手を引いてーー心を惹いて
「女の子との約束に遅刻してくるなんて、良い根性してるんじゃない?」
長月の息を切らせて走ってきた男への開口一番の台詞だった。左腕につけたレディスの腕時計に目をやると、男との待ち合わせよりも30度ほど長針が進んでいた。短針だと何度くらいなのかなと考えている長月の表情を怒っていると認識したのか、男はますます焦っている。
「はっ、はぁっ…… すみませんっ。メールで少し遅れますって連絡入れたんですけど……」
男は弁解を試みるが、長月が手のひらを見せるように制することでそれも無駄になってしまう。
軽くもたれていた壁から体重を自分に戻すと、長月はラクダ色のコートのポケットを探りハンカチを取り出す。そして、それを男の手に押し付けるように渡した。
「わたしは携帯なんて持ち歩かないの。ひとりでいられない気がして嫌いなのよね。ほら、ハンカチ貸してあげるからまずはその汗を拭いちゃいなさい」
男はありがとうございますとつぶやいて額にやろうとする途中で、白いハンカチに縫いこまれている金色の模様の刺繍を見る。先ほどとは違う汗を少し流すと、ハンカチを使わずに長月へ返した。
「そんなの使えませんよ… 汗は適当に袖で拭いちゃうもんなんです」
赤いカーティガンの袖を額の辺りにこすりつけて笑ってみせる男。実際のところ、今日行くラーメン屋でどんぶり10杯は食べられるであろう価値のハンカチを使う勇気は彼にはなかった。
ハンカチを返された長月は不満そうに唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「まったく白井くんはいい加減なんだから… まぁいいわ、それじゃあ行きましょうか」
半月が良く見える夜空にはところどころ雲がかかっている。今夜は雨が降るのだろうか、と男は外に干してきた洗濯物が少し不安になったが、長月の言葉に元気よく反応した。
「はいっ! あ、でも… 本当にラーメンでいいんですか?」
コートの下にみえる羊毛のカーティガン、真っ白なシャツには白地に黒の模様が入ったボタンがいくつかついている。膝あたりまで伸びる黒いスカートに黒のタイツ、身にまとうどれもがシンプルながらも高級感が漂っている。スープがとんで汚れてしまうことを気にしないのだろうか、と思い心配の気持ちをこめて尋ねた。
「わたしはね、ラーメンが食べたくてあなたに案内してもらうことにしたの。なのにラーメンを食べなかったらしょうがないでしょう?」
「は、はぁ… そういうなら」
自分が何を言ったところでこのお嬢様が意見を曲げることはない、そんな当たり前のことを思い出してそれ以上とめるのはやめた。
いま二人がいる場所は大学の正門前。道行く生徒がまずは長月を、それから男を見てなにやら首を傾げていく度に男は精神的ダメージを受ける。どうせつりあいなんてとれてませんよ… そう心でつぶやきながらそれ以上奇妙なものを見る視線にさらされないためにも動くことにした。
「わかりました、じゃあこっちなので」
「うん」
長月は男の隣を歩く。11月の風は少し寒いのだが、男の体感温度はそんなものが気にならないくらいホットだった。決して走ってきたからだけではなく。
まったく、なんでこんなことになっているのだか… 男はさまざまな気持ちを含んだため息を一度もらした。
身なりからもわかるように、長月は世間で言うお嬢様という身分だった。そんな彼女が、少しだらしない格好の男と一緒に歩いているのは、決して二人が恋人同士だからではない。ましてや顔の似ていない姉弟というわけでもないし、男は彼女の召使というわけでもない。
彼ら二人は同じ大学の院の研究室の先輩後輩という関係だ。そんな二人が夜の街を歩いているのは少し理由がある。それは昨日の研究室での小さな口論が原因だ。
「まったくお嬢様はそいうこともわからないのかな、普通ケーキが六つあったらこの研究室のメンバー六人のぶんだと思わない?」
