鬼童頌歌
1.神崎七星
剣闘士が本来の奴隷という意味合いから、例えば日本の剣戟や中国の武侠に見られるような武芸者の意味合いを持つようになったのはいつ頃からだったろうか?
ともかく剣闘はかつて行われていた野蛮な見世物とは毛色が違う。いうなれば格闘技のようなもので、男女問わず人気がある。学校の部活といえばまず第一にそれが挙げられるだろう。
神崎七星が剣闘を選んだ理由も小さい頃から皆やっていたからだ。そして幸いなことに彼女には適性があった。そうだから今日も当たり前に、彼女は古代のフラヴィウス円型闘技場を模したスタジアムにて、観客を前に見世物を披露していた。
「――――っ!」
鋭く吐かれた息とともに繰り出された円錐状の矛先は、一片の容赦なく七星の胸元を穿とうとする。そんな状況に興奮と緊張がない交ぜになったような感情を覚えながら、しかし微塵の怯えも恐れも見せず彼女は一歩踏み込んで和刀を振るい、絶妙な力加減で擦り上げるようにそれをいなした。チリリと爆ぜる火花に歓声が高まる。
相手方の少女の格好は銀白のヘルムにアーマー、ランスに盾というヨーロッパ風の騎馬兵といった装いだった。いや、馬には乗っていないので重装槍兵か。ともかく久々に見る本物だ。ヘルムの後部で揺れる赤毛が、ともすれば無骨な見目に一点の華を添えている。
それにしても運動性を犠牲にして申し分ない隙の無さである。全身を銀と白で統一することで胸元の白玉を此方の視覚からまやかし、小柄な繰り手には大き過ぎる馬上槍と盾は、両掌と両肘の白玉をそもそも候補から外している。狙うべきところが上半身のその五か所にしかない以上、ならば彼女は少女の前に立たざるを得ない。
一撃必殺を旨とする槍兵の眼前に、だ。
また刺突が空気を裂く。それを素早くかわす彼女の格好は薄手で、なにより派手であった。歌舞いているといってもいい。光の加減で赤毛にも見える茶髪を男型の茶筅髷に結い、全身を着飾るのは砂金の桜吹雪をあしらえた紅白の羽織袴と、翡翠を填め込んだ胸当と手甲、それでいて下には黒のインナーウェアを着込んでいて、足元には陸自でも扱われるような焦げ茶色のミリタリーブーツである。和風ではあるが時代錯誤も甚だしい。まさしく傾奇者だった。
その左手に握る得物は、彼の佐々木小次郎の業物を模した超大刀にして銘を備前長船長光。その通称を物干し竿という。どうして身の丈にあった得物を採らないのかと、事情を知らない者にはよく聞かれる。そんなときはいつも決まって、彼女はこう答えるようにしていた。
この方が揮えるからだ、と。
(それに目立っていいでしょう?)
大抵は見知らぬ者に前者の言葉で感心され、見知った者に後者の言葉で呆れられる。けれど叱責された試はまだない。誰も七星の発言を己惚れとは受け取らない。それは剣闘士としての彼女の実力が既に内外に知れ渡っているためだ。
彼女にとって剣闘は公式だろうが私情だろうが試合ではない。
彼女にとって剣闘はどんな一戦も関係なくただ見世物である。
突きの一撃をブーツに仕込んだ金物で追蹴りし、衝撃を利用して空を舞う。その身は女の子らしい矮躯ではあるが、同時に、洗練された薄肉は見目からは想像もできない動作を可能とさせていた。
「――――はっ!」
着地した七星に向けて吶喊する少女の連撃を、白刃の輝線が逸らす。ランスを繰る少女には現状が理解できなかった。あんな細く薄い竿なんぞに何故、自分の得物がこうも容易く弄ばれるのか。然りと狙って放ったはずの刺突が、気づけば見当違いの方向へと流れている。
まるで意のままにならないのだ。確かに体重は乗っている。だから並大抵の防御なら力技で打破できるはずなのだ。だというのに。頼みの重き穿撃が、軽き竿の剣光などにいなされる。
これではいくら速度を上げても意味が無い。銀白のバイザーの下で歯軋る少女とは対称に、踊るように猛攻を捌き続ける彼女の顔面には一刹那を楽しむ強者の笑みが凄んでいた。掠れる寸前を縫うようにいなし捌く。その左一手の妙技はいかなる流派にも属さぬ我流であり、それこそが万人をして彼女の名を知る由来である。ある者は寒心とも呼ぶ常人離れした挙動、魅せる業は破天荒、されども其は未だ敗北を知らず。
彼女は勝ち続けてきた。しかしそれでもまだ満足できぬ。見世物ではない剣闘を、己と誰とが全身全霊を賭けて果たし合う試合をいつだって望んできた。けれどその誰は未だかつて姿を見せず、それ故に彼女はいつからか慢心を装い始めていた。
邪魔だと嘯いて持ち盾を棄てた。無粋だと嘯いて脇差した小太刀を棄てた。無駄だと嘯いて最低限の鎧以外は棄て去った。そうまでして手にしたのは、まったく価値を見いだせぬ道化の栄光。世に相克、陰陽、善悪。対なるものは多々あれども彼女に見合う相手など、少なくとも同世代にはいなかったという現実だ。ここまでして剣闘は、試合のような見世物にしかならなかったのだ。
踏み込む一歩は地を砕き、少女の瞬きの間に、彼女はその死角へと潜った。視線を外すのは得意だった。なんせ初めから外れているのを意識して合わせていたのだから、そうなることも肯けた。教えてくれた人は酷く驚いていたけれど、思えばそこからして既にずれているのだ。そうして振るわれる認識よりも早く速き鋼の刃を、只人が防ぐ道理など有りはせず。
「…………ふえ?」
人の間合いの常識の外の外から奔る輝線は、少女の銀白の武装、その悉くをまるで繋ぎ目にでも沿ったかのように切断した。称して一息三閃。ランスの持ち手に盾の上辺、そしてヘルムのバイザーをも巻き込んで胸元の白玉がゆっくりと上下にズレる。そこから覗いた相手方の表情は、無骨な装いからは少し想像できないほどにあどけない少女のものだった。
「如何に?」
続く七星の言葉に金髪碧眼の少女は数度瞬きした後、ゆっくりと彼女の顔と自らに突きつけられた竿とに視線を交互させ、それからやっと胸元の切断されている白玉を見やって困ったように笑った。そうして肯く。瞬間、爆発した歓声に彼女は右拳を突き上げて答える。綺麗な腕だ。白くて細い女の子のものだ。未だ使われたことのない利き腕だ。
鬼童、と客席から彼女の名を叫ぶ者がいる。
当代最強とも称される天武の才、バトルランキング第一位。その剣舞は魔的な輝きを以て観客を魅了する。誰が言ったか鬼の文字、誰が言ったか童の文字。掛け合わせて神崎の長女はこう呼ばれた。
鬼童の七星、と。
されどこれはそんな英雄の物語ではない。
2.神崎七夜
七星、と。
姉を呼び捨てられなくなったのはいつからだったろうか?
