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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
11/14

22、23

22.


 陽が沈んだ。

 夜のカゼールを照らす役割は、今晩に限って月星に与えられていなかった。月はその姿を消す時期であり、微かな星の光も低く垂れ込める雷雲に遮られ地上には届かない。時折、不規則な軌跡を描く光の筋が都市の上空を不吉に走り、星々の代役を務めている。

 ベリスは怒り狂っていた。

 漆黒の刃に少女を貫きぶら下げたまま自らの足で通りをのし歩き、目につく者、物、全てを破壊しつつ魔神は葬り去るべき者どもを探し求めていた。

 あの砂嵐が何者かによって引き起こされたのは、疑う余地がない。砂塵に激しく叩かれ目を閉じたほんの僅かな間に、足元に転がる瀕死の男は消え失せてしまった。狼のせいで殺し損ねたが、生きていたところであの深手である。あの若造に己が足で逃げる力は残っていなかった。三つ目の小僧か、あるいは女魔術師の仕業としか考えられない。砂嵐を巻き起こし、その隙に若造を引き摺って逃げたのだ。

 血溜まりから帯となって続いていた血痕はすぐに点となり、砂嵐を出たすぐ近くの家屋まで続いていたが、そこで終わりだった。その先の行方は魔神にも分からない。過去と未来を見通す能力があるとはいえ、それは千里眼とは異なるものである。

 遠く雲の中で雷鳴が轟いた。

 決して許さぬ、と魔神が歯ぎしりする。稲妻が光り、黒に塗れた凄まじい形相が一瞬照らし出された。

 火炎を封じた女魔術師、愛馬を倒した若造、顔に新たな傷をつけた魔法使い。三人のうちの一人として生かしておくつもりはない。己が手で殺さぬことには、この怒りは収まりそうになかった。

 魔神が歩を進める度に、思い金属のぶつかり合う音が通りにこだまする。朱の甲冑が触れ合う音である。

 まだ足を踏み入れていない区画に来たが、人の姿はない。人はおろか、虫けら一匹さえベリスの視界に現れなかった。しかし、魔神は知っている。この都市の人間が全て逃げ出した訳ではない。相当数の人間が留まり、建物の中や地下で息を潜めているのだ。死神が自分を見過ごしどこかへ去るのを、じっと待っている。

 一軒の家の前で残虐公は立ち止まった。黒い血と傷に覆われた貌が陰惨な笑みを浮かべる。

 恐怖が匂っていた。恐れや苦痛といった感情は、魔神にとってこの上もなく美味な糧である。ここに住む者たちは皆、愚かにも逃げずに留まることを選んだのだ。

 公はハルベルトで串刺しにした少女を振り払った。少女はまだ微かに息をしていたが、凄まじい勢いで頭から家の外壁にぶつけられ、血と脳漿の尾を引きながらずるずると地面に崩れ落ちたときには呼吸が止まっていた。

 積木細工でも崩すかのように、屋敷の壁を破壊する。魔神は地下室に縮こまっていた人間たちを引き摺りだし、次々と血祭りにあげた。家人は、主人一家と召し使いを合わせて十二人だった。恐怖に耐え切れず失神した者、蛇に睨まれた蛙のように身動きの止まってしまった者、泣き叫び悲鳴をあげる者、命乞いをする者、そして無駄な抵抗をする者がいたが、助かった者はいなかった。男女や年の区別もない。生まれて間もない赤ん坊から足の不自由な老人まで、ことごとくが朱の巨人に惨殺された。

 その家の人間を殺し尽くすと、ベリスは隣の建物へ壁を割って移動した。そこにも人間がいた。虐殺が始まる。

 魔神が僅かでも溜飲を下げるのに、結局千人近くの犠牲が必要だった。


 ぼんやりとした、淡い光の球体が幾つか床の上に低く浮かんでいる。煌々と部屋を照らし出すほどの光精を呼び出すぐらいナウシズには容易い術だが、外へ明かりが漏れないよう、周囲が見える程度にまで明度は落とされていた。

 彼らがいるのは、旧市庁舎であった。例の建築現場のすぐ隣である。これら公共の建物は、昼間魔神の炎に包まれた中央広場を囲むようにして建てられている。一度訪れた場所なので、すぐにはベリスは来ないだろうという訳だった。