あきれるようにお嬢様と揶揄されているのは長月である。文句の発言者、ボブカットの女性は空になったケーキの箱に目をあると再びため息をつく。
「ケーキを食べ過ぎたことと、わたしがお金持ちであることは関係ないわ」
お嬢様という部分には否定を入れない長月。研究室の同期に注意されてぷくぅと頬を膨らませている。
「一般的な感覚があればこんなミスはしないと思うけどね」
彼女が長月に文句を言っている理由はケーキについてである。ボブカットの女性が昼ごろに研究室にやってきた際に六つのケーキを買ってきた。研究室には教授と助手が一人ずつとD1の彼女らが二人、M2とM1の男性が一人ずついるので、彼女は当然一人一個の計算で買ってきたのだ。
図書館で調べ物をして、皆でケーキを食べる会を欠席してしまった白井が研究室に戻ってきたのは午後時ごろ。ケーキの話を聞いてそれじゃあいただきますと冷蔵庫を開けると、なんと箱は既に空になってしまっていた。一緒に冷蔵庫まで来ていたボブカットの女性がまったくもう、とあきれ声を漏らしたのがこの争いの始まりだ。
ちょうど冷蔵庫のあるミーティングルームに居合わせたM2の男は自分はひとつしか食べてないと弁解するが、こんな非常識なことをする人間は間違えなく彼女だ、というのはその場の三人の共通見解だ。
白井はことを荒立てないように、もういいですよといったのだが、ボブカットの女性はそれを聞かず、もうあったまきた! と怒りながらずかずかと研究生室へ向かう。そしてパソコンで作業をしていた長月に後ろから尋ねた。
「あなた、ケーキ何個たべた?」
「ふたつよ。あのあともうひとついただいたわ」
ケーキを夕方ごろ一緒に食べたのは、たまたま手の空いていたボブカットの女性と助手と長月だった。あとは冷蔵庫にしまっておきましょうねと言った言葉を、長月はどうやら別の意味で捉えていたらしい。
「あんたね… 六人で六個なんだから普通は一人一個でしょうが…」
「あら、食べたときは三人で六個だったわ」
当然のように首をかしげる長月に皆があきれた。そしてまったくお嬢様は… という回想の冒頭に戻る。
「どうせパンよりケーキを食べるようなお嬢様なんだから、ほんっとうにしょうがないわね」
「わたしだっておなかがすいてればケーキ以外だってたべますよーだ」
だんだんと論点がずれているがもう白井以外のメンバーは聞いてもいない。こんな論争はここでは日常茶飯事で気にするだけ損なのだ。
自分のせいで争いが始まったといえなくもない、とまったくお人よしなことを考えている白井はなんとか場を納めようと考えるが、二人の口論に口を挟めずにただただ見ているだけである。
「あら、庶民の料理は口にしないんじゃございませんの?」
「馬鹿にしないで。わたしだって普通に何でも食べるわ!」
「たとえばどんな? 牛肉のフォアグラソース添えとか?」
「ラーメンとかよっ!」
どうやら長月はラーメンを大衆食だと考えているらしい。確かにそれは間違っていないのだが、そのチョイスがますます彼女の存在を浮世から離れさせる。
「へぇ、じゃあこの辺でラーメン食べたことあるの?」
もはや口論の起こりとは何の関係もない。白井はいつまで続くのだろうかと時計に目をやる。
研究室のプリンターが動く音が静かに聞こえるが口を止めない彼女ら二人には聞こえていないだろう。
「この辺ではまだだけど… でも明日行く予定よ! 白井君とっ」
突然自分の名前を呼ばれてびくっとする白井。二人の女性の目がこちらに向いてたじろいでしまう。
横に目をそらしたときにM2の先輩と目があったが、先輩はどんまいと口パクで伝えるだけで自分の作業に戻ってしまう。助けてくれる気はまったくないらしい。
「そうなの? 白井君?」
「そうよね、白井君?」
