第16話 弱い者を鍛えるのは合理的です
アレン・フォルクを鍛えることは、合理的である。
まず第一に、彼は観察眼が高い。
模擬魔物の異常、相手の重心、場の空気、私の言い間違い。
彼は他の生徒が見逃すものを拾う。
第二に、彼は弱い。
これは悪口ではない。
事実である。
魔力量は低く、聖剣適性も薄く、腕力も突出していない。
正面から相手を打ち破る型には向かない。
だが、弱い者は自分の弱さを知っている。
そして弱さを知っている者は、無謀に突っ込む者より長く生き残る可能性がある。
第三に、彼は私の偽装を疑っている。
これは大きな危険だ。
だが、同時に近くで観察しておく価値もある。
放置すれば、彼は勝手に違和感を拾い、勝手に考え、勝手に危険な結論へ近づくかもしれない。
ならば、こちらから訓練に付き合うことで接触機会を増やし、彼の思考傾向を把握する方がよい。
つまり、アレンを鍛えることは、任務上も、クラス運営上も、本人の生存率向上にも有益である。
完璧な理屈だ。
問題は、その理屈を本人に伝えた時の反応だった。
「嫌だ」
放課後。
勇者学校の中庭で、アレンは即答した。
彼は購買で買った硬そうなパンを片手に、木陰のベンチへ腰かけている。
授業後の中庭には、生徒たちがちらほら残っていた。
自主練をする者。
友人と話す者。
寮へ戻る前に休む者。
人間の学校生活には、授業と授業の隙間に多くの小さな時間があるらしい。
私はその一つを利用して、アレンに提案したのだ。
弱い者を鍛えるのは合理的です、と。
すると、彼は嫌だと言った。
早すぎる。
「まだ内容を説明していません」
「聞いたら逃げ遅れる気がする」
「逃げる前提なのですか」
「お前の訓練からは逃げた方が生存率が高そうだ」
「死なない範囲で行います」
「その言い方を信用できる日が来るとは思えない」
アレンはパンをかじった。
また購買のパン。
昨日に続き、栄養配分に問題がある。
「アレン」
「何だよ」
「昼食と夕食の間に、そのパンだけですか」
「小腹が空いたからな」
「栄養が偏っています」
「今は訓練の話じゃなかったのか」
「訓練にも栄養は関係します」
「俺の食生活にまで侵攻してくるな」
「侵攻ではありません。助言です」
「助言の顔じゃない」
アレンは少し身体を引いた。
失礼な。
私は自然な表情を心がけている。
尋問前の顔ではないはずだ。
……おそらく。
「あなたは今の戦い方では、正面から強い相手に勝てません」
「知ってる」
「ですが、勝てない相手から逃げる、流す、時間を稼ぐ、味方につなぐことはできます」
「それも昨日聞いた」
「ならば、鍛えるべきです」
「で、何でお前が鍛えるんだよ」
アレンの問いに、私は用意していた答えを返した。
「私はあなたの長所と弱点をある程度把握しています。さらに、あなたは私の偽装――いえ、行動の癖に気づきやすい。近くで観察する価値があります」
「今、偽装って言ったな」
「言っていません」
「言った」
「行動の癖です」
「言い直しても遅い」
アレンは目を細めた。
危険。
また失言した。
放課後で周囲に生徒が少ないとはいえ、注意が足りなかった。
私は表情を整える。
「とにかく、あなたの能力を伸ばすことは合理的です」
「俺の能力ねえ」
アレンはパンを見下ろし、少しだけ笑った。
自嘲の笑い。
最近、少し減ったと思っていたが、根は深いらしい。
「買いかぶりだろ。俺はフォルク家なのに聖剣に選ばれず、魔力量も低くて、剣も半端。見てるだけで勇者になれるなら苦労しない」
「誰が勇者になる話をしましたか」
「ここ、勇者学校だぞ」
「勇者以外にも役割があるとグレイン先生は言っていました」
「それは、弱いやつへの慰めだろ」
「違います」
私は即答した。
アレンが少し驚いたようにこちらを見る。
「あなたは、自分に対する評価だけ判断が雑です」
「雑?」
「はい。他人の動きや場の違和感は細かく見るのに、自分のことになると『どうせ弱い』でまとめます。分類が粗すぎます」
「分類って」
「弱いにも種類があります。筋力が足りないのか、魔力が足りないのか、反応が遅いのか、判断を誤るのか、恐怖で動けないのか。それぞれ対処が違います」
アレンは黙った。
私は続ける。
「あなたの場合、魔力と筋力は不足しています。ですが、反応と観察は良い。ならば、全能力を平均化するより、観察と回避と指示を伸ばす方が合理的です」
