らし出す。大きな亀裂が石畳に地獄への入口を開いていた。裂け目の向こう、遥か遠く向かい側の大神殿へ入る朱の人影が剣士の隻眼にも映った。彼は駆け出した。豪雨が降り始める。
こころなしが全身の肌がひりひりする。高密度に集合した雷精のためだとは露知らず、剣士は昼間の後遺症だろうと解釈した。魔法使いの姿は見当たらない。まだ死んでいなければ良いが、と思った瞬間である。
何が最初に起こったのか分からない。おそらく同時だったのだろう。
視界が白く輝いた。
超弩級の轟音が降った。
地が盛り上がり、波打ち、陥没した。
凄まじい風が身体を叩いた。
25.
息が出来ない。
魔法使いは空気を求め、両手をがむしゃらに動かした。身体の上に乗っている物を無我夢中でかき分けて地上へ身を起こし、思う存分息を吸い込む。舞い上がった埃も共に気管へ入り、彼は激しく咳き込んだ。
「ナルバ」
返事がないところから察するに、どうやら気絶している。自力移動できない分、杖族は人間よりよほど頑丈な構造をしている。魔法使いが生きていて杖が死ぬことはあり得ない。
黒い空には星が瞬いている。雷雲は跡形もなく消え去っていた。雷精も先の魔術で力を出し切り霧散した後である。雷神も魔法使いの傍らから消え去っていた。
魔法使いはぐるりと周囲を見回した。
かつてあった中央広場程度の大きさだろうか。神殿を中心とした半径その範囲内には、何も残っていなかった。石畳の破片すらない。中央の窪んだ荒地が広がっているばかりである。魔法使いは、その深い窪みに転がり込んでいた。
二つの目では見えないだろう、荒地の上を見渡す。荒地の外側にある建物も全て、神殿を中心とした放射状に薙ぎ倒されていた。地震による隆起は見られない。亀裂もない。
「勝ったな」
青年はにやりと笑って呟き、身体を覆う土くれを払いながらのろのろと立ち上がった。あれだけの魔術を発動させた直後である。流石の彼も、腕を持ち上げるのさえ面倒な程に疲れ切っていた。
「……」
自分が無事であることに、改めて気付く。雷神の加護だとすれば、生き残っているのは彼だけの筈である。旧市庁舎の辺りを改めて見るが、やはりものの見事に崩れている。剣士とナウシズの二人は、運が良ければ生きているだろう。だが、神殿に近い所にいたならば確実に死んでいる。
「しまった」
魔法使いは呻いた。
「どうやって剣を探せばいいんだ」
『……雷』
杖の軋んだ声が、魔法使いの頭へ響いた。
「どこだ」
言われた場所へ行き、土を掘り起こす。他には小石と建材の破片らしき塵、地面を埋めているのはそんなものばかりである。
「ベリスは」
『至近距離にいるが把握できない』
土や埃のこびりついた顔に緊張が走った。もう一度見回すが、動くものは見当たらない。
「いねえぞ」
『殺意と憎悪、強固な意思を探知している』
ナルバは危機感に捕らわれていた。魔法使いにもそれが伝染する。荒地の中から杖を引っ張り出して彼は尋ねた。
「今すぐ飛ばせるか」
『困難だ』
「おい」
魔法使いは上空を仰いだ。
「もう後がねえんだぞ。これだけぶちかまして」
口を開いたまま彼は言葉を切った。ブーツ越しに足首が締めつけられている。
下を見た魔法使いの顔が、初めて恐怖で引き攣った。
朱の籠手に覆われた巨大な手が地面から生え、彼の足首を掴んでいる。
荒波の音をたて、魔法使いの下の土や瓦礫が持ち上がっては流れ落ちる。それと共に、彼の身体も乱暴に足を上にして逆さ吊りにされた。
「……見えたり」
表情は見えない。が、魔法使いは残虐公がぞっとするような笑みを浮かべているのを容易に推測した。
「犬ころに加勢した魔法使い殿は、哀れな人形か、はたまた人造の玩具か」
三個の目が大きく見開かれる。
「てめえ」
不意打ちである。詩を詠ずるのも忘れ唖然とした魔法使いを、ベリスは軽々と振り回し地面に叩きつけた。
呻きながら起き上がる魔法使いの鼻先に、鉾槍の刃が突きつけられる。長い柄の向こうで、色の定かでない両眼が残虐な光を湛えて青年を見下ろしていた。
驚くべきことに、甲冑はどの部分も一つとして外れ飛んでいなかった。しかし、継ぎ目という継ぎ目から、黒い液体が幾筋もの川を作って流れ落ちている。身体的に大きなダメージを負ったのは間違いない。
「ほう」
傷と髭と黒い血に覆われた貌が動いた。地の底を這うような声に、愉快げな響きが入り混じっている。
「この程度で呪文を唱えるのも忘れるとは、余程己が出生を気に病んでいると見える」
漆黒の刃を前に、魔法使いは身動きできない。したが最後、地面に串刺しにされる。青年が詠おうとするのを察すると、残虐公は嗤いながら鉾槍をくるりと回転させ、長い柄で彼を横合いから殴り飛ばした。