「神崎さんですか!」
違いますと七夜は応答した。確かに自分は神崎姓ではあったが、その名字を同世代が呼ぶとき、それは決まって神崎七星のことを差していることを知っていたからだ。しかしこの応答が無意味であることを彼女はまた知っていた。
「何言ってるんですか? 神崎さんじゃないですか!」
「だから違います。私は神崎七夜です」
振り返った七夜の無表情とその名前を聞いて見知らぬ少女は顔を青ざめた。こういう周囲の無神経な配慮がまた彼女を苛々とさせていることを誰もが正しく誤解していた。
天才と凡才。
言ってしまえば姉と妹の関係はその一言に尽きる。顔の似ていない双子など星の数ほどいるが、顔の似ている双子もまた星の数ほどいる。彼女と姉は後者で、家族で、しかし中身だけがまるで別物だった。
近年旺盛である剣闘競技において未だ無敗を誇る姉と、勝利数こそ多いがけして良い噂を聞かない妹の、そんな双子の確執の話はこの広いようで狭い業界内でも有名だ。
皆と同じ練習で何倍もの成果を叩き出す姉は正真正銘、天武の才に愛された鬼童。
誰よりも長く辛く血の滲むような努力を重ねる妹は、それでも良い選手止まりで、その容赦のない苛烈で、手段を選ばない戦法と単純なる嫉妬から周囲にこう呼ばれていた。
「妹さん。――〝げほう〟ですか?」
「如何にも」
外法の七夜、と。
それが自身の姉を張子としていると陰口を叩かれる妹に与えられた役割だった。
「それで姉さんにどのようなご用件でしょうか? よろしければ私の方から伝えますが?」
乏しめられても無表情を崩さないのは単に相手にしていないからか、それとも誇りの敷居が低いからか。少女には判別がつかなかった。けれどこの申し入れは少しだけ意外だった。
外法と呼ばれるからには七夜には人を思いやる気持ちなど有りはしないのだ、と勝手にそう納得していたからだ。ちょっとばかしの躊躇の後、少女は手持ちの鞄から便箋を取り出した。
「あの、あたしアリスっていいます! 先日、その、神崎さんと試合をさせていただいて、だから一度でいいからお話ししてみたいなって……」
自分の拙い日本語が目前の七星に伝わっているか、アリスには少し自信がなかった。なにせ憧れの神崎さんと見目はまったく同じである。ある意味、本人を誘うより緊張していた。だから言葉を終えるとともに便箋を差しだし、少女はぎゅっと目を閉じた。家族や友人からは子供みたいと言われてしまう少女の癖だった。
「……わかりました。これは――悪しからずお任せください」
そう言って七夜はアリスの手紙を受け取った。ぱちぱちと幾分か瞬きをして状況を認識した少女は華の笑みを浮かべる。その後ありがとうございましたと、何度か礼をして嬉しそうな様子で少女はその場を去った。
「――――ふん」
そんなアリスの後ろ姿を七夜は憎しみを携えた瞳で見送っていた。踵を返し、歩みを再開する。その途中、周囲に人影がないことを確かめると彼女は便箋の上口をビリリッと千切った。手紙を広げ内容を読む。女の子らしい丸っこい字で書かれたその手紙はどうやら少女と、その友人が七星をお茶会に誘ったものだった。一応、最後まで読むと興味を無くしたかのように手紙をたたんで、彼女はそれを自分の鞄の中にしまった。
「下らない」
もしもこれがそんな風を装った手紙だったのなら、七夜はしたり顔でそれを七星に伝えただろう。それも私が聞かされたといった態度で、だ。けれどそれ以外ならばこんなもの――姉にとってはなんの価値もない無意味なものでしかなかった。
そうして一人の少女の想いは黙殺された。この事実を知ったアリスが七夜に決闘を申し込んだのは言うまでもない話である。
外法は外道。
彼女は騎士道を信奉する少女とはけして相容れない。
◆
アリスは激怒していた。
必ずや彼の外道に鉄槌を下してやるのだと意気込んでいた。少女は生来の気質のせいか人が良かった。そして偶然にも少女の周囲には、そんな少女の純朴さを汚すような輩はこれまで現れたことがなかった。いうなれば善意に包まれて生きてきた。
だから、だからだ。
そんな人間がいるなんて考えもよらなかった。任せてくれと言っておいて、まさかそれを鼻で笑うような真似をするなんて許しがたい所行だった。けれど表面上は怒りを見せていた少女だが、同時に少し困惑もしていた。どうして人の思いを、手紙を、そうも粗雑に七夜は扱えたのだろうか。彼女からはそんな育ちの悪さはうかがえなかった。いや、むしろ――。
神崎さんに比べれば妹さんは少女には随分と礼儀正しく思えたのだ。
だからもしかすれば、そう、本当にもしかすればどこかで行き違いがあったんじゃないか、と。何か事情が、理由があったのではないか、と。むしろこの決闘を機に彼女とも自分は仲良くなれるのではないかと、希望的観測ではあったがしかし少女はそう考えていた。そう。
「……考えていたのに」
「ふーん、お生憎様」
アリスの目前で手紙を揺らす七夜は口の端を大きく歪めて嘲笑を浮かべていた。先日の淡々とした無表情はそこにはない。晴天のスタジアムにて彼女はまるで太陽を蝕む日食の月のような禍々しさを撒き散らしていた。蓋を開けてみれば事実、彼女は単なる邪悪であった。それこそが少女には許せない。まるで反省のないその様は酷く癇に障った。
「どうして」
「んー?」
「どうして、……そんな態度でいられるんですか? 貴女が手紙の件をただ忘れてしまっただけというなら、あたしは今日の決闘ですべてを終わらせることができたのに。なんでその手紙を貴女がまるで当たり前のように持ってるんですか! 答えろ、……答えろ、神崎七夜!」
アリスの叱責を受けてなお七夜は平然としていた。奇妙な話だ。それは平時の少女と現在の少女を、彼女は限りなく同一と受け止めているということだ。
少女は試合になると人が替わる。それはヒーローが仮面を被る行為にも似ている。少女は全身に白銀の甲冑を鎧い、兜で相貌を隠すことで別人に替わる。七星に兜を切断されてから少し調子を崩していたが、それでも未だ少女はバトルランキング第七位――その名も白銀。
白銀のアリスである。
ランキング二十一位風情がまかり間違って勝てる相手ではない。そうだというのに、外法の、この余裕はなんだ? 少女は改めて彼女を睨めつけた。
神崎の妹は武侠の三国志でよく見るような衣装だった。漆黒の戦烹の上に緋色の煌めく紅玉を基調としたこれまた漆黒の明光鎧、そして手甲と続き、何故か足元は姉と同じ黒色のミリタリーブーツ。全身を黒尽くめで覆う中、首元にまかれた唯一白色のマフラーが風にたなびいていた。姉が紅白ならば妹は白黒といったところか。