「……お前、本当にそう思ってるのか」
「はい」
「慰めじゃなくて?」
「慰めのためにここまで分析しません」
「そこは少し慰めてくれてもいいんだぞ」
「必要ですか」
「いや、もういい」
アレンは頭をかいた。
困ったような顔。
だが、先ほどより拒絶は弱い。
「でもさ、ルシェラ」
「はい」
「弱いやつを鍛えるって、面倒だろ。強いやつと組んだ方が、お前も得するんじゃないか」
「得とは何でしょう」
「訓練になる。評価も上がる。目立つ」
「目立つのは困ります」
「もう手遅れだって」
「改善します」
「だからそこが目立つ」
アレンはため息をつく。
「俺と組んだって、お前の評価は上がらないぞ」
「評価のためではありません」
「じゃあ何のためだよ」
問い。
私はすぐに「任務のため」と答えそうになった。
危ない。
それは言えない。
次に「観察のため」と答えようとした。
それは半分正しい。
だが、なぜか少し違う気がした。
私は少し考えた。
「放っておくと、落ち着かないからです」
アレンが固まった。
「……は?」
「あなたが自分を『どうせ弱い』で終わらせているのを見ると、落ち着きません」
「何だそれ」
「私にも分かりません。分類不能です」
「自分で言っといて分類不能なのかよ」
「はい。継続観察中です」
アレンはしばらく私を見ていた。
それから、急に顔を背けた。
「お前さ」
「はい」
「そういうの、普通に言うなよ」
「何か問題がありましたか」
「……あるような、ないような」
アレンは耳のあたりを少し赤くして、パンの残りを口に押し込んだ。
どういう反応だろう。
照れ。
困惑。
拒絶ではない。
私は心の中で記録した。
――率直な理由提示により、アレンが動揺。効果あり。ただし理由不明。
「で、具体的に何をするんだよ」
アレンがぼそっと言った。
私は姿勢を正した。
「訓練を受けるのですね」
「死なない範囲ならな」
「承知しました」
「だから、その承知が怖い」
私は鞄から小さな紙を取り出した。
昨日の夜に作成した訓練案である。
アレンは紙を見た瞬間、嫌そうな顔をした。
「何だよ、それ」
「あなた用の訓練計画です」
「一晩で作ったのか」
「はい」
「怖いな」
「まず第一段階。足運びと重心移動」
「まあ、それは分かる」
「第二段階。視線誘導と相手の初動観察」
「それもまあ」
「第三段階。暗所での気配察知」
「ん?」
「第四段階。重りをつけた状態での回避訓練」
「待て」
「第五段階。崖際での平衡感覚訓練」
「待てって」
「第六段階。毒草判別を兼ねた野外行動」
「どこへ向かってるんだ、この訓練」
「生存率向上です」
「殺しに来てるだろ」
「死なない範囲です」
「お前の死なない範囲、信用できないんだよ!」
アレンは紙を奪い取り、目を通した。
そして、顔を引きつらせる。
「これ、何だ。『初級・追跡魔獣からの逃走訓練』って」
「あなたは逃走判断に優れているので、それを伸ばします」
「魔獣に追わせるな」
「訓練用です」
「訓練用なら安全だと思うなよ。前の模擬魔物も変だっただろ」
「たしかに」
「納得するな。削れ」
「分かりました。追跡魔獣は後回しにします」
「後回しじゃなくて削れ」
厳しい。
アレンは訓練計画のほとんどに線を引いた。
崖。
重り。
暗闇。
毒草。
追跡魔獣。
寝起き奇襲対応。
低温環境下での集中訓練。
すべて却下された。
「これは魔族――いえ、辺境では初級です」
「また魔族って言いかけたな」
「辺境式です」
「辺境が怖すぎるだろ」
アレンは深いため息をついた。
「もっと普通にしろ。学校の訓練でできる範囲にしろ」
「普通」
「そう。普通」
また普通。
魔法より難しい概念。
私は考えた。
「では、第一段階だけ行います。足運び、重心、視線」
「それならいい」
「第二段階は木剣での受け流し」
「まあ」
「第三段階は中庭の障害物を使った逃走経路確認」
「それくらいなら」
「第四段階は軽い重りを」
「削れ」
「軽いです」
「削れ」
「分かりました」
アレンの調整により、訓練案はかなり人間向けになった。
少し物足りない。
だが、対象の耐久性を考えれば妥当かもしれない。
対象。
いや、アレン。
私は紙を畳み直した。
「では、今日から放課後に少しずつ行いましょう」
