第43話 怖さも報告してよい
掲示板に貼られた「次はこうしよう会まとめ」は、思っていたより多くの生徒に読まれていた。
朝の教室。
登校してきた生徒たちは、まず黒板横の掲示板を見る。
提出物の締切。
掃除当番表。
班訓練の集合場所。
そして、その隣に貼られた一枚。
――次はこうしよう会まとめ。
伝達の型。
名前+危険内容。
怖さも報告してよい。
できない理由も報告。
前衛は後ろを使う。
支援役が動く時は「見てて」。
戻り道を決める。
名前を出さずにまとめた改善点。
だが、誰が言ったかを知っている者は知っている。
怖さも報告してよい。
これは、ほとんどポルカの言葉だった。
朝一番にそれを読んでいた男子生徒が、小声で呟いた。
「怖いって言っていいのか……」
その声を、私は聞き逃さなかった。
隣の席で、アレンも同じ声を聞いたようだった。
彼は頬杖をつきながら、ちらりと私を見る。
「仕事増えそうだな、委員長」
「正式名称は学級委員です」
「はいはい」
「返事は一回で結構です」
「はい」
彼は素直に返事を一回で止めた。
成長。
言わない。
我慢する。
「何だよ」
「何も言っていません」
「顔が言ってる」
また顔。
顔面管理は継続課題である。
私は掲示板の前へ行き、少しずれた紙の端を直した。
怖さも報告してよい。
この一文を、アレンの助言で上の方に置いた。
結果として、目につく。
目につくということは、反応が生まれる。
良い反応だけとは限らない。
「怖いって報告したら、ただの弱音じゃないのか?」
別の生徒が言った。
ベルト・ガーランドだった。
昨日、半歩下がることで射線を作った前衛希望者。
彼は掲示を見ながら、少し納得しきれない顔をしている。
ポルカが自分の席で肩をびくっとさせた。
私は振り返る。
「弱音と情報は違います」
ベルトがこちらを見る。
「どう違うのですか」
「弱音は、行動を止めるために出ることがあります。情報は、行動を選ぶために出します」
「怖い、という言葉が情報になると?」
「はい。たとえば、ポルカが『あの茂みが怖い』と言った場合、それは単なる感情ではなく、視界の悪さ、罠の可能性、逃げ道の少なさを含んでいる場合があります」
ポルカが小さく手を挙げた。
「含んでいます……! たぶん……!」
「自信を持ってください」
「はい……!」
ベルトは少し考えた。
「ですが、前衛が怖いと言えば、後衛を不安にさせませんか」
良い質問だ。
私は答えを探した。
すると、クロードが先に口を開いた。
「言い方次第だ」
ベルトがクロードを見る。
「前衛がただ『怖い』と言って固まれば、後衛は不安になる。だが、『右側が見えず怖い。支援をくれ』なら、後衛は動ける」
アレンが続ける。
「『怖い』の後に、理由か欲しい支援をつければいいんじゃないか」
「理由か、支援」
私は黒板の端に書いた。
――怖い+理由。
――怖い+欲しい支援。
「よい形式です」
アレンが顔をしかめる。
「また形式になった」
「使いやすい形にすることは重要です」
「まあ、それはそう」
ベルトは掲示と黒板を見比べた。
「つまり、怖いと言うこと自体が問題なのではなく、そこで止まることが問題なのですね」
「はい」
「……分かりました」
彼は完全に納得したわけではなさそうだったが、否定はしなかった。
これは前進だ。
その時、教室の後方で、小さな声がした。
「あの」
振り返ると、エミリオ・バスクが立っていた。
昨日、搬送補助を希望した体格の大きな男子生徒だ。
彼は大きな体に似合わず、いつも少し遠慮がちに話す。
「今日、グレイン先生が負傷者役を入れるって言ってましたよね」
「はい」
私は頷いた。
「それで、搬送補助をやってみたいんですけど」
「はい。希望は受理しています」
