記憶の街
その男は記憶を捨てようとしました。
ずっと塞いでばかりじゃいけない。
思い出すと淋しいあの頃の記憶を全部全部忘れて、新しい自分として暮らそうと決意しました。
その為には自分を知らない場所へ行く必要がある。
そう考えて、荷物をまとめて彼は旅に出ました。
西へ。
ここの人々は誰も俺の事を知らない。
気遣われることもない。
思い出して淋しくなることもない。
新しい自分になることができる。
そう思える場所に出会えて、彼はそこで荷を解きました。
青色…
結果、彼はそこに居着く事ができたのか。
いいえ、できませんでした。
彼はそれを捨てました。
何処に紛れ込んでいたのか、荷解きしている最中に転がり落ちた貝殻のストラップ。
あの夏。
あの海辺で拾った貝殻をあの子が手作りしたものです。
他にもいろいろ、記憶を抱いた物を捨てました。
何故こんなどうでもいいような物を持ってきているんだろう、と思いながら。
記憶を思い出してしまったという記憶を抱いたこの街には彼はいられません。
東へ。
記憶を抱いた物は捨てました。
彼の荷物は必要最低限です。
白銀色とセピア色…
結果、彼はそこに居着く事ができたのか。
いいえ、できませんでした。
彼自身、その店に入ることはしませんでしたが、外装を見るだけで十分でした。
あの冬。
雪の日の図書館帰りに彼はあの子と立ち寄りました。
その店とおんなじ名前で、おなじように店先で季節の花が咲き誇っている、そんなカフェに。
記憶を抱いたおなじようなモノがあるこの町には彼はいられません。
北へ。
ここには同じような建物はありません。
もともと暮らしていた所とは似ても似つかないような町です。
朱色…
結果、彼はそこに居着く事ができたのか。
いいえ、できませんでした。
その手の平に載せられたモノを見ます。
いい柿が庭になったから、お近づきの印に。
そう言って、隣のおばあちゃんは彼に柿をひとつ手渡しました。
あの秋。
あの子が袋一杯の柿を、重いのに駆けて届けにきた記憶と共に。
おなじような記憶が生じたこの町には彼はいられません。
南へ。
荷物は少ない。
同じようなどころか、そもそも建物自体が少ない。
知っている知らないの問題ではなく、人が極端に少ない。
お隣りは数百メートル先。
そんな村です。
ここは完璧だろう、と彼は胸を張りました。
パステルカラー…
結果、彼はそこに居着く事ができたのか。
いいえ、できませんでした。
ゆらゆらと揺れていたからです。
スズメノテッポウという名の草花が春風に。
あの春。
保育所の帰りに、道脇の田圃でその草花を摘んで、あの子とどちらが上手く鳴らせるか勝負をした春の記憶を乗せて。
何処にもありませんでした。
何処にも。
彼が思っている様な場所は。
西も東も北も南も…
人がいなくても建物がなくても…
記憶を全く抱いていない場所はありませんでした。
結果、彼は何処にたどり着いたのか…
それは言うまでもないでしょう。
もとより、彼にとって居心地のいい帰る場所はそこしかなかったのですから。
たとえ、哀しい記憶を抱いていようとも。