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一振りの剣にまつわる挿話  作者: 井出有紀
10/14

19、20、21

19.


 残虐公は完全に自由の身であった。

 あの愚かな若者は、自ら丁寧に手を下してやった。少々目先が利いたとて、所詮は生まれ出て二十年にも満たぬ小僧である。その何千倍も存在を続けている老獪なベリスに太刀打ちできよう筈もなかった。いや、論理を有するが故になおさら罠に嵌まったのだろう。あのような単純な出まかせに、まんまと若者は引っかかってしまった。ナウシズのことを何度もいやらしく持ち出され、十二分に動揺していたせいもある。ぎりぎりのところで魔神を制御していたにも関わらず、とうとうアルベルトは召喚陣の一部を消すという墓穴を掘るに至った。

 ここには生命が溢れている。

 しかも踏みつければ悲鳴をあげ、切りつければ赤い液体を流し恐怖と苦痛に泣き叫ぶものどもが、数え切れぬほどいるのだ。この都市の人間を殺し尽くしたら、近隣の町なり村なりへと向かえば良い。

 カゼールの住民は怪物の正体を知らない。この世のものではあり得ない巨大な人馬が近付いて来るのを見ると、人々は例外なく呆気に取られて立ち尽くした。が、ある者は、朱の兵士が高笑いしながら逃げ遅れた老人を鉾槍で串刺しにするのを見て、またある者は、その馬が蹄で踏みにじった子どもの内臓を喰らうのを目にして、次の瞬間彼らは恐慌に陥り、追われるままに通りを逃げ始めた。

「――」

 陰々滅々と声が響き渡った。空気が震える。

 火柱が吹き上がり、何軒かの家が炎に包まれる。主要な通りに並ぶ建物は石造りの物がほとんどなので、燃え上がりはしない。すぐに炎は収まったが高熱で壁は黒く煤け、中にあるものは人も家具も皆、全て焼き尽くされた。上昇気流に乗り、灰が空中に舞い上がる。地獄絵さながらの地上を裏切るかのように、夏の空は高く澄み渡っていた。

 ベリスは再び口を開いた。人語にあらざるものが発せられた途端、怪物から遠ざかろうと波打つ群衆の中に点々と炎が出現した。そこかしこで人のものとは思えない、聞くに堪えない悲鳴があがる。

 炎は、人だった。隣を走っていた者が突然燃え出すのを目撃し、混乱はさらに大きくなった。これが愉快なのだ。召喚主から解放された今の魔神ならば一気にこの都市を火の海にすることもできる。しかし、彼が見たいのは生けるものが苦しみのたうち回る姿である。

 残虐公は思うままに狩りを続けた。彼の視界に入って助かった者はいなかった。人間は無論のこと、犬、猫、食用の家畜までもが虐殺の憂き目に遭った。遠くからその様子を見た者は、死神が他を向いている隙に、何も持たずにその場から逃げ出した。彼らの話を聞いた人々は慌てて荷物をまとめ、あるいは家財道具一式を荷車に乗せてカゼールから脱出するのだった。

 と不意に魔神の動きが止まった。傷に覆われた厳つい貌が不快に歪められる。

 何ものかが彼の周囲をうろついていた。目には見えない、空気の流れのようなものが甲冑にまとわりつき、動きを鈍らせようとしている。手足の動きではない、他の何かを。

 鉾槍で薙ぎ払おうとするが、長い柄と漆黒の刃は虚しく空を切るのみである。ベリスは例の女魔術師を思い出した。己を召喚した若者が心を寄せていた女を。彼の火炎を封じることが出来るのは、この都市ではあの森の民という種族の女をおいて他にいない。

 魔神は空気の流れを辿り始めた。不可視の縛めはあの女に続いているに違いない。小癪な真似をする女を、見つけ出して殺すのだ。

 破壊しながら進んできた街並みを戻る。一際高い建物の陰に入ったときである。屍の転がる廃墟の中、あってはならないものを魔神は見つけた。生けるものは全て彼が殺したのだ。偶然助かったとしても、留まる者はいない筈だった。

