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第1話 星(3)

「あら、木村さん。どうしてこんなところにいるのかしら?」


オーナーの動きがピタリと止まり、こちらを見る。


「....」


(しまった…!)


完全に読み違えた。このお局は、当日にプライベートの予定を入れられるのを極端に嫌う。その憂さ晴らしを取り巻きにぶつける姿も、何度か目撃していた。だから、今日に限ってこの店には来ないだろうと高を括って、途中で席を立ったのが、完全に裏目に出た。

お局の首元には、先程までしていなかった真珠のネックレスが輝いていた。


「あの...少し、気分転換に....」


「ふーん、あなた随分余裕があるみたいねぇ。施設育ちで苦労したって聞いてたけど、こんなお洒落なバーで飲めるなんて、出世したわねぇ?」


お局の言葉に取り巻きたちがすかさず便乗する。


「あらやだ、もしかして誰かに奢ってもらってるんじゃないの?木村さん、意外と計算高いところあるから。」


「まぁ、私たちとは育ちが違うから、考え方も違うのかしら。でも、あんまり調子に乗ってると、足元をすくわれるわよ?」


店内は相変わらず賑わっている。音楽、話し声、グラスの触れ合う音。しかし私の耳には、彼女たちの言葉だけが、はっきりと、聞こえてくる。まるでスローモーションのように、その一言一句が、重く、鋭く、心に突き刺さる。周囲の喧騒が、逆に彼女たちの言葉を際立たせ、逃げ場のない状況を強調しているようだった。


その時、静かに、しかし確かな存在感を放ちながら、オーナーが口を開いた。


「お客様、少しよろしいでしょうか?」


そう言ってお局と取り巻きたちの元へ歩み寄り、柔らかな口調で言葉を続ける。


「当店はどのようなお客様も歓迎いたします。むしろ、様々なご事情を抱えた方々の、心の拠り所となれれば、これ以上の喜びはありません。」


オーナーからそう言われると、お局は一瞬言葉に詰まった。普段の威圧的な態度は影を潜め、どこか居心地悪そうに視線を彷徨わせる。そして、取り繕うように苦笑いを浮かべた。


「あらやだ、そんな大袈裟な。ただの世間話よ、世間話!ねぇ?」


と取り巻きたちの方を見る。取り巻きたちも慌てて笑顔を作る。


「そうですか。...あと、木村様は以前から当店にお越しいただいている大切なお客様です。いつも1人でいらっしゃって、決して、誰かにおごられているようなことはありませんよ。」


オーナーがそう言うと、取り巻きたちの笑顔が引き攣る。私は彼の言葉に内心感謝しながらも、この状況を打開するしかないと覚悟を決めた。


「...そうなんです。いつもお世話になってます。...でも、今日はちょっと飲みすぎちゃったみたいで、そろそろお会計をお願いできますか?」


彼は頷いた。


「かしこまりました。その前にお客様、よろしければお席までご案内いたします。奥の席が空いておりますので、そちらの方がゆっくりとお寛ぎいただけるかと。」


そう言うと、お局とその取り巻きたちを、私から一番遠い、店の奥まった席へと誘導した。お局とその取り巻きたちは、オーナーに促されるまま、すごすごと奥の席へと向かった。先ほどの勢いは見る影もなく、背中には気まずさが滲み出ている。

オーナーがカウンターに戻ってくると、私は小さく頭を下げて言った。


「すみません、変なのに巻き込んじゃって…。」


「いえいえ。いつでもあなたの味方だと言ったじゃないですか。」


その言葉は温かいけれど、私の中で疑念が渦巻く。彼はただ親切なだけなのだろうか? それとも何か企みがあるのだろうか?実際、彼の笑顔の奥に、何か見透かされているような、底知れないものを感じていたのも事実だ。まるで、私の秘密を知っているかのように。


(…でも、どっちでもいいのかもしれない。)


