第2話 辺境の少年アシュレイ
サリダの村の朝は早い。
太陽が東の山の向こうから顔を出す頃には、すでに鶏の鳴き声が響き、子どもたちは水汲み、女たちはパンを焼き、男たちは畑に向かう。
だが、村で最も早く目を覚ますのは、鍛冶屋の屋根裏で眠る一人の少年だった。
「……また、あの夢か」
アシュレイ・ゼインは、額に汗を浮かべて起き上がった。
夢の中で、炎がすべてを飲み込む。石造りの城、叫ぶ兵士、血を流して倒れる母。そして――真紅の鎧を纏った巨人の姿。
記憶は断片的だが、それが“現実”だったことを、彼の心は知っている。
彼はかつて王だった。いや、正確には、王国の正統な血を引く“王子”だった。
けれども、今の彼はただの鍛冶屋見習いである。
村人の誰もが彼を「アシュ」と呼び、優しい少年として信頼していた。
だが、その“仮面”の下で燃え続ける焔だけは、決して消えることがなかった。
「アシュ、起きてるか?」
扉の外から聞こえてきた声は、骨太で陽気な調子だった。
ガロン・ベルク――アシュレイの幼なじみにして、村の自警団の中心人物。大柄で筋肉質、顔には過去の戦の傷跡が刻まれている。
「おう、今行く。……鍛冶場か?」
「いや、今日は違う。シエルが呼んでる。塔の上だ」
アシュレイは軽くうなずき、革の上着を羽織って外へ出た。朝露の匂い、土の湿気、村の人々の穏やかな声――
それは、彼が守りたいと思う“日常”そのものだった。
二人は無言のまま、村の西にそびえる古塔へと向かった。
その最上階に住むのが、もう一人の仲間――シエル・ルーヴェだった。
「来たか」
塔の中は本で埋め尽くされていた。床、棚、壁、天井すら書物の世界。
その中心で、赤い目を持つ黒髪の青年が、地図を広げて座っていた。
「南の街が焼かれた。昨夜、ルグドリアの兵が通ったらしい。正確には……“プルトン”が動いた」
その名を聞いた瞬間、アシュレイの表情がわずかに硬直する。
「……本当か?」
「ああ。現地の密使から報告が届いた。報酬と交換でな。信頼できる筋だ。生き残った者の証言によると、街ごと一瞬で炎に包まれたという」
ガロンが歯噛みする。
「クソが……奴ら、まだ神の威光を振りかざしてやがる」
「アシュ」
シエルの目が静かに、だが真っ直ぐに彼を捉える。
「そろそろ、“選択”の時だ。逃げ続けるか、立ち上がるか」
「……俺はもう、逃げない」
アシュレイはゆっくりと地図を見下ろす。そこには、五つの国の名前と境界線、そしてそれを貫くように赤く塗られた道が描かれていた。
「この道が、俺たちの“戦場”になる」
「決まりだな」
ガロンがニヤリと笑い、斧の柄を叩く。
「どうせ退屈してたところだ。神が相手でも、やってやるさ」
「私は、“戦い”を選んだわけじゃない」
シエルが本を閉じる音が、静かに響いた。
「ただ、“理不尽”を放置できないだけだ。神であろうと、人を支配することが正しいとは思わない」
アシュレイは深く頷き、ポケットから一枚の布を取り出す。
それは、赤と金の焔を模した古い紋章――かつてアルザーン王国の王が掲げていた《焔紋旗》の一部だった。
「この旗のもとに、俺は立つ。王の名じゃない。アシュレイ・ゼインとして――“人”として」
塔の窓の外で、朝陽が大地を照らし始めた。
その光の中で、三人の影が静かに交わる。
かつて滅びた国の遺志は、ここから再び動き出す。