 痩せた男が一人、血に濡れ光る石畳の上に立っている。

 彼は、翠の隻眼で表情もなく魔神を見上げていた。

「また貴様か」

 声は、地を這うがごとく通りに響き渡った。

 剣士に向けた言葉ではない。彼の隣に立つ狼が、魔神にも見えるのだった。

 巨大な人馬が歩を進める。剣士と同じ光の領域に踏み出し、影の全容が明らかになった。

 朱の人馬であった。

 この馬に比べたら、ライファもサルジュも仔馬同然である。赤い毛並みは明るい茶などとは断じて違う、鮮血の朱であった。鼻面から首にかけて、より一層濃い色に濡れそぼっている。水ではない。同色の液体によって濡れている。

 金の目が、草食動物にあらざるべき獰猛な狂気を宿し一人と一頭を見下ろした。同じ糸の瞳を持っていても狼の、知性に満ちた光など、この馬のどこからも窺えなかった。気の弱い者なら見られるだけで金縛りに遭うに違いない。

 馬に跨る男も巨大だった。全身を馬と同色の鎧に固め、顔の下半分は固く黒い髭で、兜の下から覗く上半分は古い傷跡で覆われている。深く刻まれた無数の線はお互いに交差し、箇所によっては盛り上がり、そのまま固まり、異相を作り上げる大きな要素となっている。

 構える鉾槍は、長い槍の先端、穂先の根元の片側に斧が、反対側に鍵爪がついたハルベルトと呼ばれるものである。何から鍛えられたのかも分からない漆黒の刃から、赤黒い液体が滴り落ちていた。

「殊勝な」

 赤い兜の下で両目が無気味な光を放った。

「犬ころに誑かされ、わざわざ命を捨てに参ったか、若造」

 剣士は応えない。相変わらず無表情に魔神を見据えている。

『ベリスよ』

 狼が前足を曲げ、ベリスを睨み上げた。鼻の付け根に皺が寄る。犬歯を剥き出した口吻から獣の唸りを漏らした。

『殺生をやめろと言って、今さら聞く汝でもあるまい』

 馬が一声嘶いた。ある筈のない牙が覗く。

「気に入らぬ」

 残虐公は言った。ハルベルトを一振りする。

 陽光がさっと翳った。太陽が厚い雲の向こうに隠れる。抜けるような青空が、急速に暗くなった。黒い雲のあちらこちらに、不規則な軌道と間隔で閃光が走った。その周囲だけが一瞬輝き、冷たく照らし出される。

「その男から、恐怖を感じぬ。犬めに至っては流れ出る血潮すらない。どう殺して……」

 耳をつんざくような轟音が、カゼールの全域に響き渡った。この地点に落雷があったのを、海峡向かいのアラク市で見た者がいたかもしれない。

 朱の人馬は稲妻の直撃を受けていた。

「阿呆が」

 黒衣の男が罵る。杖を肩に乗せ、焼け焦げた建物の屋根から三つの目で魔神と剣士を見下ろしていた。たちこめた雷雲と落雷が彼の仕業であることは言うまでもない。

「ご挨拶が済むのを待って仕掛ける馬鹿が、どこにいるっていうんだよ」

 言った彼は、羽根の生えた小さな少女が傍らに浮かんでいるのを見てぎょっとした。

「危ないから出るなっつっただろうが」

 慌てて指輪の中へ戻す。

 落雷と同時に、剣士と狼は動き出していた。

 彼らも充分に承知している。まがりなりにも魔神と称される者が、この程度の雷槌で倒れる筈がない。

 驚き刹那硬直した朱馬の首筋に、狼が食らいついた。頸動脈があると思しき箇所に牙を食いこませる。血は流れ出ない。狼は、この世のものに物質的な傷を与えることができない。それでも痛みを感じさせることは出来る。

 馬は猛獣のような咆哮をあげた。棹立ちしようとする馬を残虐公が危ういところで諌める。

 そこへ剣士が赤い甲冑の継ぎ目を目がけ突きに入った。当然手の届く場所ではない。剣を構え跳躍する。

 ベリスが気付いた。異界の呪文を唱える。

 灼熱が剣士を包み込んだ。炎ではない。残虐公が軽い驚きに目を開く。突如出現した霧が男を取り巻いていた。

 火炎を予想していた魔法使いが別のフレーズを詠み上げていたのだ。彼は、剣士と火炎が交差する座標を瞬時に弾き出し、そこから僅かに魔神よりの座標へ水精と風精を呼び集めた。空気中の水分を凍てつく矢に変換しベリスに向けて放ったが、それらは飛ぶことも叶わず魔神の炎により蒸発した。剣士を取り巻いたのはその蒸気である。攻撃的な魔術しか発動させられない以上、魔法使いはこのような回りくどい防御をせざるを得ない。