そう思った瞬間、心がふっと軽くなった。

親切心からであろうと、何か企みがあろうと、彼に救われたのは事実だ。どちらだっていい。どうとでもなれ。思考力が鈍っていく。今はただ、彼の優しさに身を委ねてみよう。


ふと、店の奥に目をやると、お局とその取り巻きたちがこちらをじっと見ているのに気づいた。そうだ。ああ言った手前、お会計を済ませて店を出なければ不自然だろう。


「あの...お会計、お願いします。」


オーナーはにこやかにレジを打ち始めた。手際の良い動きを見つめながら、ふと、この店の名前を聞いていなかったことに気が付く。


「そういえば、お店の名前って…?」


「ああ、まだお伝えしていませんでしたね。『L'Heure des Ombres』(ルール・デ・ゾンブル)といいます。フランス語で『影の時間』という意味です。」


「影の時間...素敵な名前ですね。」


「ありがとうございます。お時間があれば、ぜひまたお越しください。またお会いできるのを楽しみにしていますので。」


「...はい。また来ます。」


私は小さく頷き、少しだけ目を合わせて言った。そうして私はお会計を済まし、お店を後にする。



夜風が頬を撫でる。少し火照った体に心地よかった。足取りは少し覚束ないけれど、心はどこか満たされていた。


(L'Heure des Ombres、影の時間…か。)


あの時、オーナーが見せてくれた優しい笑顔が、脳裏に焼き付いている。疑念がないわけではない。それでも、今はただ、温かい気持ちで満たされていた。


(今日は、いい日だったな。)


私はそう思いながら、家路を急いだ。ふと顔を上げると、夜空には無数の星が瞬いていた。


家に着き、玄関を開けると、いつも通り暗く静かな空間が広がっていた。しかし、不思議といつもの寂しさは感じない。私はそのままベッドに倒れ込み、深い眠りについた。


◆◆◆


「や、やめてくれ!お願いだ!か、金ならいくらでも出す!命だけは...命だけは助けてくれ!」


男は必死に叫んだ。手足を縛られ、身動き一つできない。恐怖で引きつった顔には脂汗が滲み、その声はがらんとした倉庫にむなしく響き渡る。

すると、倉庫の奥、闇の中から、革靴の音を響かせながら全身黒ずくめの男がゆっくりと歩み寄ってきた。


「...残念ながら、私はお金には興味がないんですよね。」


低く、冷たい声が倉庫に響き渡る。


「じゃあ何がいい!?何をすれば、あんたは俺を許す!?できることならなんだってする!」


男は血走った目で叫んだ。しかし、そんな熱量とは真逆に、黒ずくめの男はまるで理解できないといった表情で、静かに首を傾げた。


「許すも何も、私はあなたに対して特に何も思っていませんよ。恨む気持ちも、憐れむ気持ちも。」


そして、黒革の手袋に包まれた手が、静かに、しかし確実な動きで懐に忍ばせた何かを取り出した。手元が一瞬、隙間から差し込む月光を鈍く反射し、銀色の光を放った。


「や、やめろ....」


「それに、許しを乞う機会は今までにいくらでもあったはずです。しかし、あなたはそうしなかった。散々人を傷つけておいて、今度は助けて欲しい、なんて随分と都合のいい話ですね。」


「く、来るな...!」


「つい先日、ふと思ったんですよ。人を傷つける者ほど生に執着し、傷つけられる者ほど死を願う。そんな世の中、おかしいと思いませんか?」


黒ずくめの男は、汗と涙でぐしゃぐしゃになった男の目の前で静止し、ゆっくりと腰を下ろした。目線を合わせるように顔を近づけ、冷たい瞳でじっと見つめる。その瞬間、男の喉仏に氷のように冷たい感触があった。それは紛れもなくナイフの刃だった。


「お、お前……一体、誰なんだ……?」


男は震える声で尋ねた。恐怖で喉が張り付き、言葉を発するのもやっとだ。黒ずくめの男は妖艶な笑みを浮かべ、男の耳元で甘く囁く。


「私は、しがないバーのオーナーですよ。」


その甘美な囁きと同時に、男の喉元に熱い線が走った。声にならぬ嗚咽が漏れ、言葉を紡ごうとするたびに、傷口から空気が漏れる。男は自分の喉を押さえようとするが、指の間から生暖かい液体がとめどなく溢れ出すばかり。意識は急速に混濁し、視界は白んでいく。遠のく意識の中で、男は自分が奈落の底へ落ちていくのを感じた。


黒ずくめの男は、男の体が完全に動きを止めるのを見届け、静かに立ち上がった。その顔には、先程の妖艶な笑みは跡形もなく、ただ無機質な表情が張り付いている。男の死体を見下ろすその目は、まるで路傍の石ころを見るかのようだった。価値も意味も持たない、ただの邪魔なゴミ。男は一瞥をくれることもなく背を向けると、闇へと溶け込むように姿を消した。


残されたのは、生々しい鉄の匂いと、無惨に横たわる男の亡骸。赤黒い液体がゆっくりと広がり、男の絶望を吸い込んだ地面をさらに汚していく。


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