けれどその手に握る得物は彼女が、姉の神崎とはまったく別の武技を信仰する神埼であることを端的に証明していた。一見して四メートルはありそうなその得物は三国志にでも肖って青龍戟でも模したのかと思ったが、それは槍の矛先に刺突はニードル、側面には斧頭、その反対側に三本のスパイクが取りつけられた槍斧、すなわちハルバードであった。
「答えろと言うなら答えましょう、勘違いのお嬢さん」
ハルバードを片担いだ七夜は顔面の嘲笑を崩さぬまま、まったくアリスの記憶通りの平坦な声で続けた。
「貴女は私の〝お任せください〟という一言を過大解釈しているようですが、私はその前にきちんと〝悪しからず〟とも言ったはずです。ああ、日本人ではない貴女には少し紛らわしかったかもしれませんね。これは遠回しの否定表現なんですよ。――つまるところ。私は初めから、貴女の要望を姉さんに届ける気なんて更々なかった」
しかし一見幼くさえ見えるその相貌にあって爛々と煌めく餓狼のような眼差しが、薄く開いた唇から覗く犬歯が、そんなものは単なる演技でしかないとアリスに教えていた。その感情の名を少女はよく知っていた。なんせそれは今まさに目前の彼女に向けて抱いている思いと同じだからだ。
「わかりますか? 貴女のその怒りも憤りもすべてが独りよがりってことです。……だいたい、先日の敗北者とその取り巻きが勝利者たる姉さんを招待したい? 冗談もほどほどにしてくださいよ。不相応なんですよ。なにより信用はできるけど信頼はできない、そんな不確かな相手の下に姉さんを送るなんて裏切りは、とても私にはできないことです。それでも会いたいって言うのなら、――せめて私を倒してからにしてくださいよ」
そう二十一位は第七位を見下した。
握り潰された手紙が地へと落ちる。それを見るに至り、遂にアリスの我慢は臨界を越えた。裂帛の気迫とともに吶喊が開始される。目指すは七夜のその胸元の紅玉ただ一点。どんな試合だろうとそこを砕かれればそれで終了だ。その事実を前に些細な手傷など構いはしなかった。
突き出されたランスの銀光が裂空する。それをハルバードの平面が叩き逸らす。真横に流れていく刀身を力技で引き止め、そのまま振りかぶるように少女は再びランスを向けた。しかしその大回り過ぎた弧線の隙間を縫うように穿たれた彼女のニードルの針先に、少女は攻勢を中断し、防御に回らざるを得ない。細かな衝撃が幾度も少女の四肢に響いた。
嫌らしい、身体に疲労を蓄積させるようなダメージの与え方だった。戦い方まで卑怯な奴だ。考えの賤しさは行動に現れる。騎士の少女はそんな彼女を憐れんだ。
「卑怯な……」
「――まあ。名前を覚えるような価値もない女ですから、私は」
最中に呟いたそんな一言に七夜は律儀にも反応を返した。そこでアリスは不意に、顔を合わせてから今までたった一度しか神崎七夜の名前を呼んだことのない自分に気がついた。そしてそんな気づきがほんの数瞬、少女の肝心を揺らがせた。
「あっ」
それは弛緩となって現実のアリスに反映される。僅かだが致命的な隙だった。盾の裏隙間に、ハルバードの斧頭の切っ先が引っかけられるのを許してしまうくらいに。
前のめりに傾いた少女を、彼女は抱き寄せるように胸元へ導いた。引っ張る勢いのままにハルバードを持つ右手を離し、左手でランスの方の肘関節をしっかりと掴むと、そのまま少女の股の間に足を滑り込ませ、振り子の要領で少女の膝をかくりと曲げさせる。
「―――――かっ」
地面に仰向けに叩きつけられたアリスの肺から空気が零れた。七夜はマウントポジションのまま、変わらぬ嘲笑で少女を見下ろしていた。
「他愛ない。こんな小手先に惑うとは……やはり貴女に姉さんに会う資格などなさそうですね、お嬢さん」
「……卑怯な。それも見せかけですか? 外法」
「さあ。どうお考えですか、白銀殿?」
疑惑と混乱は時にたやすく破滅を誘発する。故に七夜の試合に対する姿勢はそう非難された。持てる力と知ではなく、運を利用するような戦い方。見せかけの悪意、それでいて力と知はけして他者に引けを取らない。ただただ卑怯、卑劣。それを恥とも思わぬ外道。そんなやり方を、彼女は戦法の領域にまで引き上げていた。
神崎の双子の姉が鬼ならば妹はまさしく人である。人間ではなく人だ。次女にはどこまでも道徳が足りない。人間になれぬ者。人。協調得られぬ、そのあくまで勝利に拘る姿勢はけして崩れぬ己を以て初めて対等に戦えるものだと、七星にそう言わしめた。
鬼より鬼らしい人、其は容赦を知らぬ。
「……Damn」
「さよなら騎士よ、次は馬を連れてくるんだね」
そして七夜の右拳の一撃がアリスの胸元の白玉を砕いた。
いつのまにか終わってしまった試合に観客からヤジが飛ぶ。そんな中を漂々と歩き去る彼女の表情はまた普段通りの無表情。残されたのは騎士道を砕かれて横たわる敗北者の涙のみ。
中央掲示板がバトルランキングの変動を報告する。久しぶりの大躍進だ。決闘に勝利した者は相手のランクが自らより高かったとき、そのランクを我が物とすることができる。
そうして二十一位と第七位が入れ換わった。
簒奪だ、と誰かが叫んだ。
その言葉が波のように観客に伝播してく。初めて彼女の表情が年相応なきょとんとしたものとなった。その言葉の意味を正しく理解して。足を止めた彼女は振り返ってハルバードを空に掲げた。一瞬の静寂。継いだのは歓喜に怒気に、拍手に口笛をゴチャ混ぜにした騒音。しかしそれを一身に浴びる彼女の相貌には、獰猛な本心が浮かび上がっていた。
簒と奪。二つに分けても意味は同じ。しかしなるほどそちらの方が、外法よりかは心地好い。呼ばれたのなら応えてやるのが我が道だ。そして神崎の次女は名を改める。
簒奪の七夜、と。
それがこの物語の主役たる少女の新たな役割である。
3.鬼童頌歌/裏
たった一つの心配事は、七星がまだ泥まみれの敗北の味を知らないということだ。
「……安寧が過ぎる」
七夜は立ち上がる観客を後目に席に座り続けていた。
彼女は七星の試合を一度も見逃したことがない。姉が著名になる以前から妹は毎度の如く会場に足を運び、その勇姿を視界と記憶に収めてきた。今日も鬼童は無傷である。相変わらずの絶対的なまでの強さは、バトルランキング第一位という称号を嘘偽りのないものと周囲に知らしめている。紛れもない本物、それこそが神崎七星だ。
けれどもどこか違和感を彼女は覚えていた。それは先の発言にも表れたとおり、姉の態度が不自然なまでに落ち着いていて危なげなく安定しており、そうだというのに何故か反応速度が、自分風情が違和感を覚えるまでに落ちているということだ。それでも並の相手を寄せつけない強さというのだから驚きだが、これは――しかし。
