第34話 鳥の導きと、予期せぬ「客」
カイエン隊長の吹いた鳥笛の音は、夜の森に不思議な余韻を残して消えた。そして、それに呼応するかのように聞こえた遠くの鳥の声。それが「迎え」の合図だという隊長の言葉に、私は一縷の望みを託しつつも、新たな不安に胸をざわつかせていた。彼の言う「組織」とは一体何なのか。そして、その「隠れ家」は、本当に安全なのだろうか。いや、それよりも何よりも、お風呂とベッドと本はあるのだろうか!
「……ミレイユ司書、顔色が優れませんぞ。やはり、もう少しここで休息を……」
レオンハルト様が、心配そうに私の顔を覗き込む。その優しさが心に染みるが、今の私にはカイエン隊長の言葉の方が、ある意味で現実的な重みを持っていた。
「いえ、大丈夫ですわ、レオンハルト様。ここまで来たら、もうどこへでも、何とでもなりますわ……たぶん」
半ばヤケクソ気味に答える私。カイエン隊長は、そんな私の言葉を意にも介さず、既に森の奥へと視線を向けていた。
「……来たようだ」
隊長の短い言葉と共に、森の木々の間から、音もなく数人の人影が現れた。彼らは、カイエン隊長と同じように、黒を基調とした、しかしより軽装で動きやすそうな衣服を身に纏い、その顔はフードや仮面のようなもので隠されている。その立ち居振る舞いは、明らかにただ者ではないことを示していた。
(ひぃぃぃ! な、なんですの、この方たちは!? まるで、物語に出てくる暗殺者か密偵のようですわ!)
私の内心の恐怖をよそに、人影の一人がカイエン隊長の前に進み出て、恭しく片膝をついた。
「隊長、ご無事で何よりです。指定の場所へご案内いたします」
その声は、年齢も性別も判別しがたい、抑揚のない声だった。
カイエン隊長は頷くと、私とレオンハルト様を一瞥した。
「この者たちが、我々を隠れ家まで案内する。道中は、彼らの指示に従え」
レオンハルト様は、明らかに警戒心を露わにし、剣の柄に手をかけている。
「ヴァレンティア隊長、この方たちは一体……? 信用できるのですか?」
「……今は、そうするしかないだろう。少なくとも、王宮の追手よりは、な」
カイエン隊長の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
私たちは、黒装束の一団に先導される形で、再び森の奥深くへと足を踏み入れた。彼らは、まるで獣のように音もなく、そして驚くほど速く森の中を進んでいく。私とレオンハルト様は、必死でその後を追うのが精一杯だった。特に私は、何度も木の根につまずき、その度にレオンハルト様に助けられる始末。私の体力は、とっくの昔に底をついている。
(ああ、もう……わたくし、このままでは、隠れ家に着く前に、森の肥やしになってしまいますわ……)
どれほど歩いただろうか。周囲の木々が次第にまばらになり、やがて、巨大な岩壁の前に出た。先導していた黒装束の一人が、岩壁の一部に手を触れ、何かを操作すると、ゴゴゴ……という音と共に、岩壁の一部が内側へと開き、隠された通路が現れたではないか!
(ま、またしても隠し通路ですの!? この世界の方々は、どれだけ隠し通路がお好きなのかしら!?)
通路の先は、意外にも乾燥しており、空気も澱んでいない。そして、何よりも……明かりが灯っていた! 壁に備え付けられた魔導灯が、通路をぼんやりと照らしている。その光景に、私は思わず安堵のため息を漏らした。
「……ここが、隠れ家ですの?」
「いや、ここはまだ入り口に過ぎん」
カイエン隊長の言葉に、私は再び絶望しかけたが、黒装束の一人が静かに告げた。
「まもなく、居住区画に到着いたします。湯浴みの準備も整っております」
「ゆ、湯浴みですって!?」
その言葉を聞いた瞬間、私の疲労困憊だったはずの体に、どこからともなく最後の力が湧き上がってきた! お風呂! 夢にまで見たお風呂に、やっと入れるかもしれない!
私たちは、迷路のような通路を抜け、やがて、いくつかの扉が並ぶ区画へとたどり着いた。その一つを開けると、そこには……簡素ではあるが清潔な寝台と、小さな机、そして何よりも、湯気を立てる大きな木の浴槽が置かれていた!
「お、お風呂ですわ……! しかも、ちゃんとしたお湯が……!」
私は、感涙にむせびながら、その浴槽へとふらふらと吸い寄せられていく。
「ミレイユ司書には、こちらのお部屋をお使いいただきます。着替えも用意してございますので、ごゆっくりお過ごしください」
黒装束の一人が、そう言って深々と頭を下げると、音もなく部屋を退出していった。レオンハルト様とカイエン隊長も、別の部屋へ案内されたようだ。
一人残された私は、しばし呆然と湯気立つ浴槽を見つめていたが、やがて、我に返ると、震える手で泥まみれのドレス(もはやただの布きれ)を脱ぎ捨て、夢にまで見た湯船へと、そっと身を沈めた。
「あぁぁぁぁ…………生き返りますわ…………」
温かいお湯が、凝り固まった体と心を優しく解きほぐしていく。この数日間、いえ、もしかしたら悪役令嬢として目覚めて以来、初めて味わう心からの安らぎかもしれない。
しかし、その安らぎも、長くは続かなかった。
湯船に浸かりながら、私はぼんやりと、先ほどカイエン隊長が言っていた「お前には、まだ果たしてもらうべき『役目』がある」という言葉を思い出していた。そして、あの黒い本に触れた時の、脳内に流れ込んできた「契約」の断片的な記憶……。
(王家の血……古き力……代償……そして、世界の危機……。わたくしのこの力は、一体何のために……? そして、あの「契約」とは、一体何を意味するのでしょう……?)
考えれば考えるほど、謎は深まるばかり。そして、それと同時に、私の胸の奥底で、何かが疼くような、奇妙な感覚が再び鎌首をもたげてくるのを感じていた。それは、恐怖であり、しかしどこか、未知への好奇心のようなものも混じっている、複雑な感情だった。
湯浴みを終え、用意されていた簡素だが清潔な部屋着に着替えた私は、ふと、枕元に小さな包みが置かれているのに気がついた。開けてみると、そこには……数冊の、古びてはいるが、大切に扱われてきたであろう本と、一切れの干し肉、そして小さな水筒が入っていた。
(こ、これは……! 本ですわ! しかも、こんなところに……! まさか、カイエン隊長が……?)
いや、あの鉄面皮の男が、こんな気の利いたことをするはずがない。きっと、この隠れ家の誰かが、気を利かせて置いてくれたのだろう。そう思うことにした。
私は、震える手でその中の一冊を手に取った。それは、この国の古い民話集のようだった。久しぶりに触れる、紙の感触、インクの匂い……。それだけで、涙が出そうになる。
しかし、私がその本の最初のページを開こうとした、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音と共に、部屋の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、先ほどの黒装束の人物……ではなかった。
フードを目深にかぶってはいるが、その佇まい、そしてフードの隙間から覗く銀色の髪の一房は、明らかにこれまでの者たちとは違う雰囲気を漂わせている。
そして、その人物が、静かに、しかし凛とした声で、私にこう告げたのだ。
「……ミレイユ=フォン=ローデル様ですね? お待ちしておりました。――我らが主が、貴女にお会いしたいと仰せです」
(わ、我らが主……ですって!?)
私の、束の間の安息は、新たな、そしておそらくはさらに厄介なであろう「客」の登場によって、あまりにもあっけなく破られることとなったのだった。