 炎を打ち消され、魔神は朱い兜の下で色の判然とせぬ両眼を光らせた。熱せられた霧を破り迫る青い刃を、鉾槍で弾き飛ばす。

 剣士は剣を手放さない。自ら刀身と共に宙へ飛ばされ身を捻って着地すると、それをばねにして地を蹴り再度魔神に向かった。狼がとり憑いているかのような身の軽さである。

 が、魔法使いは、この瞬間も彼の隻眼が翠色であることを承知していた。

 自分じゃ平和主義者だと思っているが。

 彼は常々から疑いを抱いている。

 怪しいものである。あれは、どこぞの王に伺候していた騎士の闘い方ではない。元来からその色は濃かったが、故国を出て後、彼の剣捌きは空恐ろしいほどの冴えを見せるようになった。片目を失ったときにがくんと落ちた腕前は三ヶ月経過しないうちに戻り、なおもそれ以上に成長しようとしている。魔法使いから見れば気狂い沙汰のような数々の鍛錬を、剣士は今もってやめようとしないのだ。

 ベリスは背後からの急襲をも察していた。

「小賢しい」

 馬首を巡らせる。馬も主人の意図を理解しているようだった。鼻面を向かってきた若者に思い切り叩きつける。

 刃の先が首の継ぎ目に入る寸前で、朱馬の長い頭部は剣士に激突した。狙いの逸れた剣が朱の甲冑にひっかき傷を付ける。痩身が吹き飛ばされた。軽い皮革の胸当てを着けているが衝撃は緩和されない。石畳に背中を強打し、剣士はしばし呼吸困難に陥った。

「若造が」

 隻眼の男を地に縫い付けるべく、ベリスがハルベルトを逆手に持ち直した。複雑な形状をした漆黒の刃が直下する。

 大気の振動音が魔神の耳に届いた。と思う間もない。真空の 大気の振動音が魔神の耳に届いた。と思う間もない。真空の爪が唸りをたてて人馬を切り裂いた。一瞬のうちに、朱の体毛に何本もの黒い線が刻まれる。馬には黒い血が流れているらしい。が、魔神の鎧に当たったものは金属質な音をたててあらぬ方向へ跳ね飛ばされた。

 鉾槍の先が別の方角を向く。

「……」

 傷だらけの貌が振り返った。魔神の視線の先、焦げた屋根の上で黒いものがちらりと動く。

『発見された』

「分かってらっ」

 詠唱する時間がない。いちはやく魔法使いはその場から逃げ出していた。ベリスに見つかった地点で火精が凝縮されつつある。信じがたい速さだった。

 身体がふわりと持ち上がる。

「!」

 魔法使いがそう感じたのは一瞬だった。次の瞬間、彼は凄まじい熱風に全身を叩かれ五軒先の棟まで吹き飛んだ。黒焦げになった屋根飾りに黒衣が引っ掛かり、かろうじて転落を免れる。家は三階建てである。この高さから落ちて無事で済むとは思えなかった。

「……冗談じゃねえぜ」

 煙と塵芥が吹き過ぎていく。宙吊りになった身体を引き上げながら魔法使いは呻いた。これだけの爆発をあのような形ばかりの詠唱で引き起こす者の話など、束の間学んだ老魔術師からでさえ聞いたことがない。

 次が来ない。剣士がベリスを引きつけているに違いなかった。それとも先の一撃で魔法使いは死んだと思っているのかもしれない。実際、ほんの少し逃げ遅れれば爆死していた。

「雨の奴、丸焼きになってねえだろうな」

 連れが火だるまにされるのを防ぐべく、彼は現場へ駆け戻る。

「くそ。何してんんだ、あの女は」

 ナウシズは離れた場所で、魔神の炎を封じる術を構築している最中である。彼女にとってもベリスの火炎魔法は未知のものである。魔法使いのときと違って即座に詩を造り唱えるという訳にはいかない。杖の用いる力の仕組みもナウシズは知らないが、杖の場合、契約により魔法使いの一部――所有物となっているため、封印を連動させることができたのだというような説明を、彼女は魔法使いにしていた。