「あれぇ? よっちゃんじゃないですかー」
どこか外れたような甲高い声で七夜のことを呼ぶ者がいた。視線を向ければそこには自らを指差してなにが可笑しいのか、ころころと笑う少女がいる。
「……夕霧、ですか? また髪を染めたみたいですね」
「そうだよ、なんせ春だからねー。己も彼方も皆々桜色だぁ!」
バトルランキング二十五位。
道化の夕霧は、その通り名を誇示するかのようなピンク色の髪をしていた。この少女に常識を説いたところでけして意味などないことを七夜はよく理解していた。少女は酷く鋭く脆い。それ故に既に諦めている。憐れにも肉食獣に食い荒らされた草食動物の残滓、というのが彼の者を説明するに当たっては適切だろう。これがかつてはバトルランキング第五位を誇った稀代の凡人、千里の名を冠する猛者だったことを覚えている者はもう少ない。
「それにしても、今日はよっちゃん静岡で試合だったよね。それがどうして青森なんかにー? ……いや、わかってるけどさ。けれどよっちゃんのそういうところって、本当にウザいなー。うん、気に障る」
当然のように七夜の隣に腰かけて紡がれる夕霧の言葉は、ストレートなまでに皮肉だった。道化は言葉を隠そうとしない。しかしそれ故に嘘は吐かない。転落してからの少女はそういうスタンスで生きていた。そして少女を転落させたのは彼女であり、その姉の七星であった。
「ホント、これがお姉ちゃんなんか大嫌い! なんて、そんな風に勘違いできるんだから馬鹿は救えないよね。いったいどこが? そんな訳ないじゃん? よっちゃんはお姉ちゃんが好き好き大好き過ぎて、今日も手前の試合をほっぽり出して応援に来ちゃった次第ですけどー? あっひゃっひゃっ!」
早口で繋ぐ言葉はどこか嘘くさい。しかし七夜は、夕霧のそれが異常なまでの対象の観察と研究によって裏打ちされた発言だということを知っている。
少女が闘技場に顔を見せるとき、勝敗は既に少女自身によって定められている。少女はプロの剣闘士だ。勝敗を、今後を見据えて自らコントロールすることには長けている。
七星という稀代の絶望を目の当たりにしてから少女は勝つことを諦めていた。それでも武芸を嫌いになりきれない一人の半端者は、負けない道を、より長く縋り留まる道を選んだのだ。
その姿勢に彼女は敬意を表している。絶望を仮面で覆い隠す者、データ分析からかつては無名だった姉の才能を最も早く見抜いた千里眼の持ち主。そんな二人は奪った者、奪われた者という関係ながら交友関係にあった。
「――それで。貴女がこうして私の隣に座ったということは、ここ最近の姉さんの様子について嫌味にも丁寧に教えに来たということでしょう? 参考までに聞かせてください」
教える気がないのならこうして夕霧は隣には座らないだろう。それを考えると、七夜は少し憂鬱な気分になった。それは姉の七星にあってほしくない、面倒事が起こっているということだからだ。
「まあ。恐喝とか談合の依頼とか、そういうよっちゃんが本当に嫌だなーと思うようなことは起ってないから安心してよ? ただ。それでもある意味、厄介といえば厄介なんだけどねー」
そこで一端言葉を区切り、試すように夕霧は七夜を見た。
「今度のお相手候補は、夢半ば敗れた騎士のお兄さんらしいよ?」
「ぶっ潰す」
七夜は即答した。間髪過ぎて、夕霧は茶々を入れる暇もなかった。暫くの無言の後、クククと少女の喉は鳴り声を上げ始めた。まったく。これだからこの双子は面白い。姉は異常なまでに才能に愛されているが、等しく妹は異常なまでに才能を愛している。そう、戦闘本能とでも称するべきか。考えてみればわかりそうなことだが、発揮するベクトルが外面か内面かというだけで案外、人は判別できなくなってしまうものらしい。
鬼の妹が人? つまらん冗談だ。血肉を分けてこの世に生まれ落ちた双子に、そうも違いが現れる訳がない。鬼の妹はどこまでいっても――鬼であると少女は確信する。異種混合など有りえぬ。こいつ等はどこまでいっても人の皮を被った化物なのだ。そして有りがたいことに身内にご執心と来ている。そんな絶好の観察の機会を千里眼の少女が見逃すはずがなかった。
「あやややや、よっちゃんは恋愛の自由意思を否定するのかなー。それはジェンダーだよー、いけないね」
「下らない。恋愛なんて精神病に過ぎません。なにより、――姉さんにはまだ早いんですよ、そういうの」
「――――くっ」
愉快過ぎて夕霧は思わず吹き出してしまった。ならば七夜の感情はなんだというのだろうか。この偏執的なまでの七星への執着は愛でも恋でもないというのか。そんな訳がないというのに、肝心なところで彼女はいつもお子様だ。そういうところに無自覚な言動が、また少女の笑いのツボにはまるのだ。しかし訝しむ彼女に少女は正直になんて教えてはやらない。こういうのは黙っていれば大抵、面白い方向に話が転がっていくのを感覚として少女は理解していた。
「そうなのかー。まあ、己は話すだけだから、後はよっちゃんの好きにすれば良いんじゃないかなー。けどさ、なんか今回はお姉ちゃん、ちょっと本気になってるみたいだよ?」
言いたいことを言うと夕霧はさっさと立ち上がった。その動作の合間に七星の相手方のことが入力されたメモリースティックを置くことも忘れない。そしてまるで何事も終わったかのように、七夜に一瞥もくれることなく少女はその場から去った。
「――――ふん」
暫し残されたスティックを空にかざしてボンヤリと眺めていた七夜だったが、やがて肯くとそれを鞄の中にしまった。夕霧の考えはだいたい読める。彼奴は刺激なき平穏よりも不穏を好む人間だ。だから未だ武芸から離れられない。今度も精々、姉妹そろって大喧嘩にでもなれば良いとでも考えているのだろう。気に喰わんという思いはある。けれど敢えて踊ってやろう。
「馬鹿者が、……篤と塵に還るが良い」
未だ見ぬ姉の彼氏なる幻想に七夜は中指を立てた。
例えば、夜空に煌めく流星を人が美しいと想うのはそこに暗闇が広がるからだ。
対なる両方は陰陽を孕むがしかしそれ故に一つの完成された風景であり、そこに美醜の優劣は生じえない。夜あっての星である。空あっての星である。されど人は時にそれを忘却する。
星は星であるが故に美しいのだ、と。
胡乱を妄信し、星の光を日の光と混同した者はやがて、自分自身が違えていたことすら気づけなくなる。この世に絶対などあるはずもないというのに、自らの教えに背いた他者を神気取りの偽善者はこう罵るのだ。
裏切り者!