「……正直、怖いです」
教室が少し静かになった。
エミリオは両手を握っている。
「怪我人役って分かっていても、誰かが倒れているのを見ると、たぶん焦ります。ちゃんと運べるか分かりません」
言った。
怖いと。
教室の中で。
大きな体の男子生徒が、自分の怖さを言った。
ポルカが、息を止めたように彼を見ている。
ティナがすぐに優しく言った。
「怖いって言ってくれてありがとう。じゃあ、最初に練習しよう」
「練習?」
「うん。倒れている人をいきなり運ぶんじゃなくて、まず声をかける練習。次に、腕を貸す練習。最後に、実際に運ぶ練習」
エミリオの表情が少し緩む。
「段階を分けるんですね」
「そう。いきなり全部やらなくていいよ」
ミナが静かに言う。
「怖いなら、最初に言った方がいい。言わないと、周りは分からない」
エミリオは頷いた。
「じゃあ、怖いです。でも、やってみたいです」
その言葉を、私は木板に書きたくなった。
怖いです。
でも、やってみたいです。
これは重要だ。
怖いは、止まる言葉ではない。
その後に「でも」が続くことがある。
私は教室を見渡した。
「では、今日の訓練前に、搬送補助の段階練習を入れます。ティナ、協力をお願いします」
「もちろん!」
「エミリオ、あなたは最初から完璧に運ぶ必要はありません」
「はい」
「ポルカ」
「はいっ」
「怖さの報告形式を、あとで一緒に整理してください」
「僕がですか?」
「はい。あなたは怖さの専門家です」
教室が少し笑った。
だが、馬鹿にした笑いではない。
ポルカは顔を赤くしながら、胸を張った。
「怖さなら、任せてください!」
その返事に、また少し笑いが起きた。
空気が柔らかくなる。
これなら、今日の訓練は少し良くなるかもしれない。
午前の実技訓練は、演習場ではなく小訓練室から始まった。
グレイン先生は負傷者搬送の基礎を教えると言った。
「昨日の訓練で、支援と後衛の役割が広がった。今日は、負傷者対応を入れる」
生徒たちが少し緊張する。
「ただし、いきなり本格搬送はしない。段階を分ける」
ティナがちらりとエミリオを見る。
エミリオは少し驚いていた。
グレイン先生は続ける。
「倒れている者を見て焦るのは普通だ。焦らない者の方が危険な場合もある。問題は、焦った後にどう動くかだ」
焦るのは普通。
怖いのも普通。
だが、そこで止まらず、次に動く。
今回の訓練の核はそこなのだろう。
「まず、声をかける」
先生は訓練用の床に座った上級生を指した。
「意識確認。痛む場所。動けるか。運んでよいか」
ティナが手を挙げる。
「先生、運んでよいか聞くんですか?」
「聞ける状態なら聞け。勝手に動かすと悪化する場合がある」
「はい」
私は記録する。
負傷者対応。
本人の確認。
これも、昨日の「配慮は本人抜きで決めると支配になる」に近い。
助ける時でさえ、相手に聞けるなら聞く。
人間の支援は複雑だ。
いや、本来は魔族でも同じなのだろう。
ただ、私は今まで命令と保護の形で考えすぎていた。
最初の練習は、声かけだった。
エミリオは上級生の前で膝をつき、少しぎこちなく言った。
「大丈夫ですか。どこが痛いですか」
声が小さい。
ティナが隣で言う。
「いいよ。もう少しゆっくりで大丈夫」
エミリオは息を吸い直す。
「大丈夫ですか。動けますか。運んでもいいですか」
上級生が頷く。
「足を痛めた。肩を貸してほしい」
「はい」
エミリオは慎重に腕を差し出した。
大きな体だが、動きは優しい。
ティナが微笑む。
「上手。相手が怖がらない」
エミリオは少しだけ安心した顔をした。
次に、腕を貸して立たせる練習。
その次に、二人で支えて移動する練習。
さらに、担架代わりの布を使う練習。
段階を踏むと、エミリオの動きは少しずつ良くなった。