『雨は無事だ』

 あらゆる視力を取り戻したナルバが応じる。

『ナウシズはベリスの用いる魔法を分析している』

「早くしねえと、いつまでも保たねえぞ。おまえ、今からでもベリスをぶっ飛ばせねえのかよ」

 否、と杖は答えた。

 ナルバの能力は巷で修められる召喚及び送還魔術とは全く異なるものである。魔術は、呪文と魔方陣の意味を完全に理解した上で、なおかつ決められた手順通りに儀式を運行することが必要とされる。

 魔法使いはナルバに命令するだけである。杖が異界に通じる扉を開く。そこらに転がる小石であれば、杖が勝手に自分が開いた穴へ突き落とす。人間など、対象がもう少し複雑なものであれば、魔法使いが意志の力で後押しする。難易度は物理的な大きさとは関係ない。無人の宮殿を消すよりも、ほとんど精神体である妖精を消す方が困難である。対象が魔法使いの意図に気付いて抵抗すればなおさら難しくなる。呼び出すときも同様であり、しかも、実際に何を呼び出すか、あるいはどこへ消し飛ばすかという段になると、ほとんどナルバに一任される。召喚魔術のように、法則に則って対象を従わせるなど論外である。

『ベリスの精神力が衰えれば可能だ』

 下級とはいえ魔神の息の根を止められるとは、魔法使いも思っていない。杖によって、ベリスが元いた世界よりも遠い次元、二度とこの世界に出て来れないような所へ飛ばすしかないのだった。

「……と言っても」

 魔法使いは朱の人馬と剣士を見つけた。大人と子どもである。剣一振りで魔神に相対する剣士が五体満足なのは奇跡だった。

「あいつ本当に人間かよ」

 黒衣の青年が感想を漏らす。

 ベリスが呪文を唱えようとしている。魔法使いは再び稲妻を呼び下ろした。光の筋が魔神を直撃する。朱の人馬が一瞬動きを止めるが、痛手になっている様子もない。せいぜいがその場限りの足止めでしかなかった。

「畜生!」

 魔法使いは火炎に追われ家々の間を走り回る羽目に陥った。うっすらと積もった灰を踏みつけ、焼き尽くされ骨と化した死体を飛び越える。火災を逃れた路地には、人間の断片や黒ずんだ血溜まりが点々と散っている。彼は自棄気味に喚いた。

「こんなことやってて奴が戦意喪失なんかすると思うか?」

 杖は答えなかった。




20.


 視界が開けた。中央広場に出たらしい。

 剣士は幾度も焼死を免れていた。ちくちくと全身を刺す熱気が待断なく彼を押し包む。が、その度に、発火する直前でそれらはどこへともなく四散した。あわやのところで魔法使いがベリスの詠唱に水を差すのだ。一度は剣士までもが稲妻の直撃を受けそうになったが、苦情を言う余裕さえ彼にはない。そのような荒っぽい助けでもありがたいことには違いない。彼一人であれば、とっくに焼け死んでいる。

 長くは続けられない。

 こちらが追われているのは漆黒の刃だったが、連れと似たような認識を、剣士もしていた。得物もさることながら、体力、腕力、体格、不利な点を数え上げればきりがない。常識を超えた両者の差は、もはや比較すること自体が間違っているとしか言いようがなかった。傍目からは、大型獣が面白がって小動物をいたぶっているようにしか見えないだろう。

 黒い死が降った。

 冴えわたった細身の刀身は、巨大な鉾槍に比べれば針金同然である。が、剣は折れることなく魔神の一撃を受け止め、重圧を横へ流した。剣だけが特別なのではない。剣士でなければ、いかに得物が頑丈であっても、使い手の腕が折れている。

 走る剣士を、ベリスが呵々と大笑しつつ馬で駆り追い立てる。次々と振る漆黒の刃を、隻眼の若者はときに避けときに剣で受け流しながらやり過ごしていた。同時に彼は、魔神が魔法使いとナウシズに気を取られ隙を見せる度にその懐へ飛び込もうとしたのだが、試みは全て失敗に終わっていた。魔神はつわものであると、剣士は認めざるを得ない。

 剣士が魔法使いと異なるのは、このような劣勢に立たされているにも関わらず、魔神の息の根を完全に止めようとしている点であった。はっきりと意識している訳ではないが、いざことが始まってみれば、ほぼ不可能だという魔法使いの言葉は彼の念頭から吹き飛んでいた。