裏切り者!
裏切り者!
それがどれだけ身勝手かも知らず、それがどれだけ無価値かもわからず、浅はかにも彼奴らは声高らかにそう謳うのだ。まったく。その欺瞞と不遜には憐みさえ覚える。
星は夜と空があるからこそ美しく煌めく。しかし対等であるということは同一であるということではない。
星には星の役割が、夜には夜の役割が、空には空の役割が、それぞれが調和するからこそ星である姉さんは美しいのだ。それを夜である神崎七夜が、空である彼奴らが、自覚せずしてどうするのか。人間は対等ではあるがけして平等ではない。そんな当たり前のことが何故わからないのだ。姉さんと彼女と彼奴らでは見る世界が違うのだ、生きる世界が違うのだ。
彼女は夕霧が邪推した通り、自らの姉を敬愛し、そしてその才能を愛している。だからこそ羨むけれども嫉妬より先に好奇の心が湧き上がるのだ。
鬼童の武才は未だ究極点には達していない。
その力は成長途上である。なればどこまで行けるのか。どこに行きつくのか。それが彼女には楽しみで仕方がない。だからこそ恋愛事などという訳のわからぬ不確定要素で、姉の成長が阻害されるようなことがあってはならないのだ。
才能は開花するまでは護られて育つべきである。かつてその通説は否定されてきた。それは自然と人工のダイヤモンドのその純度の違い然り、雑草と盆栽の生命力の違い然り――つまるところ人の手が加わることでの弱体化が心配だというのなら、どうして強靭化の道を探ろうとしないのだろうか。護られることが悪だというのなら、試練さえも調節してやればよいのだ。
◆
かつて姉さんに届かぬ自身の才能に絶望したことがあった。
造作もないことのように七星が行う剣技が、当たり前のように七夜には真似できなかった。見るだけならばいとも簡単に思えた所行が、いざ自らの手で行おうとすればどれだけ難しいのか、実際にやってみて初めてわかる、この致命的なまでの才覚の欠如。
それでも最初は姉さんの隣に立っていられた。姉妹一つの部屋で肩を並べて同じ指南書を読み、朝早くにはともに起こし合って朝霧の中を走り、学校から帰れば母さんに一声かけられるまで汗まみれになって剣を鍔迫り合わせていた。いつからだったろうか。そんな姉さんの得物の持ち手が、利き腕とは反対になったのは――。
(危ないから、ね?)
その言葉の奥底に秘められた、自身に対する七星の物足りなさの感情を、当時まだ幼かった七夜には察することはできなかった。そして、いつしかそんな姉の接待にさえついて行けなくなり、彼女は心に大きな自傷を刻み込まれることとなった。
(つまんない)
あの夏の日。姉妹がともに小学六年生となった頃、地方大会の決勝でし合うこととなった。その結果は、蓋を開けてみれば七夜は七星の試合相手にさえならなかったといっていい。
一瞬だった。
同じ紅白の陣羽織と胸当、同じ得物に同じ顔。だというのに。彼女が審判のホイッスルを聞いてさて動き出そうとしたときには、既に姉さんは自身の懐に潜り込んでいて、そして一突きで胸元の翡翠は砕かれていた。
毎日ともに訓練していたというのに、彼女は知覚することさえできなかった。
敗北の泥に沈み、傷ついたその身体は十分な休養と栄養が癒すだろう。傷ついたその心は周囲の慰めと時間が癒すだろう。では残ったその〝自ら〟は? 外傷も内傷もなくなり、しかし傷ついたという過去だけは確実に残った神崎七夜という存在は、どうすれば癒されるのか?
睡眠? 食事? 快楽? ……駄目だ。
人間に備わっているはずの三大欲求ですら、このふと胸を掻き毟りたくなるような衝動を消し去ることはできなかった。食事が不味い日が続いた。父の、母の、友の、慰めの言葉が胸を抉り取る日が続いた。そうして暫く鬱々としている内に、それは誇りにも似ているのだと気がついた。
誇りとは掲げるべき神崎七夜という旗であり、貫くべき神崎七夜という芯であり、守るべき神崎七夜という誓いである。それが欠けているのだと気がついて、彼女は急に鏡に映る自分が気持ち悪く思えた。
今ではまず間違いなく疑問視されるだろうが、表面態度とは裏腹に彼女は律儀な性格をしている。白黒はっきりしている方が好みの性分といったところか。ともかく。本来、そういう人間であった彼女から見た現在の自分はまるで人にさえなりきれていない、感情丸出しの動物に思えたのである。
そしてそれを許せるほど彼女の誇りは安くなかった。初めての自傷は、まるで低温の火傷のようにちろりちろりと彼女の心の表面を時折燻ぶったが、その鈍い痛みに膝を折り続けることを彼女は是としなかった。
他にも道はあった。自らを傷つけた剣など取らなくとも、彼女には姉さんに勝てる勉学の道、すなわちペンがある。あった。確かにあったのだ。けれどもそんな他の可能性になど目もくれず、彼女は再び剣を取った。
時に人を自殺に追いやることもある死に至る病の如き傷を負いながらも、再び握らずには要られぬほどに彼女はこの道を愛していたのだ。そんな自分に気がついたとき、彼女は現実や才能という限界に今一度、挑むことを決めた。そうして気づけば自らをズタズタに引き裂いたものさえ神崎七夜は愛していたのだった。
「――貴女に決闘を申し込みます」
白昼堂々と行われた宣告の意味を即座に理解できた者はいなかった。
とある高校の昼休みの話である。傲然とした笑みを浮かべて歩く七夜を、すれ違う生徒達は訝しげに思い、そして次の瞬間には有り得ない事態であることに思い当たって振り返った。
なんせ彼女はこの学校の生徒ですらないのだ。そんな部外者というには悪い意味で有名すぎる人物が碌な説明もなく校内を闊歩していれば嫌でも目立つ。しかも誰に尋ねるでもなく直進する先は――彼の天武の才、鬼童の七星が在籍するクラスである。
唐突と開け放たれるドア、集まる視線、驚く声。そして、まるで悪さをしているところを見つかったかのように固まった姉さんと、同席する虫けら一匹。そんな混乱の中で発せられたのが先の言葉である。
「…………はあ?」
誰が発したか侮辱の疑問を、しかし問題視する者は周囲にはいなかった。七夜の味方など、少なくともこの生徒の中にはいない。誰もが正しく彼女を誤解している。双子の不出来な方、最低の卑怯者、劣化版以下、コピー未満。それがオリジナルにもなれない神崎七夜の評価であり、第一位と第七位の認識の差であり、簒奪という称号の結果でもあった。
「……なに言ってるの?」
言外に気は確かか、と姉は尋ねた。その口調には彼氏との一時を邪魔されたことへの怒りが若干とは言い難いほどに含まれていた。その様子にちくりと七夜の胸が痛む。鬼童がなんという様だ。薄化粧で多少は誤魔化せているが、しかし隠しきれてはいないクマの痕。もしかすれば彼女だから気づけたのかもしれないが、これでは試合の精彩を欠くのも肯ける。