彼は前に出るより、誰かを支える方が向いている。
大きな体は、威圧ではなく安心になる。
役割が合うと、人の見え方が変わる。
ポルカは少し離れた場所で、感動したように手帳へ書いていた。
「怖いと言った後でも、人は動ける……」
「ポルカ」
「はい!」
「今の言葉も重要です」
「記録します!」
ベルトも訓練を見ていた。
彼は腕を組み、少し考え込んでいる。
前衛として、負傷者搬送をどう見ているのだろう。
私は声をかけた。
「ベルト」
「はい」
「どう見ますか」
「……前衛が負傷者を出さないことが一番です」
「はい」
「ですが、出た時に運べる者がいると、前衛は無理に戻らずに済む」
「その通りです」
ベルトはエミリオを見る。
「後ろの役は、本当に後ろだけではないのですね」
「はい。必要な時に前へ来ることもあります」
後ろに立つ者。
支援する者。
搬送する者。
彼らはただ後ろにいるわけではない。
必要な時、前に来る。
ただし、戦うためではなく、戻すために。
その役割もまた、強い。
次の訓練では、実際の班行動に負傷者役が組み込まれた。
第一班には、エミリオが搬送補助として入った。
前衛はベルト。
支援はティナ。
観察はアレン。
伝達はラウル。
補助札はセシル。
私は全体調整。
途中で、上級生が負傷者役として通路脇に倒れている設定になった。
エミリオの顔が硬くなる。
私は彼を見る。
「報告を」
エミリオは一度息を吸った。
「怖いです。理由は、焦って動かしすぎそうだからです。支援がほしいです」
形式通り。
怖い+理由。
怖い+欲しい支援。
完璧ではない。
だが、言えた。
ティナがすぐに答える。
「私が横で確認する。エミリオは声かけから」
「はい」
エミリオが負傷者役へ近づく。
「大丈夫ですか。どこが痛いですか。運んでもいいですか」
上級生が答える。
「右足。立てない。運んでほしい」
「分かりました。ティナ、足の確認をお願いします」
「うん」
良い。
役割がつながっている。
だが、その間に模擬敵役の上級生が一人、前方から近づいてくる。
ベルトが反応する。
前へ出る。
今度は、出すぎない。
「ベルト、止めるだけ!」
アレンが叫ぶ。
「分かっている!」
ベルトは相手を押し込まない。
その場で止める。
ティナとエミリオが負傷者役を支える時間を作る。
セシルが退避位置に光札を置く。
ラウルが後方へ走り、戻り道を確認する。
「左後ろ、通れます!」
私は全体を見る。
足りないところ。
右側の視界が切れている。
「アレン、右側は?」
「音なし。でも見えてない」
「セシル、右側に光札を」
「はい!」
光が灯る。
右側に罠札。
危なかった。
アレンが言う。
「見えない場所は、見えてないって言った方がいいな」
「はい。できない理由も報告、です」
「覚えてる」
エミリオは負傷者役を支え、ゆっくり移動する。
動きは慎重。
だが、止まっていない。
ティナが横で声をかける。
「そのまま。急がなくていいよ」
ベルトが前で時間を稼ぐ。
ラウルが戻り道を示す。
セシルの光札が罠を示す。
アレンが危険を短く伝える。
私は必要なところだけをつなぐ。
そして、全員が拠点へ戻った。
負傷者搬送成功。
接触なし。
罠札なし。
エミリオは到着後、その場に座り込んだ。
「怖かった……」
すぐにポルカが駆け寄る。
「怖かったのに動けましたね!」
「うん……」
エミリオは少しだけ笑った。
「怖いって言ったら、少し動きやすかった」
ポルカの目が輝く。
「そうなんです! 怖いは外に出すと、少し形になります!」
なんだか名言のようになった。
アレンが小さく笑う。
「怖さの専門家、いいこと言うな」
「専門家……!」
ポルカはまた手帳を開いた。
グレイン先生の講評は短かった。