『馬を何とかせねばな』

 傍らを走る狼が言う。灰色の獣は何度も魔神の鉾槍に貫かれているが、実体がないので、当然ながら僅かな傷も負っていない。

「分かっている」

 と、逃げながら剣士。この体格差に加え、相手は馬上にある。といって、ライファを連れてきてもどうにもならないだろう。朱の狂馬に比べれば、あの栗毛など仔馬も同然なのだ。ライファどころか暢気なサルジュでさえ、ベリスの凶気にあてられ恐慌に陥るに違いない。ならば、魔神をこちらに近い条件へ引きずり落とすしかない。

 翠の隻眼が、金色の目を見下ろした。

「やれるのか?」

『魔神を操るのは無理だ。あまりにも特異な上に複雑な心の構造をしているのでな。だが、単純な馬ならば、杖と協力すればあるいは……雨!』

 狼が叫ぶ。剣士は我が目を疑った。燃やす物とてない石畳の上を、紅蓮の壁が視界一杯に滑り迫ってくる。

 身を隠す建物はない。

 腕で顔を覆うぐらいしか、剣士になす術はなかった。


 森の民は、住民の逃げ出した家の中を独り呟きながら歩き回っていた。垂れこめた雷雲で外は暗い。薄暗がりの中で猫の瞳はやや瞳孔を広げ、鳶色の視線は壁を通り越し、別のものを見つめていた。

 火精と雷精が、危険なまでに呼び集められている。不可視の糸が、魔神の周囲の状況をナウシズへ伝えていた。あと少しどちらかが密度を増せばもう臨界点である、魔法を用いるまでもない。剣士と魔神の武器がぶつかり合い火花を散らすだけで、広場一帯は跡形もなく消し飛んでしまう。雷精は魔法使いが呼んだものである。火精だけを上手く散らせるだろうか。

 いえ、とナウシズは否定する。火精と呼ぶにも未形成な、それらはまだ火素としか呼びようのないものたちだった。魔神は夥しい火素に直接力を加え、動かしている。各々の元素を司る精に働きかけ現象を引き起こして貰う精霊魔術よりも、仕組み自体は単純である。ただ、用いられている手順が彼女でさえ全く目にしたことのないものであるために、詩を作るにも一から始めなければならない。普段は既存のフレーズを組み合わせれば大抵の目的を果たせるのだが、今度ばかりはそうもいかなかった。

 単語を造る。これに、魔神の火炎に共鳴した音を付帯させる。それらを繋げてフレーズを作る。さらに幾つもの節を組み合わせ、全体に生じた文法と音程の歪みを調整する。

 ようやく出来上がった詩は通常のそれの数十倍も長かった。魔神の持ち込んだ異界の法則を理解できれば、あるいはもっとすっきりしたものになるかもしれない。が、悠長に推敲を重ねる時間はナウシズに与えられていなかった。ベリスの恐ろしさは彼女も充分に承知している。あの二人が何刻にも渡って、炎の魔神相手に持ちこたえられるとは思えない。

 低く澄んだ歌声が無人の家屋に流れ始める。重苦しい旋律を口ずさむ森の民の脳裏に、自分をそっと抱きしめた剣士の姿が蘇った。次いで、愛くるしい今は亡き弟のような青年が。

 ぴたり、と歩みが止まる。同時に詠詩も止んだ。猫の目に焦点が戻り、ナウシズは窓の外の雷雲をじっと見上げた。

 しっかりしなさい。

 皮膚が破れんばかりに両の拳を握り締め、己を叱咤する。

 彼女は空を睨んだまま詠唱を再開した。


 耐え難い高温だった。今までのような、発火直前のそれではない。革鎧の、衣服の、髪の焦げる匂いがする。露出した腕の前面に感じるのはもはや熱ではなく痛みだった。

 再び、それがすっと消える。

「……?」

 火傷した腕を降ろした剣士が見たのは、凄まじい憤怒を浮かべてあらぬ方角を睨んでいる朱の魔神だった。いや、あらぬ方角ではない。ベリスの視線の延長上で、ナウシズが詠唱を続けているのだ。