「言葉通りです姉さん。私は貴女に決闘を申し込んでいる。そこに以上も以下もありません」
「だから……」
「――近頃のお前の醜態。わからないと思ったのか、七星」
突如豹変した七夜の態度にざわついていた周囲が静まり返った。意味もわからず冷やかしていた連中が、ようやくこれがただならぬ事態だと理解したのだ。
「……だから今なら勝てるって言いたいの? 七夜が、このわたしに?」
今度ははっきりと七星の言葉に侮蔑が現れた。
「なるほど。確かに、最近のわたしは少し気が抜けていたかもしれない。……でもね、七夜。悪いけどその程度の疲労や緩慢なんて、わたしにはなんのデメリットにもなりはしないのよ。もっとわかりやすく言う? ……あなたじゃ、試合の勘を取り戻すための噛ませ犬程度にもなりはしない」
「まあ、そうでしょうね」
あっさりと七夜は肯定した。それは単なる事実である――七星が今まで通りの鬼童ならば。だからそんな想定済みの挑発には意地悪い笑みを崩さずにいられる。それほどに、彼女の決意と覚悟は確かなものだった。この時、確かに彼女は脳裏に見た。
目前の姉を敗北と屈辱の泥に沈める己の様を。
「今の貴女ならそんな程度の認識でしょう。……まったくがっかりです。これではいつぞやの騎士モドキと対して変わりませんね。貴方にとっても彼女にとっても紹介しないでおいて正解でした」
それが七星の我慢の限界だった。
「あなたはまた! ……いいわ。その決闘、受けてあげる。妹が姉に勝つなんて百年早いってこと、もう一度教育してあげるわ」
◆
「あっひゃっひゃっひゃっ! いやー、まさか決闘になるなんてね。もう最高の気分だよ!」
道化の夕霧はまったく機嫌が悪かった。
わざわざ決闘直前に七夜の顔を見に来るくらいだからよっぽどだろう。馬鹿だね、と少女は手に持っていた物を放る。受け取って見ればそれはスポーツ紙だった。紙面には彼女と七星の写真とともに双子の姉妹の確執やら何やらと面白おかしく記載されている。ただ、読む限りはどうやらこの決闘、始まる前から姉さんの圧勝で決まりらしい。これが少女にはどうにも勘に触って仕方がないらしい。
「あー、可笑し。ホント、なんでこう世の中の奴って頭が使えないんだろう。飾りなのかな? うん、たぶんそうだろうねー、もう間違いない。まったくマジで空っぽだよ、空っぽ。あー、くそウゼえ! あいつら己の予測を鼻で笑いやがって!」
せっかく妹の方が勝つって教えてやったのに、と夕霧は毒づいている。まあ普通の感性の人間ならまず信用しないだろう。常勝無敗の第一位が第七位に敗れる? それも前座を貶めてその席に居座ったような唾棄すべき卑怯者に? 有り得ないし有ってはならないだろう。
本来ならば、だ。
「心が安らいで、緊張が維持できないような乙女ちゃんが餓狼とまともに戦えるかってーの。そんな今だからよっちゃんが挑んだって、そんな簡単なこともわからないんだから、もー!」
まったくだ。普段から勝ってしかいないからわからない。アリスとの試合の折の七星が全体の約五割の力だとすれば、先週夕霧と会った時の姉さんは約三割である。鬼童は常に逆手でしか戦わない。ならば今日はどの程度か? 前日の彼氏とのデートで緊張と興奮で徹夜が続いたことは確認しているから、おそらく必然として最低である。
誰もが常に全力で戦える訳ではない。そんな当然の事実を誰もが、本人ですら忘れていた。
故に。
勝負の明暗は決闘開始のホイッスルの直後にはっきりと別れた。
普段はハルバードを扱う簒奪の七夜が得物を地面に突き差すと、腰脇の倭刀を抜いたのだ。呼吸を研ぎ澄まし、姿勢低く駆ける利き手に携えた陽光煌めく刃が銘は包丁正宗。世に三口しか現存しえない国宝を模した魔殺しの名を持つ一品である。名の如く包丁程度の刀身に原型たる正宗・写より多少厚さが増しただけの小刀は一見して観客の失笑を買ったが、姉の精彩を奪うにはこれで充分であった。思い切りの良い加速を得て襲いかかる。
馬鹿の一つ覚えのように吶喊かと高をくくった鬼童の七星に、かくして突然と飛来した物があった。一泊、呆気に取られながらも長年の勘から振われた物干し竿が弾いたのは、果たして手首に巻くような手甲である。締め方が緩かったのか? そう思わず考えてしまったときには、既に妹は姉の死角へと跳んでいた。
「――――なにっ!」
驚愕に一瞬目を見開いて固まる七星の思考と身体。その隙を縫って繰り出される七夜の正宗は、裂空を伴う鋭さを以てさらに姉を驚嘆せしめる。一度目はなんとか弾いた。しかし間を置かず追い打ちをかけるその姿は、まさしく鬼童の戦闘スタイルそのもの。そうだというのに。竿越しに響く衝撃は、――姉の一撃より遥かに重い。
「……嘘」
堪らず跳ねるようにして距離を取った。その身体が普段とは勝手が違うことにようやく七星は気づいた。重い。身長も体重も筋力も常に一定値に抑えるように調整していたはずなのに、どうしてか身体が重い。致命的なまでに重い。特に得物を持った左腕の疲労が、たった一度の武器同士の接触とは思えないほどに蓄積していた。
七夜の称して外法と呼ばれたこの戦法が、元々はたった一人を倒すために研究されたものだということを姉は知らない。知る由もない。勝利者として、絶対者として、頂だけを見つめていれば良かった者は、いつのまにか足回りが覚束なくなっていることに、――そして。そんなときはどうすれば良いのか咄嗟にはわからなくなっている自分にいまさら気がついた。ただの部活程度の努力と、血の滲むような努力の差がここでついに現れる。
基礎固めの足りぬ英雄、など。
「笑止!」
「――――ひっ」
鬼童の七星はいつも一方的な自分の都合だけを相手に押しつけて勝ってきた。少なくとも小学六年生の夏から今日までは間違いなくそうである。そうであることが許されてきた。そんな相手しか見たことがなかった。その認識が今、崩れていた。
押しつけるはずの自分が、押しつけられているという現実から起こる違和感と苛立ち。いつもと勝手が違い、まったく思い通りに動かない重たい四肢。そして噛ませ犬程度にもならぬと高をくくった相手が自分と対等に立ったことに対する焦り。それが試合前の順風満帆だった己の姿とはあまりに乖離しすぎていて、そしてなにより――それを〝だった〟と勝手に納得してしまっている自分の思考に、遂に稀代の天武の頭脳は生まれて初めてパニックを起こした。
これぞ正宗と合わせた簒奪もとい外法の七夜の秘策――名づけるのならば七重外法。
度重なった驚愕と最悪のコンディションの相手に、今日に合わせて万全に体調を整えてきた彼女が負ける道理など最早一遍もありはしない。
「――――っ」
腹の底に一本芯が宿ったような裂帛と剣閃が鬼童を圧する。その速さは常の七星ならばなんでもないというのに、今の姉には怖ろしく速く思えるのだ。
(煩わしい煩わしい煩わしい!)