 残虐公が欲するのは殺戮である。彼が通った跡に生者は残らぬといっても過言ではない。だから同じみちは辿らない、と魔法使いは明言した。彼の推測は、今の所外れていない。

 魔法使いは、柄が血塗れになった剣士の剣から血を拭い、その全体を検分していた。普段剣士がよく見せてくれないため、この際だからと細かく観察しているのである。

 全体的に装飾の少ない剣である。僅かに反った細長い刀身は、今は鉛色にくすんでいる。握りやすいような造形をした柄の一部に、切れ込みのような線が入っているのを剣士は見つけた。飾り紋様の一部だが、その線に囲まれた部分だけまるで外すことができるような形に描かれている。その中央に、違和感なく握れるようにだろう、柄の曲線に沿った平面的な青い宝石らしきものが深く嵌めこまれている。端整なその仕上がりは、学会本部でもなければ不可能ではないかと魔法使いに思わせた。

 その宝石を、魔法使いは指先で弾く。予想はしていたが、何の反応もない。

 一方のナウシズは、剣士につきっきりである。肩は切り裂かれ、魔神の槍先が心臓近くを貫通した上に血液も大量に失われている。床に横たえられた男は、魔法使いの目には生きているのかどうかさえ判然としなかった。血の気があるかどうかなどこの薄明かりで分かる筈もないが、彼が広場の近くの家で発見したときからずっと、剣士は、意識の回復はおろか呻き声一つとしてあげないのだ。閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。いくらナウシズが優れた癒し手といっても、一刻やそこらで治せる容態ではなさそうだった。鍛冶の精も、心配げに剣士の貌を覗き込んでいる。

「おい」

 森の民に憔悴の色が濃いのを見てとると、さすがに魔法使いも口を開かずにはいられなかった。

「いくら魔術嫌いのカゼールったって、治癒魔術を使う奴ぐらい、あと何人かいるだろ。一人ぐらい、居場所の見当はつかねえのか。引っ張って来てやる」

 ナウシズは目を閉じたまま首を振った。意識の戻らぬ男の横に座り込み、指先の荒れた両手を傷がある辺りに軽く添えている。この姿勢を、彼女は数刻にも渡って維持していた。

「皆、ギルドか私の家からさほど離れていない場所にしか住んでいません。ここの魔術師は固まって暮らしていますから。今、あの辺りに人がいるとは思えません。長の所に寄ったときに聞きましたが、ギルドの近くに住んでいる二人は、カゼールを出たそうです」

 ナウシズが住んでいた地区は、ベリスに破壊し尽くされている。予想通り彼女の家は灰と化していたので、彼らは難を逃れた魔術師ギルドへ薬を取りに立ち寄ったのだった。

 魔法使いは疑わしげな視線を剣士と森の民に向ける。

「そいつ、本当に治ってんのか」

「時間がないので、傷口は、大切な所だけは塞ぎました。跡は残ります。それから、怪我をしてから何も食べていないので、新しい血を充分に作り出すことが出来ないようです。私も先程から働きかけていますが、どれほど体力を失っているのか底が見えません。気をいくら注ぎ込んでも、砂漠に水を注いでいるような感覚しか得られないのです。回復しているには違いないのですが……雷様」

 ナウシズは瞼を上げ、猫の瞳で剣士を見つめた。祈るような視線を肉の削げた貌に向けたまま、魔法使いを呼ぶ。

「どうして試してくださらないのです」

「おまえもくどいぜ」

 魔法使いは苦々しげに紋様のある頬を歪めた。空色の目が冷たい光を帯びる。

「何度も言わせるなよ。俺は治癒魔術なんかできねえんだっつうの」

『その娘の言う通りだ』

 男の深い声が響いた。耳を通さず、ナルバと同じく直接頭の中へ話しかけてきている。しかし声は、杖のような神経に触る軋んだものではなく、何の障害も苦痛も伴わず滑らかに聞こえてきた。