「毎日?」
「継続が重要です」
「俺の自由時間は?」
「生存率向上に投資されます」
「勝手に投資するな」
と言いながら、アレンは完全には拒否しない。
受け入れ始めている。
私は中庭の端へ移動し、地面に線を引いた。
「まず、三歩の距離から始めます」
「昨日もやったやつだな」
「はい。ただし今日は、剣を持つ前に足だけ見ます」
「足だけ」
「私が踏み込みます。あなたは、剣や杖を見ずに、足の動きだけで方向を判断してください」
「できるか、そんなの」
「あなたならできます」
アレンは一瞬黙った。
それから、渋い顔で言う。
「そういう言い方、ずるいな」
「ずるい?」
「いや、何でもない。やるぞ」
私はゆっくり踏み込んだ。
アレンは足を見る。
反応は早い。
ただし早すぎる。
「早いです」
「昨日も聞いた」
「恐怖で先に逃げています」
「恐怖はあるだろ。お前の踏み込み、静かなのに怖いんだよ」
「怖いですか」
「怖い。音がない」
音。
私は自分の足運びを確認した。
魔王城で学んだ移動術は、できるだけ音を消す。
敵に気づかれないためだ。
だが、人間学校の訓練では不自然かもしれない。
「では、音を出します」
「出そうとして出すものなのか」
「はい」
私は次に踏み込む時、少しだけ靴音を立てた。
アレンが嫌そうな顔をする。
「今度はわざとらしい」
「難しい」
「お前にも難しいことあるんだな」
「あります。普通の靴音など」
「普通の靴音で悩むな」
訓練は進んだ。
アレンは最初、どうしても早く動いた。
だが、何度も繰り返すうちに、少しずつ待てるようになっていった。
待つ。
怖くても、相手の初動を見てから動く。
彼にとって、それはかなり難しいらしい。
しかし、できないわけではない。
「今のは良いです」
私が言うと、アレンは息を吐いた。
「半拍、待った」
「はい」
「怖いな、これ」
「怖いですか」
「相手が動くまで待つって、逃げ遅れそうで嫌だ」
「その恐怖を持ったまま待てるようになれば、強いです」
「強い?」
「はい。恐怖がない者より、恐怖を知っていて動ける者の方が、判断を誤りにくい」
アレンは目を伏せた。
「……そういう考え方もあるのか」
「はい」
「怖がりは悪いことじゃないって?」
「悪いのは、恐怖を見ないふりして無謀に動くことです」
これは魔王城でも同じだ。
恐怖を知らない者は早く死ぬ。
恐怖に支配される者も死ぬ。
恐怖を情報として扱える者が、生き残る。
アレンはその素質がある。
彼は怖がる。
自分の弱さを知っている。
だからこそ、鍛え方を間違えなければ伸びる。
「ルシェラ」
「はい」
「お前の辺境、やっぱり怖いな」
「なぜですか」
「言ってることがいちいち実戦帰りなんだよ」
「辺境ですので」
「便利な言い訳だな、辺境」
危険だ。
しかし、偽装身分の辺境設定は有用でもある。
今後も慎重に使用しよう。
しばらく訓練していると、ティナとポルカが中庭にやって来た。
「やっぱりここにいた!」
ティナが手を振る。
「ルシェラ、アレンを鍛えてるの?」
「はい」
「本当に鍛えられてるというか、逃げ遅れてるというか」
アレンが息を切らしながら言う。
ポルカが私の訓練計画の紙をちらりと見た。
「えっ、崖? 毒草? 追跡魔獣? これ何ですか!?」
「却下済みです」
「却下されてよかったです! 人間界に優しさが残っていてよかった!」
ティナも紙を覗き込み、顔を引きつらせた。
「ルシェラ、これ本気だった?」
「死なない範囲です」
「死なない範囲って言えばいいと思ってるでしょ!」
「違うのですか」
「違う!」
ティナは両手を腰に当てた。
「アレンを鍛えるのはいいけど、ちゃんと人間基準にしてね」
「はい」
「魔王――じゃなくて、辺境基準じゃなくて!」
私は一瞬固まった。
ティナは気づいていない。
ただ、私がよく「辺境」と言い訳するのをからかっただけだ。
だが、心臓に悪い。
アレンはこちらを見ていた。
また、目が鋭い。
私は視線を逸らさないようにした。
「人間基準を学習中です」
「よし!」
ティナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、あたしも見ててあげる。ルシェラが変な訓練しそうになったら止める係」
「助かります」
アレンも頷く。
「本当に助かる」