「己が兄弟を殺したときには、さぞやすっきりしたであろうの」
「笑わせんな」
魔法使いが内心を隠してせせら笑う。が、脇腹の痛みに顔をしかめた。
ベリスの言う「兄弟」が学徒を指しているのではないことが、彼には分かる。
四肢のないもの、頭のないもの、身体が蛇のように細長いもの、その他異様な姿をしたものたちが、水槽の中から空ろな眼差しを三つ目の少年に投げかけている。その光景を思い出し魔法使いは吐き出した。
「あんなもん、俺の兄弟なんかじゃねえ」
彼らの額――額がある者にも、第三の目があった。
「そうかもしれぬ」
ベリスは嘲笑を浮かべた。肉体へ加える苦痛より、言葉によるそれの方が魔法使いには効果があると、残虐公は彼の一生を見通した瞬間に悟っていた。
「だが、学会とやらに作られた点においては、その杖とさえ、そなたは兄弟と言えるのではないか、人形よ」
言って、ベリスは魔法使いの胸を踏みつけて地面に固定した。圧力に耐えかねて胸骨が悲鳴をあげる。その気になれば砕くぐらい、造作もないだろう。しかし、残虐公は時間をかけて徹底的に生意気な三つ目の若造を心身共に傷めつけるつもりらしかった。
くそ爺、と魔法使いが罵った。朱の魔神から愉悦は消えない。
「喜べ。最初にその化け物の印を余が潰してやろう。その額の目をな。それからもう一つの印だ。その紋様が二度と浮き出ぬまでに顔を切り刻んでくれる」
鉾先が魔法使いの額の上へ移動した。
「造りものの分際で、ここまで余を追い詰めようとしたことは褒めてやろう。ならば、こちらからもそれなりに返すのが礼儀であろう」
ハルベルトは、槍の穂先の片側に斧のような幅広の刃が、反対側に鋭い鉤爪がついた形状をしている。横に構えられれば、首を振っても逃げ場はない。手で止めようものなら指もろとも首を飛ばされるのがおちである。
光を吸い込む黒の刃が降った。
魔法使いは目を閉じなかった。
細長いものが視界を横切る。
がくん、と鉾槍の軌道が上に逸れた。勢いはそのままに、魔法使いの頭頂すれすれの位置へ黒い刃が突き刺さる。
兜の下の両眼が驚愕に見開かれた。
「生きておったか、剣使い!」
ベリスは真っ二つに切断された太い柄を斜めに打ち下ろした。長剣はそれも斬り払い流れるように弧を描くと、今度はまっすぐに、甲冑で覆われていない唯一の箇所、眉間を貫いた。
「……」
巨人が二、三歩よろめく。魔法使いは魔神の足から解放された。
ベリスは倒れない。剣を掴んでぶら下がる格好になった剣士が、黒い血に濡れた甲冑を水平に踏みつけるようにして刃を引き抜きにかかる。
「そいつはいいから早く離れろっ」
思わず魔法使いは叫んだ。ぐずぐずしていては捕まえられる。しかし、剣士は剣を手放そうとしなかった。彼にはこれしかない。満身の力をこめて引っ張るが、魔神の固い頭蓋を貫いた剣は、徐々にしか出て来ようとしない。
甲冑の下の目から、鼻孔から、どっと黒い液体が溢れ出した。
「……許さぬ」
地獄からの声とはまさしくこのようなものに違いない。ベリスは剣を引き抜こうとしている痩身を両手で掴むと、ぎりぎりと締め上げた。みし、と嫌な音が剣士の身体から上がり始める。
褐色の貌が苦痛に歪んだ。それでも剣は手放さない。
彼には、これしかないのだ。
『やってみるが良い』
聞き慣れた、豊かな声が頭の中に響いた。
狼だった。
『あれは夢ではない、思い出さぬか? 汝は剣の正当な継承者となったのだぞ』
狼のものではない、奇妙な声の記憶が蘇る。
剣が喋る訳なかろう。
肋骨をへし折られつつあるというのに、剣士は至って冷静な意見を返す。
『死ぬかどうかの瀬戸際で常識も何もなかろう』
狼の方がよほど焦っていた。
『とにかく、早く試せ』
確かにやらないよりはましだろう。
「吸い取れ……」
音をたてて肋骨を折られながら、剣士は半ば呻きながら命じた。
細い刃が、さらに青く輝き出した。常の、光を反射する冴えた青ではない。それ自体が発光しているとしか言いようのない輝きである。
残虐公の貌の線が見る間に倍加した。傷ではなく、皺のために。髭の黒が灰色――黒い血染めの白髭に変わる。それと平行して、剣士を締め上げる力もあっという間に弱まる。
〈スプラグレ・ガズウィルよ。どこまで対象の生命力を吸い取るか〉
あの妙な声が剣士に尋ねた。
尋ねられても返事に困るが、幸い敵は死んでも何ら差し支えない相手である。
「可能な限り」
無慈悲に答え、剣士は再度剣を引き抜く作業を開始した。
「……や、やめぬか」