 魔法使いとナウシズが驚き振り返る。

 部屋の入り口に立っているのは、灰色の粒子ではなかった。暗い建物の中だが、毛並みは鈍い銀色の艶を放っている。

「貴方が、雨様のおっしゃっていた」

 森の民に、狼はゆっくりと頭を下げて見せた。

『狼だ』

「見えるぞ」

 半ば茫然として魔法使いが、

「はっきり見える。声も聞こえるぞ。どういうことだ」

『満月の昼と新月の夜には見えるようになると、教えておらなんだか? まあ、そのような話は今せずとも良い』

 金色の瞳が問いかけるように、剣を持ち壁にもたれて立っている黒衣の青年を見上げた。

『雷よ。試すだけでもしてみたらどうなのだ』

「無駄だね」

 にべもなく魔法使いが跳ねつける。

「俺が遺跡で何をやってたか見てたんだろうが」

 学徒の女を犯そうとした際、魔法使いは狼の存在に気付いたのである。ウシュブを廃人にしたあたりから狼に見られていたとしてもおかしくない。

「あれで俺が治癒魔術向けの野郎だと思うか、普通」

「適性は分かりませんが」

 ナウシズは視線を上げて、まっすぐと魔法使いを見上げた。

「詩も理論も修めていらっしゃるのでしょう。貴方が人である限り、自然の精よりも人に働きかける方が難しいということはありません。少なくとも、雨様を助けたいと思っていらっしゃる筈です」

「今はな」

 魔法使いは否定しない。

「ここでこいつに死なれちゃ、俺もおしまいだからさ。だが、俺が雨につきまとってるのは、死んだらこの剣をいただくことになってるからだ。これで治癒魔術が発動する訳ねえだろ。それに」

 険悪な顔で彼は森の民を睨み下ろした。

「おまえは額の目を見ても平然としてた。初対面であんなに驚きやがった癖にな。最初顔を合わせたときに、俺が何者か分かったんだろ? 原種なら、大して強くなくても猫族と豹族両方の特徴を併せ持ってる筈だ。猫族の奴らなんか俺を見た瞬間に顔を引き攣らせやがってよ、後は目も合わそうとしなかったぜ。ベリスほどじゃねえが、学徒以外の奴も結構ぶっ殺してるしな。それでもおまえ、俺が人だと言うのか」

 ナウシズは動じることなく三つの目を見つめ返した。静かに答える。

「そうです」

「……」

 魔法使いの、頑なに結ばれた口元が痙攣した。

「ここにいる治癒魔術師がおまえだけなのを、感謝するんだな」

 低く押し殺した声に、クロミスが驚いた様子で振り返る。魔法使いの指輪を住処とし共に旅を続けているこの鍛冶の精は、彼女の大きな友人が、いわゆる「いい人」ではないことをよく知っている。剣士は知る由もないが、魔法使いは、詐欺から人殺しまで一通りの悪事を笑いながらこなせる人物なのだ。それでも、このように何か得体の知れぬものを孕んだもの言いをする彼を見るのは、これが初めてだった。

『ベリスが現れた』

 杖が告げた。

「なんだと」

 魔法使いから、森の民に対する敵意が一度に吹き飛ぶ。青年の表情が一変したのを見てナウシズも状況を察知した。狼が問う。

『こちらの居場所を知っておるのか』

『分からない。生死不明の老人を一人連れている』

「老人だと? ギルドの爺喋りやがったのか」

 ナウシズの貌が、薄明かりの中でもそれと分かるほど青ざめた。

「長なのですか」

「いや、俺がそう思っただけで実際は分からん。もしそうだったら、早く逃げろっつったのによ」

 ギルドの家の在処はアルベルトから聞き出したに違いない。

「ご無事でしょうか」

「残虐公に遭遇して無事な人間がいる訳ねえだろ」

 先のお返しとばかりに、容赦なく魔法使いが応じる。

「出て来い!」

 大音声が響き渡った。同時に雷鳴が轟いたが、ベリスの声はそれにかき消されなかった。

「やっぱり野郎、くそ間抜けだな」

 魔法使いが呟く。殺されると分かっているのに、出て来いと言われて素直に従う馬鹿が、一体どこにいるのだ。

「女」

 森の民にベリスが呼びかける。

 ナウシズは跳ね上がるようにして立つと、窓際まで駆け寄り、陰から広場を見下ろした。猫の瞳が、暗い外の様子をはっきりと捉える。

 朱の巨人が旧市庁舎の前で仁王立ちしていた。右手に鉾槍を携え、左手にぼろ屑のようなものを引き摺っている。

『ベリスはこちらの位置を把握している』

「んなこた、馬鹿でも分かる」

 報告する杖に、魔法使いが悪態をついた。彼も窓の反対側から、外の様子を窺がっている。

「これが何か分かるか」

 ベリスは軽々とぼろ屑を持ち上げた。うう、とそこから呻きが漏れる。ぼたぼたと血液らしきものが滴り落ちた。

「そなたの友人ぞ」

 魔神は残酷な含み笑いを漏らしながら、

「口を割らせるにいささか手間がかかってな、殺さぬよう気を付けたはしたが、年寄り故放っておけばじきに死ぬ。早く引き取りに参れ」

 ナウシズが部屋を飛び出そうとする。魔法使いの大柄な身体が出入り口を塞いだ。

「出るな」

「通してください」

「阿呆か」

 己を押し退けてでも出て行こうとする森の民を、魔法使いが突き飛ばす。軽く突いたつもりだったが、女の身体はよろめき、横たわる剣士の近くへ倒れ込んだ。小さな騒ぎに、昏睡状態の男はぴくりとも反応しない。