竿のなんと取り回しの利かぬことか、もっと身の丈にあった剣が欲しい。そう、例えるなら我が目前に迫るその正宗のような――――思考が許されたのはそこまでだった。
「…………あ」
交錯。耳に届く金属音。それはまるで一本の巨木の断末魔のようにも思えた。そして訪れる喪失感。手元に目を落とせば、七星の超大刀は刀身のつけ根を残して砕け散っていた。空を舞うそれはまるで観客に新たな伝説の幕開けを見せつけるが如く。
「如何に?」
茶化すように続いた七夜の言葉はまるで七星そのままで、ならば視線を己の胸元へと導けば――そこには当然、砕け散った翡翠があった。
ここに雌雄は決した。突き上げられた七夜の右腕、静まり返る観客、誰もが初め、その光景を始終目撃していながら信じなかった。しかしアリーナに設置されたディスプレイに決着の瞬間が繰り返されたその時、皆は驚愕の声とともに認めざるをえなかった。
絶対王者と思われていた鬼童の七星が敗れ、張子の虎と見下されていた簒奪の七夜が実力で勝利したという現実を。其は人喰いどころではない、鬼喰い虎だったのだ。
そして事態はそれどころでは止まらない。誰も意識してはいなかったがこれは決闘なのだ。ならばルールは例外なく執行されなければならない。
「…………悪夢だ」
誰かの呟きはまさしく七夜の計画通り。バトルランキングは第一位と第七位が入れ替わる。そしてその順位は今日を以てしばらく固定されるのだ。
中央掲示板に表示される彼女の名は――。
簒奪覇王。
今日こそが来月から始まる覇道祭の予選最終日なのであった。
4.鬼童頌歌/表
覇道祭とは、毎年春夏に行われているいうなれば武芸の甲子園のようなものである。ただし形式は微妙に異なり、この春祭りは暫定一位である覇王への挑戦権を得るために以下暫定九十九位までが参加することができ、それぞれランダムに配置されたトーナメントで勝ち抜き戦を行い、四回戦までを勝ち抜いた上位三名が覇王と総当たり戦を行うという内容である。
つまり七夜はそれまでの戦績関係なく第一位を撃破したため、今回文字通り覇王を簒奪して王座に居座ったという訳だ。無論、反響は凄まじい。去年まで七星が行っていた覇王冠の授与式に至っては荘厳な音楽を掻き消すほどの野次が飛び交い、運営側には抗議の電話とFAXが暫く鳴りやまなかったといえば状況は限りなく的確に伝わるだろう。
そして噂の新覇王ご自身が慇懃無礼ときたものだから、今回の春祭りが荒れることは誰が見ても明らかだった。しかしそれで良いのだと彼女は一人ほくそ笑む。怒り狂った贄が鬼童の糧となるだろう。姉さんは必ず自分の前に戻ってくる。
その時には彼女は悪として見事やられて正義の凱旋に華を添えることになるだろう。究極点により近づいた鬼童の武才を間近で一番に実感できる栄誉を賜れるというのなら、これほど嬉しいことはない。
故に神崎七夜の物語はここで終わりだ。
これより紡がれるのは鬼童の七星、その再起の頌歌である。
◆
日常などというのは所詮、幻想に過ぎないのだと神崎七星は痛感した。
試合の勝った負けたでこうもたやすく世界は変貌してしまうのか、と。自分がこれまでどれだけ特異な世界に生きてきたのかを七星は敗北の痛みとともに知ることとなった。
妹の七夜に敗れてからの最初の一週間、寮であてがわれた自室で塞ぎ込んでいた彼女の元に届いたのは、気にするな、などという甘言では断じてなく、彼女が通う高校の特待生優遇の見直しの勧告が記された手紙だった。この春祭りで相応の結果を出さなくては、彼女は高校にさえいられなくなる。心の傷を引き摺りながらも彼女は再び剣を奮い始めた。
そしてそれから二週間で好きあっていた彼氏とは別れた。この春祭りが終わったらなどと、一応の約束はしてみたものの、今の彼女にはそれ以外のすべてのものが煩わしく思えていた。練習などしてもしてもしたりない。――いったい、なにが天武の才か。走り振れ熟せと、するべきことはいくらでも湧いてきた。足りない。自分にはまったく時間が足りない。かつてはあれほど持て余していた日々が、どうしてこんなに足りないのか。
日々汗を流し、疲れ果てベットに倒れ込みながらも、どこか満足している自分がいた。
武装も変えた。もう物干し竿は使わない。しかしそうなると何を使えばいいか? 考えた末に用意したのは、妹と同じハルバードに和風の装飾を施した物だった。今度は自分が追い駆ける番だからこれでいいと、彼女は納得した。そして脇差を一つ、これも同じく包丁正宗を。
すべてはもう一度の戦いのために。
そうして覇王祭の日はやって来た。
初戦は神の悪戯か皮肉か。
ともに七夜に敗れた負け犬同士が顔を見合わせた。そうバトルランキング二十一位、白銀のアリスその人である。金髪碧眼の少女はもう油断しませんといった具合に決闘前から此方をねめつけていた。
「もう負けません! 神崎さんには悪いですけど、絶対、あたしが勝ちます!」
そう言って無骨なランスを構えるアリスに、七星はハルバードを地面に突き立てると、腰脇から正宗を引き抜いて右手に持ちかまえた。
「悪いけど、一撃で終わらせてもらう」
その不遜な物言いを鼻で嘲笑ってでもやろうかとアリスは思ったが、敗北したとはいえ鬼童がそれから負けたという話は聞かない。ここは油断せず戦おう、そう考えると同時にその未だ使われたことのない利き腕と最初に対峙できる自分は幸運だとも少女は誇らしくなっていた。そしてホイッスルが響く音が耳を叩くのと同じくして――少女の胸元の白玉は砕け散っていた。試合終了のブザーが鳴る。
「――――へ?」
