第3話 焔紋旗の記憶
夜が明けきらぬ空の下、アシュレイ・ゼインは鍛冶場の裏にある古い倉庫の前に立っていた。
扉は黒ずんだ木で作られ、ところどころひびが入り、何年も開けられた気配がない。だが、中央の鉄製の錠だけは不自然なほどに磨かれていた。
それは、彼の父が残した最後の“遺産”だった。
革紐で首からぶら下げていた銀の鍵を取り出す。
手のひらの中で、冷たい金属が微かに震えているように感じられた。
「……俺は、もう逃げない」
アシュレイは鍵を錠に差し込み、ゆっくりと回した。重く鈍い音と共に、錠が外れ、扉がきしむように開く。
中は暗く、埃と油と木材の混ざった匂いが鼻を突いた。
懐かしい――そう感じた。まだ幼かったころ、父に連れられてこの倉庫の中に入った記憶がある。だが、何があったかまでは思い出せない。
倉庫の中央に、頑丈な鉄の箱が置かれていた。まるで宝物でも守るように、周囲には古布が巻かれ、油紙が丁寧に掛けられていた。
アシュレイはひざまずき、静かに箱の蓋に手をかける。
開けた瞬間、息を呑んだ。
そこにあったのは、一枚の旗。
赤と金が織り交ぜられた厚手の布地。中心には、焔をかたどった双翼の紋章。
それはまさしく――アルザーン王家の象徴、《焔紋旗》。
「……本当に、あったんだ」
手のひらでそっと布に触れる。少しざらついた、けれどしっかりとした重みのある感触。
その瞬間――記憶の扉が開かれた。
炎。
夜空を焦がす紅蓮の柱。
剣戟の音。叫び声。崩れ落ちる石壁。
そして――あの日、城の中で交わした、最後の会話。
『アシュ……これを持って……走れ……!』
血まみれの手が、幼い自分の胸に布を押し当ててくる。
父の顔が、煙の中で揺れていた。目だけは、泣いていた。
『これはただの旗じゃない。これは、“誇り”だ。王のための誇りじゃない……人が人として生きる誇りだ……!』
記憶が引き戻される。
倉庫の静寂に戻ると、アシュレイの目には涙が浮かんでいた。だが、彼はそれを拭おうとはしなかった。
「……父さん、俺、あの日の意味が……やっとわかったよ」
この旗は、王の血筋を示すものではない。
剣を取らぬ民の叫びを、戦場に届けるための“声”なのだ。
アシュレイはゆっくりと旗を取り出し、両手で掲げた。
光の差し込む窓から、朝の陽が旗を照らす。赤が燃え、金が輝いた。
「……これが、俺の――」
その時、倉庫の入り口から二つの影が差し込んだ。
「やっぱりここにいたな」
ガロン・ベルクが、大剣のような斧を肩に担ぎながら現れる。後ろには、いつものように本を片手に持ったシエル・ルーヴェの姿。
「見つけたか、あの旗を」
シエルの目が静かに光る。
アシュレイは旗を畳み、ゆっくりと振り向く。
「見つけたよ。……いや、思い出した。俺が誰なのか。何をすべきなのか」
「それで、どうする?」
ガロンが訊く。真剣な目で。
アシュレイは短く息を吸い、しっかりと答えた。
「この旗を掲げて、進むよ。逃げるんじゃない。戦うんだ。人として、この世界を取り戻すために」
「よく言った」
ガロンは笑みを浮かべ、拳で軽くアシュレイの肩を叩く。
「俺は、王の命令じゃ動かない。でも……お前のその目なら、命張ってもいいって思える」
「私も同意する」
シエルが短く頷く。
「人が神に抗うなら、その旗はふさわしい象徴になる。力はないが、意志がある――それが我々の武器だ」
アシュレイは旗を背に巻き、仲間たちと並んで倉庫の外へと歩き出した。
朝の空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
この旗を掲げる時が来た。
神に従う世界ではなく、人が選び取る未来のために。