「相手はベリスだぞ。いつまでも用済みの爺なんか引き摺って歩くと思うか? 本物は大方とっくに殺されてるだろうぜ」

「でも、長かもしれません」

 ナウシズは譲らない。

「違っていても、目の前の人を見殺しにする訳には……」

「馬鹿女」

 魔法使いが再度罵り吐き捨てる。

「もう何千人殺されたと思ってんだ。今さら一人増えたところで何も変わりゃしねえよ。おまえは雨を治してりゃいい」

 彼は自分が部屋の外へ出ると、叩きつけるようにして扉を閉めた。

「畜生」

 廊下を走る。ベリスの死角にある窓を探して開けると、狭いみちを隔てたすぐ間近に裁判所の壁がある。窓は同じ高さにあった。施錠されている。魔法使いは市庁舎の窓枠に両手を掛けて登り、閉ざされた裁判所の窓を、轟く雷鳴に合わせて杖で突き破った。

『ふむ、逃げ出す訳ではなさそうだ』

 からかいを含んだ声が背にかけられた。

 魔法使いは振り向き、ついて来た狼を睨む。

「つくづく、くそむかつく奴だ。そのうち絶対てめえの構造を暴いて、犬汁にして食ってやる」

『狼はまずいらしいぞ』

 艶やかな灰色の獣も床を蹴って飛び、魔法使いに続いて隣の建物に飛び移った。




23.


〈……〉

 誰かが話しかけてきていた。遠くて内容が聞き取れない。

 赤子を抱いた若い女が、崖縁に立っている。方々から鋭い岩が突き出し、足場が悪いことこの上ない。

 遥か下方、激しく波の打ち寄せる海面から強い風が吹き上げ、女の長い黒髪を乱した。華奢な躰が今にも飛ばされんばかりにゆらゆらと揺れる。髪だけではない。女と赤子の肌も瞳も、剣士と同じ色彩を持っている。

〈……った。これより……を……〉

 声が僅かに近付いた。妙な声だった。年はおろか、性別さえ判然としない。が、剣士は目の前の光景に強く気を取られていた。

 女に抱かれた赤子が、火がついたような泣き声をあげ始める。彼も強い不安に駆られ、手を差し伸べた。

 そのような所で何をしているのだ。

 女は近付いて来ない。彼と同じ、しかしもっと深い緑色の瞳に浮かんでいるのは、怯えと敵意だった。剣士の中に、困惑とさらに強い不安と、そして嫌な予感が満ちる。ほとんど恐怖といっても良い。やっと少女の域から脱したばかりのこの女から、そのような表情を向けられたことは、一度もない。

〈……異論があれば……れば……るが良い……〉

 怯えの色が一層増した。赤子を抱いたまま、女はよろめきながら後ずさった。剣士は、女の視線が自分を通り越しているのに気付いた。振り向き、背後に立つ男の姿を見た瞬間、剣士は悟った。

 夢だ。

 夢でしかあり得ない。剣士はその場に居合わせなかったのだ。彼が見たのは妻子の亡骸だけである。全身を岩に打ち付け損傷の激しいそれらは確認するのさえ困難だったが、それでも、二人揃って発見されただけ運が良いという話だった。あの辺りは海流が激しく、過去に身投げした者の遺体は引き上げられないまま終わる場合がほとんどだと、剣士は聞かされていた。

 どこから見ても人品卑しからぬ、一目でそれと分かる上流階級の人間である。男も、剣士と同じ色の頭髪、目、肌を持っていた。剣士の生国はどことも地続きになっていない、カゼールよりもさらに西の海に浮かぶ島国である。混血が進まないので、この身体的特徴は住民のほとんどに共通していた。金髪碧眼の魔法使いが服装以上に周囲から浮き上がっていたのは言うまでもない。

 男が口を開いた。声は聞こえない。海鳴りも、強風の吹き抜ける音も聞こえない。ただ赤子の泣き声だけが剣士の耳に届く。

 女が首を振る。また一歩下がった。男の顔が苛立たしげに歪む。

 剣士は思い出した。初めて見る夢ではない。毎晩悪夢にうなされるのでは、まるであの三つ目の男ではないか?