「搬送補助、悪くない。エミリオ」
「はい」
「怖いと報告したのはよかった。理由と支援要請まで言えた。次はもう少し短くしろ」
「はい」
「ベルト」
「はい」
「押し込まずに止めた。前衛として成長だ」
ベルトの目が少し開く。
「ありがとうございます」
「調子に乗るな。まだ硬い」
「はい」
「ティナ、支援の声かけは良い。だが、自分の周囲確認を忘れるな」
「はい!」
「セシル、光札は有効。見えない場所へ置く判断を早くしろ」
「はい」
「ラウル、戻り道の報告は良い。走りすぎるな」
「はい!」
「フォルク、見えないものを見えないと言えたのはよい」
アレンが少し驚いたように顔を上げる。
「見えない報告も情報だ。覚えておけ」
「……はい」
先生は最後に私を見る。
「ディア」
「はい」
「今日は、必要なところだけ入っていた。悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし、まだ顔で全部考えているのが分かる。相手に読まれたくないなら直せ」
「……はい」
顔面管理。
先生にも指摘された。
これは本格的に課題である。
放課後、談話室で第一班と今日の訓練参加者が集まった。
エミリオも来た。
少し緊張していたが、ティナがお茶を渡すと、ほっとした顔をした。
「今日はお疲れさま」
ティナが言う。
「うん。ありがとう。支援があると、すごく安心した」
「搬送補助がいてくれると、こっちも安心するよ」
エミリオは少し照れた。
「前衛じゃなくても、役に立てるんだな」
ベルトが静かに言った。
「君がいたから、俺は前を止め続けられた」
エミリオが驚く。
「僕が?」
「負傷者を任せられる者がいなければ、俺は後ろが気になって前に集中できなかった」
ベルトは少し言いにくそうに続けた。
「助かった」
エミリオは目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「こちらこそ」
後ろに立つ者が、前に立つ者を支える。
前に立つ者が、後ろに立つ者へ礼を言う。
これは、今日の一番大きな成果かもしれない。
夜。
私は記録を書いた。
――掲示「怖さも報告してよい」に反応多数。弱音と情報の違いを説明。
――怖い+理由、怖い+欲しい支援、という形式を追加。
――エミリオ・バスク、搬送補助訓練に参加。怖さを事前報告し、支援要請に成功。負傷者役の搬送成功。
――ティナ、段階練習を提案。声かけ、腕を貸す、支えて移動、搬送の順に進める。効果大。
――ベルト、エミリオがいたから前を止め続けられたと発言。前衛が後方支援へ感謝。重要。
――アレン、見えないものを見えないと報告。グレイン先生より評価。
――ポルカ「怖いは外に出すと、少し形になります」と発言。重要。
――私、顔で考えが読めるとグレイン先生にも指摘される。顔面管理、要改善。
最後に一行。
――怖さは、隠すと足を止める。言葉にすると、誰かが支えられる形になる。
私は羽ペンを置いた。
怖い。
その言葉を、私は今日何度も聞いた。
ポルカから。
エミリオから。
たぶん、ミナからも。
そして、自分の中にもある。
正体が知られるのが怖い。
ミナの「嫌いじゃない」が壊れるのが怖い。
ティナの笑顔が変わるのが怖い。
アレンの目がいつか全部見抜くのが怖い。
その怖さを、私はまだ報告できていない。
怖い+理由。
怖い+欲しい支援。
形式は作った。
だが、自分が使うのは、まだ難しい。
私は胸元のお守りに触れた。
いつか、私も言えるだろうか。
怖いです。
理由は、あなたたちを失うかもしれないからです。
支援がほしいです。
そう、誰かに。
今はまだ言えない。
だからせめて、記録しておく。
知らなかったことにはしないために。