七星以外の誰もがわからないといった表情を浮かべるなか、彼女は無造作にアリスに近寄り、胸元に刺さった正宗を引き抜く。手首の力だけで放られたそれはまさしく瞬息の投擲であった。しかも投げられた正宗には絶妙な力加減が行われており、鎧内部で留まるその一撃は天武の才、鬼童の七星の名に相応しいものである。
「またね」
「ちょ、ちょっとー!」
ここに至り選手と観客のすべてが知る。踵を返してスタジアムを後にする神崎七星は、まだ武芸者として腐ってもいなければ終わってもいない。間違いなく、鬼童の七星その人なのだと。
ついて二回戦、三回戦も七星は投擲で勝負を制した。本気となった鬼童は酷くつまらない試合をすると、何人かには陰口を叩かれたが、それでも常識を逸した強さであることは間違いなかった。このまま四回戦も突破してしまうのかと、観客が見守る中、対戦相手として現れたのはバトルランキング二十五位、道化の夕霧である。祭りということで髪を紅に染色していた。
「やーやー久しぶりだねえ、負け犬くん! 略してワンワンって危な――い。なにすんだよ? 人が気持ちよく話してるっていうのに」
決闘が始まってもぺらぺらと言葉を続ける夕霧に七星は無言で投擲した訳だが、その正宗の刀身を少女は危なげなく左指で掴んでいた。飛んでいく場所がわかっているとはいえ、中々の動体視力だ。暫し考えて彼女の頭には一人の人物像が浮かんだ。
「……もしかして千里?」
「お、正解! よっちゃん以外じゃ久しぶりだね、そういうの! なら本気出しちゃおっかな」
かつて千里の夕霧と呼ばれた少女が構えた得物は三又槍だった。ヨッと、どうにも間の抜けた掛け声ながらも一息で四連突くその技は素人のものではない。七星もハルバードの矛先を揺らすようにしてその点光の嵐を逸らす。互いに間合いの広い武器のためか距離が縮まらない。彼女と少女の合間にて見えぬ点撃の応酬が続いた。
「それで一回ポッキリ落ちぶれた気分はどう? なんかさーこう、スッとしなかった? 肩の荷が下りた気分っていうのかな? とりあえずさスゲー気持ちいいカンジ」
「…………」
「そっか、そういうんじゃないんだ。じゃあさ、今どんな気持ちなの? やっぱ、よっちゃんに対して恨んでやるーとか、復讐してやるーとか、そういう感じでオーバーヒート?」
「…………」
「おい。なんか云えよ、コラ」
「…………キミさ、」
少し煩いよ。
外れた声が耳に響いて癇に障った。まるでもう一人の自分を見せられているような気分に、七星はなっていた。夕霧と彼女の分岐点はどこだ? それはおそらく敗北を喫した後、立ち上がるか立ち上がらないか。きっとそれだけの差だ。しかしその差が現在の彼女と少女を分かつものだ。かつて鬼童として君臨した彼女に叩き潰された少女に贈る言葉は一つだけだった。
「努力しなかったんだね」
いくら速い攻めといえどもこうも長引けばパターンも見えてくる。そして続ける内に七星はかつての強敵のもっと苛烈だった攻めを思い出していた。そのときよりも速度は遅くなっているのに、矛先を穿つ場所は変わっていない。
(きっとわたしと対峙したときの七夜も同じ気分だったんだろうな)
それがどれだけ相手に対して失礼なのか改めて学べた気がした。だからもう決闘は終わりだ。
「ん? おっ? おりょりょりょりょ?」
増していくハルバードのスピードに三又槍がついてこれなくなる。そうして一際大きな接触音とともに互いの得物が弾かれあった最中、素早く武器を手放した七星が夕霧の懐に潜り込む。そのままがら空きの懐と服の左を掴んで少女を背負い投げた。
「如何に?」
「ん――――――チッ、降参だよ」
これでやっと七星は再び七夜に挑む権利を手にした。
◆
戯れに問おう。
王とはなんだ?
王とは神や国や法によって授けられる称号であろうか、否。
王とは歴史と民衆によって保障される称号であろうか、否。
王とはただの機能である。
故に万人にとって対等であり、そして絶対である。そうであるかに王とは本来揺らいではいけないものなのだ。だというのに。この世界の王はそれを一度忘れ、そして敗北した。
なればこそ今一度、戴冠の儀を。
「私は嬉しいです、姉さん」
目前で得物を片担いだ七夜はまったく久しぶりに機嫌が良さそうに見えた。
「てっきり腑抜けたとばかり思っていたんですが、それは勘違いだったみたいですね。なんせ姉さんはこうして私の前に戻ってきてくれました」
憂いと情熱を帯びたその声が七星の鼓膜を震わす。それは切なく甘く苦悩に満ちて、だからこそどうしようもなく喜ばしくて、けれどそれを表に露わにするのは憚られて。だから努めて皮肉っているというそういう複雑さを孕んだオトだった。
「これで、遠慮なくまた戦えますね」
利き腕の右腕から水平に宙へと伸びるハルバードの姿は、七夜のその細腕に凄む尋常ではない武技を象徴していた。その業の前にかつて七星は敗れた。
天武の才、敵う者なき鬼童の七星。
そう謳われ驕り高ぶった姉は、血を分けた実の妹の手によって天から地へと叩き落とされた。その胸中にあったのは確かに怒りの感情である。しかしそれはけして妹に向けられたものではない。
それは神崎七星自身に向けられた怒りである。対等であったはずの姉妹の立場から、自分だけが先んじて前に出たからといって勝手に偉ぶり、さらには勝手に脱落していった大間抜けに懐いた怒りである。この修羅場を潜り抜けられて初めて自分は人間に返ることができる。初めて姉に戻ることができる。故にハルバードの切っ先を稀代の策士、簒奪覇王に突きつけて彼女はこう言うのだった。
「決着をつけましょう」
鬼童頌歌/終了