 彼は旅の連れを思い出した。どうやって知ったものか、魔法使いは例の剣が王家の宝物庫に眠っていると知っていた。盗み出すか騙し取るかはともかく、手に入れるために海を越えてやって来たのだが、さすがに彼も、その一振りが一介の下級騎士に与えられてしまったことまでは知らなかった。

 剣士は記憶を手繰り寄せる。漆黒の刃に貫かれたところで、意識は途絶えていた。

〈……は受け取った……より、そなたを……と認める〉

「……長かもしれません」

 突如現実味を帯びた声が剣士の耳に飛び込んだ。もとより夢の続きを見たい訳ではない。結末は分かっている。

 目の前の光景を振り払い、剣士は意識を外へ向けた。

「違っていても、目の前の人を見殺しにする訳には」

「馬鹿女」

 魔法使いが言い放つ。

「もう何千人殺されたと思ってんだ」

 暢気に寝ている場合ではない。剣士は起き上がろうとした。が、身体が言うことを聞かない。指一本動かせない上、瞼を持ち上げることすら叶わない。

 何だこれは。

 声に出したつもりだった。しかし、彼は口を開いてすらいなかった。

〈印は受け取った〉

 すぐ近くで声が響いた。狼ではない。ずっと遠くから聞こえ続けていた、あの中性的な声だった。

〈これよりそなたをあるじと認める。異論があればその旨を申せ。なければ名を告げるが良い〉

 誰だ。

 答えはない。同じ言葉が繰り返されるのみである。

 金縛りに遭ったまま、剣士は狼を呼んだ。同じような意思疎通の手段を持つ狼ならばこの状況を説明してくれるのではないかと思ったのだが、狼は彼の中にいなかった。代わりに、傷を負った胸の辺りから心地良い空気が流れ始めた。そこまで傷がぱっくり開いてしまったのかと剣士は勘違いしたが、すぐに、それが森の民が行う癒しの術によるものだと理解した。外からの声は、もう聞こえない。魔法使いは近くにいないようである。さらに遠くから、雷鳴と破壊音と振動が伝わってきた。

 何が何でも起き上がらなければならない。が、依然として剣士の身体は意思を裏切って少しも動こうとしなかった。暗闇の中、同じ言葉だけが延々と繰り返されている。

〈印は受け取った。これよりそなたを主と認める。異論があればその旨を申せ。なければ名を告げるが良い〉

 剣士は匙を投げた。

 誰でもよい。

 口に出さず(出せないのだが)投げやりに言う。

 身体を元に戻してくれるのであれば、主にでも何にでもなろう。我が名は……。

 雨、と言いかけて剣士は詰まる。やはり完全に自分の名を捨てるには、まだ躊躇いがあった。

 我が名は、スプラグレ・ガズウィル。

 剣士は本名を名乗った。顔面を動かせたならば苦笑を浮かべただろう。

〈了解した、スプラグレ・ガズウィル。そなたをエディエル・バルディッシュに継ぐ私の百七十二代目の正当な所有者として認知し、ここに契約を結ぶものとする。契約が無効となるのは、次の場合に限られる。一、所有者が私の破棄を望み、言明し、それを実行せしとき。一、所有者が死亡せしとき。以降述べるのは私の能力である。そなたが望めば斬った対象の生命を吸収することが可能である。ただしそれはそなたに提供されない。得た生命力は私の姉妹剣に蓄積・変換され姉妹剣の所有者が力を放出するものとする。私はそのように鍛造されておらぬ故に、吸収した力を放射するには不可能とは断言せぬが高度な熟練を要する……〉

 まただ、と剣士は唸った。狼もしばしば理解できない話を始めるが、この声はさらに上をいくらしい。ただしその内容が、魔法使いが以前言及していたものに類似していることだけは薄らと分かる。