二つのプレッシャーが押し寄せている。その中でも、違うといったら許さないと目で語っている長月の圧力のほうがより強かったのだろう、白井はこくこくと激しく二回うなずいた。
「ほーらっ、わたしだってラーメンくらいたべるのよ」
得意になる長月。くやしがる相手。何がなんだかの白井。なんとも言えない三人の図である。
いつまでも無駄口たたかない、と助手が言うとこの論争はピタリと止まった。とめてくれるなら面倒なことになる前にしてくれれば良かったのに、とうなだれる白井。
そういうことだから、明日夜の七時に正門ね。と当然のように約束を取り付ける長月に白井が逆らえないのは、彼のお人よしな性格がもたらすものなのだろう。
かくして二人は一緒に街を歩いているわけである。架空の約束を本当に行うのは、長月が変に律儀だといえばいいのか、白井がお人よしだといえばいいのか。ラーメンを食べることはあの問題の何の解決にもならないが、逆らうことも出来ないので仕方ないかと白井は歩いている。
ここまでの流れだけを見ると白井氏はただの不幸者という風に感じてしまうが、どうやらそういうわけでもない。
考え方の世間離れ感なども含めて白井は長月のことが嫌いではなかった。そのため、これをきっかけにお近づきになれればなんちゃら… と純粋な好意以外の何かも持っていたので、この二人食事会は決して白井にとって損というわけでもないのだ。
信号が青になるとたまっていた人のかたまりが流れ出す。駅へと続き道は、この時間は生徒が大半を占めている。そのまままっすぐ駅へと行くものもいれば、複数人で商店街へ進む者もいる。長月と白井はラーメン屋のある商店街へと進む。
「長月さん。一応聞きますけど、ラーメンはご存知ですか?」
およそ学生同士の会話とは思えないが、長月はそれくらい浮世離れした存在なのだ。白井が少し不安に思うのも無理はない。
「もちろん知っているわ。簡単に言えば麺とスープと具材の組み合わて作るものなのよね。麺は小麦粉を主原料として、調理過程でかん水が使われていることがパスタとかとの違いね。スープは豚骨、醤油、塩、魚介系などさまざまで、どれもとても時間がかかって家庭では作りにくい。具材は味玉やメンマ、のりなどが主流なのかしら」
……。それはラーメンを知らない人の答え方です… とはいえなかった。
おおかた、ネットでいろいろ調べて知識は得てきたのだろう。そのがんばりと記憶力は賞賛するべきだが、やはりどこかずれている長月はやはりお嬢様なのだろう。白井はなんと言えばわからず、その通りですと答える。
「もちろん、わたしだってラーメンくらい当たり前のようにしってますからね」
胸を張る長月に苦笑し、二人は商店街の奥へと進んでいく。ラーメン屋は人がにぎわう通りの終わりのほうにあるのだ。こってり系のスープが学生の間で人気だがこの時間ならまだ待つことなく入れるだろう。
街はだいぶ気の早いクリスマス調で、商店街の広場に二メートルほどのクリスマスツリーがたっている。ケータイショップの前ではサンタコスプレのお姉さんがなにやらティッシュのようなものを配っている。白井は回りに同級生がいないかときょろきょろしている。女子っ気のないコミュニティに属しているので誰かに見られれば翌日には質問や糾弾を受けることは間違え。面倒なことにならないためにも友人たちに鉢合わせないことを祈るように一度目をつぶった。
「ところで白井君は今日いくラーメン屋さんにはよく食べに行くの?」
「そうですね。友達と月に一度くらいは行きますよ」
「友達って女の子?」
「ぶっ!! 先輩… 僕に女友達がいるように思います?」
「えー白井君かわいいから女の子に人気ありそうなのに」
「からかわないでくださいよー」
からかってないよっと笑う長月に照れた顔を見せる白井。彼の照れた顔を見てますます面白がる長月はそれからの道中も彼にさまざまな質問を投げつけて困らせた。
商店街を五分ほど歩くと件のラーメン屋が見えた。