 魔法使いの援護によるものではないと悟る間もない。剣士は朱の人馬が駆け出す数瞬も前に、再び動き出していた。

 ベリスは驚愕に立ち尽くしていた。

 広場全体に広がり小癪な若造ともども全てを焼き払う筈だった業火が、何の前触れもなく立ち消えてしまったのである。

 目に見えぬ縛めは、もはや感じなかった。代わりにたった今、身に備わった火炎も封じられてしまったのだ。

「おのれ!」

 大気を揺るがす声で吠え、残虐公は馬首を巡らせた。縛めは消失したが、方角は覚えている。女魔術師を、弟子にも劣らぬ残虐な方法で葬ってやるのだ。いや、その前に何が何でも自分に火炎を蘇らせなければならない。

 前方にちっぽけな影が立ち塞がる。

 焼け死に損ねた男を見て、ベリスは馬の速度を上げた。


 剣士がベリスに正面からぶつかる気でいるのを認め、魔法使いが悪態をついた。

「馬鹿野郎!」

 落雷を呼びに詠いかける。が、発動させた魔術にほとんど効き目がなかったのを思い出し、彼は中断した。雷槌よりも遥かに威力のある詩を先程から新しく練っているのだが、まだ完成には程遠い。

「知らねえからな!」

 何を知らないのか自分でも判然としないまま再び悪態をつき、埃にまみれた黒衣の男は路地から飛び出した。

 まさに通り過ぎんとする、燃え立つような朱馬の尾にしがみつく。魔法使いは引きずられながらも鞍に手を掛け、兜の頂点からなびく黒い房を掴み、自分の身体を持ち上げた。背後から魔神の顎の下に杖を潜らせ、ぐいぐいと締め上げる。狼と打ち合わせた杖が、全ての目玉を発光させ始めた。

 人馬はいささかも速度を落とそうとしなかった。

「塵芥め、姿を現しおったか」

 ベリスは太い腕を背後に回した。振り返りもせずに金髪の頭を、朱の籠手に覆われた巨大な手で掴む。馬と同様である。体格に恵まれた魔法使いであっても、ベリスと並べば子どもにしか見えない。

 魔神が、しがみつく若者を引き剥がしにかかる。が、思ったよりも青年はしぶとかった。

「この、わっぱが」

 喉を絞められ、掠れた声でベリスが唸る。魔法使いが朱の兵士の耳元でかまいたちの詩を詠じたのと、ベリスが邪魔な男を横に放り出したのは同じ瞬間だった。

 先の、真空の爪が生じた。避けるも叶わぬ、傷痕凄まじい貌のすぐ前である。

 聞くものの背筋を凍らせるような、苦悶の声があがった。

「ざまあ見やがれ」

 立ち上がりながら魔法使いが嗤う。その彼の右腕も、だらりと力なく垂れ下がっていた。受け身を取る間もなく、彼は肩から石畳に叩きつけられていた。

 剣士は地を蹴っていた。が、狂馬は彼を踏み潰そうとしない。冷たく光るナルバの目玉を見た馬は、顔に傷を負い呻く主を乗せたまま、塀を飛び越えるかのように剣士の頭上を過ぎようとした。

 細身の刀身が一閃した。

 馬の腹に線が描かれる。着地した朱の馬ははらわたを引きずり黒い血をまき散らしながら何歩か走ると、そのまま地響きをたてて倒れた。黒い染みが石畳に広がる。硫黄に似たその匂いの中から、灰色の獣がすっと現れ地に立った。

『どうにか助けになったか』

「大いに」

 応える剣士に、黒い殺意が打ちかかった。

「やりおったな、青二才が」

 鉾槍の刃の向こうで、鬼火のような両眼が冷えた光を放っていた。目の下では新しく数本の傷がぱっくりと口を開け、どくどくと黒い液体を溢れさせている。凹凸のある顔面を伝い落ちる行く筋もの黒い川は、顔の下半分を覆う髭と同化し、その先から朱の甲冑に滴り落ちていた。余程気丈な者でも悲鳴をあげて逃げ出すだろう、目を覆わんばかりの惨状である。