「あなたは私を信用していないのですか」
「してる部分としてない部分がある」
「どの部分ですか」
「俺を鍛えようとしてくれるのは信用する。訓練内容は信用しない」
分かりやすい。
少し不服だが、妥当な評価かもしれない。
ティナとポルカが見守る中、訓練を再開した。
ポルカはなぜか地図を取り出し、中庭の逃走経路を確認し始めた。
「もしアレンさんが逃げる場合、こっちの茂みから食堂裏へ抜けられます」
「逃げ道を用意するな」
アレンが言う。
「必要です。人は追い詰められると判断を誤ります」
私が言うと、アレンは顔をしかめた。
「そこで真面目に肯定するな」
だが、ポルカの逃走経路確認は実際に有用だった。
訓練後半では、その経路を使って、障害物の間を移動する練習を行った。
アレンは直線の動きより、障害物を使った動きの方が得意だった。
力で押し切るのではなく、見て、選んで、ずらす。
彼の戦い方は、少しずつ形になりそうだった。
日が傾く頃、アレンはベンチに座り込んだ。
「疲れた」
「まだ第一段階の途中です」
「今日は終わりだ」
「継続が」
「今日は終わりだ」
ティナも頷く。
「うん。アレン、かなり頑張ったと思う」
「そうですね」
私はアレンを見た。
呼吸は荒い。
肩も落ちている。
だが、目は死んでいない。
むしろ、少しだけ明るい。
「今日の成果をまとめます」
「今ここで?」
「はい」
「報告書かよ」
「記録です」
アレンが疑わしそうに見る。
私は言葉に注意しながら続けた。
「初動を見る力は高いです。恐怖で早く動きすぎる傾向がありますが、意識すれば半拍待てるようになりました。障害物を使う動きは良好。直線的な力比べは避けるべきです」
「弱点だらけだな」
「伸ばす方向が明確です」
アレンは少し黙った。
「……そう言われると、まあ、悪くない気もする」
「悪くありません」
私ははっきり言った。
「あなたは弱いです」
「そこはぼかせよ」
「ですが、弱いだけではありません」
アレンがこちらを見る。
「あなたは、違う武器を持っています」
それは、昨日から私が考えていた言葉だった。
剣ではない。
魔力ではない。
聖剣適性でもない。
見る力。
逃げ道を探す力。
怖がりながらも判断する力。
それは、彼の武器だ。
アレンはしばらく何も言わなかった。
ティナもポルカも黙っている。
中庭の木の葉が、夕風で揺れた。
やがて、アレンは小さく言った。
「違う武器、ね」
「はい」
「そんなふうに言われたの、初めてだ」
その声は、皮肉ではなかった。
少しだけ、困っているような声だった。
「お前、本当に変なやつだな」
「よく言われます」
「でも」
アレンは空を見上げた。
「今日は、少しだけ分かった気がする」
「何がですか」
「俺が、何を見ればいいのか」
私は頷いた。
「それは大きな成果です」
「地味だけどな」
「地味な成果は重要です」
「はいはい」
アレンは笑った。
今度の笑いは、かなり自然だった。
私はそれを見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
この感覚は何だろう。
任務達成の満足感。
訓練成果の確認。
観察対象の成長による有用性向上。
いくつかの説明は可能だ。
だが、どれも完全ではない。
分類不能。
継続観察が必要。
その夜、寮の机で私は記録を書いた。
――アレン・フォルク訓練開始。
――魔力量・筋力は低い。正面戦闘は不向き。
――初動観察、恐怖の認識、障害物利用に適性あり。
――「違う武器を持っている」と伝えると、反応あり。
――自己評価が低すぎるため、他者比較ではなく前回比較で評価すべき。
――訓練内容は人間基準に調整が必要。崖、毒草、追跡魔獣は現時点では却下。
そこまで書いて、私は少しだけ迷った。
最後に一行、付け加える。
――アレンが少し笑うと、なぜか安心する。理由不明。
私はその一文を見つめた。
報告書には向かない。
任務記録にも向かない。
けれど、消せなかった。
窓の外には、人間界の夜空が広がっている。
魔王城の空より青く、軽く、静かな夜。
私は羽ペンを置き、胸元のお守りに触れた。
弱い者を鍛えるのは合理的です。
その考えは、今も変わらない。
ただ、合理的だからだけではない気がしてきた。
それが何なのかは、まだ分からない。