ベリスが掠れ声で、悲鳴とも威嚇ともつかない声を発する。自らも眉間に刺さった剣を抜こうとするが、もはやその力も残されていないようだった。
苦労して剣士が長剣を頭蓋から引き抜く。額からも黒い血がどくりと溢れ落ちた。今やベリスは甲冑の重さにさえ耐えられず、荒地の上に崩れ落ちている。
「……おい」
事の成り行きを見守っていた魔法使いが、半ば茫然として呟く。
「やっぱり俺の見込んだ通りじゃねえか。そいつ絶対『アルナージルの剣』だ」
『今なら飛ばせる』
「よし、やれ」
杖の呼びかけに彼は即座に応えた。剣士は自分の役目が済んだと確認するが早いか、魔神を見送ろうともせずある方角へ駆け出した。
「待て、余をどこへやるつもりだ」
「知るか」
自らも念じながら魔法使いが答える。本当に知らないのだ、答えようがない。
「せめて魔界へ戻せ」
ベリスの口から想像だにしなかった懇願めいたものが飛び出す。魔神にとっても、どことも分からぬ異次元に飛ばされるのは恐怖であるらしい。生存可能な空間かどうかさえ分からないのだ。
魔法使いは口元に笑みを浮かべた。
「さっさと行っちまえ、くそ爺」
「……」
傷と皺、無数の線が刻まれた顔が、疲労した青年の顔を睨み据える。
「では、良いことを教えてやろう」
憎悪に光る落ち窪んだ炯眼は、生気を吸い取られる前と変わりない。
「剣使いの若造、あやつはさして長く生きられぬ。生まれ故郷にも戻れず汚名を着せられたまま、遠く離れた異国で死ぬが良いわ」
魔法使いは返事をしない。彼は目を閉じて、ひたすら念じ続けていた。
「三つ目の人形よ、そなたは長く生きることになる。うんざりするほどにな。曲がりなりにも人の感性を持つ者ならば耐え難い話だが、何、心配はいらぬ」
顔の皺が邪悪に蠢いた。笑っているのだった。
「その前にそなたは、一度目の死を迎えるのだからな」
赤銅の端整な顔が微かに痙攣する。青年は、頭では理解している。いくら過去見を正確に出来たとしても、同じように未来を予見することは不可能である。時間の流れは無制限に枝分かれし、また合流している。予見や予言によって示されるのは、可能性のほんの一部にしか過ぎない。
消えろ。
消えろ。
消えろ。
「それから先の人生は何も感じることもなくいられる。何もな。喜びも、怒りも、悲しみも」
「死に損ないっ、いい加減とっとと失せやがれ!」
魔法使いが爆発する。
怒鳴り声と共に、朱の甲冑は消え失せた。恨みのこもった声だけを残して。
「痛みさえな……」
広い面積を一瞬で吹き飛ばし瓦礫の山を築き上げるような凄まじい現象に巻き込まれたにも関わらず自分が無事でいる訳を、剣士は知っていた。見えない力に、彼は保護されていた。岩さえ粉々に砕いた雷光を直接浴びても、彼は傷一つ負わなかったのだ。
剣士は倒壊した旧市庁舎の前まで走ってくると、呼吸を整える間も、折れた肋骨を庇う手間も惜しんで、瓦礫の山を掘り起こし始めた。
「ナウシズ殿!」
探し求める者の名を呼び、手当たり次第に瓦礫を取り除く。微かな声を聞きつけると若者はやっきになって、石と木でできた建物の残骸を拾っては放り出し、拾っては放り出すのを繰り返した。
剣士の手に、女の荒れた指先が触れた。続けて腕が、草色の髪と尖った耳が現れる。傷を負った痩身のどこにそんな力があるのかという腕力を発揮して、剣士はナウシズの身体を引き摺りだした。
「ありがとうございます」
弱々しい声で森の民が礼を述べる。腕の中の躰は冷たい。
「私こそ助けられた」
生き埋めになっていた者と助け出した者が交わす会話にしてはいささか悠長だが、剣士は真剣だった。
「体力を返したいのだが、どうすれば良いのか分からないのだ」
ナウシズが微笑む。
「私はしばらく休めば……」
最後まで言い終えずに、彼女は瞼を閉ざした。
「ナウシズ殿」
返事はない。閉ざされた瞼も唇も、抱きしめた身体のどこも全く動かない。
「ナウシズ殿!」
「寝てるだけだぜ、そいつ」
頭上から声が降る。剣士は、森の民を覗き込んでいる魔法使いを見上げた。
「本当か」
魔神と相対していたときには無表情を貫いていた翠の隻眼が、不安を隠そうともしない。魔法使いは顔をしかめた。
「ああ」
背を向け、伸びをしながら瓦礫の山を降りて行く。急に不機嫌になった理由は魔法使い自身にも分からない。
「脈取ってみな。体温が低いのは自分の力まで治癒魔術に使ったせいだ、多分」
剣士はほっそりとした首筋に手を当てた。弱いが、安定した鼓動が伝わってくる。
彼は恩人の身体を大切に抱き直すと、注意深い足取りで広場へ降り始めた。