 その様子を間近にしても眉一筋動かさない剣士に、魔神がぞっとするような笑みを浮かべた。

「汚名を着せられ国を追い出された男が、他国の騎士気取りか。滑稽よの」

 翠の隻眼が微かに見開かれる。剣士は、過去と未来を見通すという魔神の力を思い出した。

「貴様に言われる筋合いはない」

 声は平静そのものだった。青く周囲の光景を写し出す刃で、押さえつけようとする圧力を横へ流す。数え切れぬほど繰り返した動作だ。

「私なりに方は付けた」

「片とな」

 魔神の笑みが大きくなった。

「では、うぬが妻子の命は、あのようなけちな男のそれと同じ重さでしかないのだな」

 剣士の表情に変化はない。が、この言葉がいささかの動揺も彼に与えなかったと言えば、そうではなかった。

 槌槍が剣士の左肩を掠めた。感覚が麻痺したそこから、生温かい液体が腕を伝い落ちる。その幾ばくかは彼の手の平にまで及び、剣の柄にまで届いた。

 剣士の手の中で剣の柄が微かに蠢き、すぐに静まる。その違和感を、しかし彼は気に留めていられなかった。

 続けざまに黒い刃が突き出される。剣士といえども片手で受ければ、確実に腕を折られる。

 考える余裕はない。反射的に一撃目は流したものの、それまでだった。怪力に耐え切れず右手にも痺れが走る。もう後がない。血で滑る剣の柄を握り締めるのがやっとである。

 止めの一撃が迫った。

 死ぬ、と剣士は覚悟した。ごく最近同じことを考えたような、という思いが一瞬頭をよぎる。

 狼が魔神に突進した。頭から突っ込む。

 漆黒の刃に丈ばかり高い痩身が貫かれるのを目の当たりにし、魔法使いは絶叫した。

「雨!」

「……」

 ベリスの顔が苦しげに歪む。

「出て行け!」

 一喝が轟いた。灰色の塊が朱から弾き出される。

 魔法使いは怒りに任せて詩を口の端にのぼらせた。が、ずっと頭の中で練り上げてきたそれがいつの間にか消え去っているのに気付くと、唖然として口を噤んだ。

 夥しい風精が、彼と魔神と、地面に崩れ落ちた剣士の周りを舞い始める。

 強風が吹き抜ける。海峡を渡ってきたその風は、砂漠の赤い砂を大量に含んでいた。風は止むどころか勢いを増し、赤褐色の嵐となって絶え間なく広場を吹き荒れる。

 視界が赤茶の砂塵で閉ざされた。




21.


 目を三個持っていても、こうなると盲目同然である。

 魔法使いは、砂が自分を避けて飛んでいることに気付いた。

「……なるほど」

 短く呟く。

「ナルバ。あの女、どこにいる」

 嵐は、ナウシズが起こしたものだった。魔法使いが詠おうとした詩を封じたのも彼女の仕業である。

 彼は杖の誘導に従い、広場を抜け出た。途端に砂嵐が止む。振り向くと、赤茶の細かい砂が壁となって魔法使いの視界を阻んでいた。

いかずち様」

 空き家の中から森の民が姿を現した。

「ふざけやがって」

 魔法使いが空色の目で睨みつける。

「あれを封印しただろう、戻せ」

「あれ」が何なのかは言うまでもない。

「詠うにはまだ早い詩ではありませんか?」

 冷静にナウシズが指摘した。

「それに、あそこで貴方の術が発動すれば、雨様も助かりませんでした」

 三個の目が大きく開かれた。

「死んでないのか」

 辺りを見回し、ナウシズが出てきた家で視線が止まる。点々と血の跡が落ちていた。

 魔法使いは大股でそこへ向かった。死体を跨いで乱暴に扉を開け、痕跡を辿る。

 剣士は寝台に横たえられていた。瞳は閉ざされたままである。胸当てと上着を脱がされた褐色の上半身は、ところどころに火傷を負っていた。胸と肩に、シーツを裂いて作った急造の包帯がぐるぐると巻かれており、そこに鮮血が僅かに滲み出している。赤い染みは寝台の上にも広がっていた。

「どうにか急所は外れています」

 背後からナウシズが囁くように言った。魔法使いは、寝台の下に蹲る灰色の塊に気付いた。気のせいか、粒子に重なって見える狼の像が、はっきりしてきているように見える。狼のおかげで剣士が一命を取り留めたらしいことを、魔法使いは悟った。

「でも、大きな血管を外れてもかなり出血しましたし、早く治療に取りかからないと危ない状態です。時間が必要なので、ここで始めたくありませんが、私ではこの人を遠くまで運べません」