学生証を見せれば大盛りサービスをしてくれるため店の前に入り待ちの人がいることも珍しくないが、幸い今日はそれほど込んでいないようだった。
「あ! あそこのラーメン屋さんね!」
「えぇ。今日は並ばないで入れそうです」
長月が少し小走りになって前を行く。彼女の流れる長髪からはシャンプーのような良い匂いが香った。
「わたし実はこういうお店初めてなの。楽しみ!」
店の前にたどり着いた長月はそんなことを言って白井をぎょっとさせたが、そんなこと気にもしないという風に長月が扉に手をかける。
こういう店というのはラーメン屋のことなのか。まさか扉前にドアマンがいないことじゃないだろうなと冗談を考えて白井は笑おうとしたが、案外ありえないこともない気がして引きつった笑いになってしまった。
「よっしゃー今日は特盛り食べるぞ!」
いざ店に入ろうと長月が店の扉を空けたとたん、白井のよく知る声が店内の温かい空気とともに二人の顔に当たった。
それと同時に白井の顔がさっと青ざめる。まさか… いやそんな漫画のような展開はないだろう、ただの気のせいだ。そう心中でつぶやく白井にさらに追い討ちがかかった。
「今日白井は来れないんだって?」
「あぁ、連絡したけど今日は用事があるって。珍しいよな」
「まさか女とデートしてるんじゃないだろうな。ってそんなキャラでもないか」
わははと笑っている一同の声に白井は確信を得る。彼らは他でもない、白井の友人たちであったのだ。
時間帯は込み時には少し早いとはいえ学生に人気のあるこの店。そこに今日たまたま白井の友人がいたとしても確かに不自然ではない。
──何であいつらここに…… ってこのままじゃ!!
白井は考えるより前に行動に出ていた。今まさに店内に入ろうとしている長月の手を掴み、ぐっと自分のほうへ引っ張ったのだ。
「え、ちょっと!」
彼女の言葉も聞かず手を引っ張って走った。
普段の白井なら女性の手に触れるなんてとても出来なかっただろうか、このときばかりは我を忘れたかのように走った。少しでもそこから離れるように。店から流れてくる食欲を誘うにんにくの匂いから、友人たちの声から逃げるように。
はぁはぁ…… ラーメン屋から百メートルも離れたところでようやく白井は止まった。同じく息を切らしている長月になんと言えばいいのか、と困った顔をする白井。
長月は突然のことで仰天して手をひかれるがままに走ったが、やっと足が止まり息を整えているうちに突然笑い出した。
白井は彼女が腹を抱えるように笑っている理由がわからず再び困った顔をしたが、とにかく謝ろうと頭を勢いよく下げた。
「あの! い、いきなりすみませんでした」
「もぉびっくりしたよー でもなんか面白かった」
白井が突然走り出した理由を説明すると、長月は再び笑った。
「それはビックリだったね。でもせっかくなら白井君のお友達にも挨拶したかったかな」
「じょ、冗談じゃないですよ…… でも今日はラーメン食べるのは無理そうですね」
「えーせっかくきたんだから近くでコーヒーでも飲んで待とうよ」
彼女が指差したところには今まで一度も入ったことのない喫茶店があった。このあたりには食事処もないので大学生の姿はまったく見当たらない。
ラーメンを食べるためにコーヒーを飲んで待つ。一般人には及びもつかない発想に長月は苦笑した。
「わかりました。でもあの…… いきなり手を掴んでは走ったりしたのに、そんなに引いたりしないんですね」
怒ることも気味悪がることもしない長月にもう何度目かわからない申し訳なさそうなかもを見せる白井。彼を見ていたずらに長月は少しいたずらに微笑んだ。
「引いてないよ。でもちょっとね…… 心は惹かれたかも……」
少し頬を染めてそういう長月。生娘のようなその態度に、白井は首まで真っ赤になって口をパクパクさせる。
冗談だよーと再び長月は笑ったが、その後の彼女の表情からはそれが冗談だったのかはよくわからなかった。