 もう良い。

 剣士は自棄気味に遮った。

 とにかく元に戻してくれ。今話を聞いている余裕はない。

〈では必要になれば呼ぶが良い。だが、必ずしも応えるとは限らぬ旨、心せよ〉

 二度と呼ぶものか、と剣士が思ったかどうかは定かでない。声が途絶えた瞬間、どれだけ念じても動かなかった瞼が軽く持ち上がった。

 明るければ、眩しさに目を細めていただろう。が、視界は久し振りに働く隻眼にとってはちょうど良い明度だった。目を開けると同時に身を起こす。突然上下左右の感覚が消失し、剣士は起き上がるが早いか再びひっくり返りそうになった。その上体が脇から支えられる。

「急に動かないで」

 落ち着いた女の声が囁いた。

「身体中の血が足りないのです」

「貧血ということか。私はどの位気を失って……」

 病人のような森の民を見て、剣士は言葉を失った。あれだけの重傷を負ったにも関わらず、自分が大して衰弱していないのに遅まきながら気付く。

「半日です」

 ナウシズが答えた。目の下に隈が浮き出ている。

「ベリスはすぐ外にいます。今、雷様と狼様が相手をしているようですが、いつまで続くか分かりません」

「貴方は」

 剣士の問いにナウシズは微かな笑みを浮かべた。疲弊した貌に見えるのは平静さだけである。

「少々疲れただけです。休めば治りますからご心配は……」

 目を焼くような白い輝きが、開いた窓から飛び込んできた。同時に一段と大きな雷鳴が轟き、ナウシズの言葉を打ち消す。

 笑みを消し、彼女は促した。

「さあ、早く」

「かたじけない」

 鞘ごと長剣を掴んで飛び出す若者を見送ってから、ナウシズは目を閉じて横たわった。本来ならば言葉を発するのも辛い状態である。全身が重い。夏だというのに身体が冷え切っている。ここが森の中だったらここまで苦労しないのにと考えかけ、彼女はその思いを押しやった。

 ベリスの所業のせいで、今この辺りに生けるものは少ない。周囲から分けてもらうだけでは足りず、彼女は自分の生気も剣士に注ぎ込んだ。専門的な治癒魔術師ではない彼女が重体の剣士を急速に回復させるには、この方法しかなかったのである。

 魔法使いが少しでも治癒魔術を発動させたなら、剣士をより万全に近い状態にまで回復させられただろう。あの青年は頑なに拒んだ。試そうとすらしなかった。彼は本当に自分が治癒魔術を使えないと信じていたのだろうか。

 それとも、とナウシズは朦朧と考えた。極度の疲労が睡魔を呼び寄せている。魔法使いは治癒魔術の発動を懸念したのかもしれない。それが何を意味するのかは、若者の背景を垣間見た彼女にもぼんやりとしか想像できなかった。彼が己の良い意味での人間性をあくまで否定するならば、治癒魔術の発動は都合の悪い要素には違いない。彼は、自身が人であることを認めようとしない。人以外の何かでもない。黒衣の青年は、自分が、他の何ものでもない自分自身であることを果てしなく欲しているように、ナウシズには思えてならなかった。あれほど強烈な自我を備えていてもまだ足りないのだろうか。そのような事柄に無頓着でいながら、それでいて確固たる己を造り上げている剣士とは対照的である。両極端とさえ言える。

 もし無事だったら狼に聞いてみよう、とナウシズは思った。長い年月を生き無数の人々を見てきた狼ならば、複雑怪奇な魔法使いの精神構造をも説明してくれるに違いない。

 眠い。

 二人の若者に命を預けて眠ってしまおう。ベリスに見つかったら、それはそれで仕方がない。アルベルトや他の可哀相な彼女の知り合いたちに会えるのも良いではないか。

 目を閉じていても、稲妻が閃いているのが分かる。

 ナウシズは無理矢理に瞼を押し上げた。全身にぴりぴりと痺れが走っている。まるで帯電しているようだ、と思いかけて彼女は悟った。

 大気に雷精が満ちている。ベリスの火炎を封じたときの非ではない。高密度に集まった雷精のひとつひとつが力を蓄え、放出するときを待っている。

 魔法使いの作った詩がナウシズの脳裏に蘇った。あれを詠もうとしているのだ。黒衣の青年は分かっているのだろうか。万が一発動すれば、唱えた本人はもちろん、この辺り一帯の全てが吹き飛んでしまう。最初彼が詠いかけたとき、雷精の動きでナウシズは詩の概要を察知し、封じたのだ。未完成のものを詠えば、発動しないならまだしも、雷精が暴走しないとも限らない。

 絶え間なく襲ってくる睡魔と戦いながら、彼女は新たに詩を練り始めた。

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