 こんな近くでは、ベリスが手当たり次第に家屋の破壊を始めたが最後、すぐ発見されるに決まっている。

「俺にこいつを担いで行けとでも言いたいんだろうが」

 魔法使いが垂れ下がったままの右腕を示した。

「だったら、これを何とかしろ」

「ごめんなさい」

 ナウシズが驚いて魔法使いを椅子に座らせる。

「気付きませんでした……全然痛そうなお顔をしていらっしゃらないから」

「そりゃ、おまえが大人しくさせた杖の嫌がらせに比べれば……」

 ようやく魔法使いは、そのナルバの攻撃が止んでいるのに気付いた。

『今は非常事態だ』

 憤然として杖が応える。それぐらいは弁えているという意思がひしひしと伝わってくる。

「分からなけりゃ阿呆だ」

 魔法使いが罵る。ナウシズが真っ白に汚れた黒衣を、肩や腕を刺激しないように脱がせた。不自然に歪み、赤く炎症を起こした肩が現れる。腕に異状はない。

「この程度ならすぐに治せます」

 ナウシズは患部に手をかざした。熱を持った肩が急速に鎮静化するのが、魔法使いにも感じられる。早い。彼女が優れた癒し手であるのは疑いの余地がなかった。これならば、彼に顎を砕かれた男も全快するのに長くかからなかったに違いない。もっとも、ベリスがナウシズの居住地を襲った際に殺された可能性が高いが。

「おまえも治癒魔術から覚えた口か」

「極めるのは困難ですが、最初に身に付ける魔術としては入りやすい分野ですから。雷様は」

 森の民は、先日魔法使いが言ったことを覚えていた。青年が頬を歪める。

「資質がないのさ。理屈は全部頭に入ってるが、実践にゃ役に立たねえ」

 生物が本来持っている回復機能を無理なく後押しするのが、治癒魔術の基本である。最も基礎的な術としては、己の生命力を、手を通して相手に与える技が挙げられる。故に初心者は疲労しやすい。が、魔術師と呼ばれるまでに技を極めれば、術者はより効率的に対象の生命力を高め回復を早めたり、あるいは自分の身体を通路にするだけで、周囲のあらゆる生物から対象に与える力を供給することさえ可能になる。無論、術を施す対象も人から植物にまで広がる。

 働きかける対象が人であり、使うものはといえば自分の生命力である。しかも対象自身も回復願望を持っているので、初歩的な治癒魔術が身につきやすいのも当然と言える。いわば魔術の入門編である。現に、優れた魔術師は例外なく基本的な治癒魔術を使いこなすのだ。これであと、多少なりとも薬草の知識を学んでいれば、そこらの藪医者より余程頼りになる存在である。

 あれだけの雷精を呼べる者が治癒魔術の知識を修めているにも関わらず、全く治癒魔術を発動させられない。となれば、どこか人格に特異な面があると判断せざるを得ない。誰かをたすけてやりたいと思ったことが一度たりともないような。

 ナウシズはそれを口にしなかった。この若者がどこか人の道を踏み外しているようなところがあるのは明らかであり、その原因がどこにあるのかさえ、彼女はうっすらと察している。

「これで動かすのに差し支えない筈です」

 彼女はかざしていた手を降ろした。

「あとは、私が後押しする必要もありません。すぐに元通りに……なんでしょう?」

 魔法使いが奇妙な顔をしてナウシズを見上げている。眉を寄せて彼は考え込んだ。

「誰かに似てると思ったんだが……そんなことはどうでもいいか」

 ほとんどぼろきれと化した上衣にそれでも腕を通し、彼は意識のない剣士を背負った。魔法使いに比べると痩せている男だが、それでも重量はある。焼けただれた両腕がすぐ目の前に垂れ下がり、魔法使いは顔をしかめた。その横で、ナウシズが長剣とナルバを両腕に抱える。

「畜生」

 魔法使いは言った。

「また野郎を担ぐ羽目になるとはな。今度はどこに行くんだよ」

 ナウシズについて家を出たところで、彼は森の民に似ている人物を思い出した。思い出したが、首をひねる。いざ類似点を問われると自分でも答えられないのだ。本来ならば、似ても似つかぬと言う方が相応しい。

 その人物とは、年老いた偏屈な女魔術師、彼が束の間教えを受けた魔術の師匠だった。

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