第33話 凍える夜と微かな導き
焚き火の暖かさが、凍えた体に染み渡る。しかし、それ以上に、私の心は冷え切っていた。またしても中断された読書。またしても始まる逃避行。この無限ループから、いつになったら抜け出せるというのだろう。
「……カイエン隊長」
不意に、レオンハルト様が低い声で口を開いた。その声には、いつもの実直さに加え、わずかな怒りと、そして深い懸念の色が滲んでいる。
「ミレイユ司書は、もはや限界です。彼女のその力は、確かに我々の助けとなっているのかもしれない。しかし、それと引き換えに彼女がどれほどの負担を強いられているか、貴方にはお分かりにならないのですか!」
カイエン隊長は、焚き火の炎を見つめたまま、静かに答える。
「……分かっている。だが、感傷で状況が好転するわけではない。彼女のその力が、我々が生き延びるための、そしてあるいは、この国が抱える『歪み』を正すための鍵となるのなら、多少の犠牲は……やむを得ん」
「犠牲ですって!?」
私が思わず声を上げる。この男、やはり私のことなど、便利な道具程度にしか考えていないのでは!?
カイエン隊長は、そこで初めて私の方へ視線を向けた。その黒曜石のような瞳の奥に、ほんの一瞬、何か複雑な感情がよぎったように見えたのは、気のせいだろうか。
「……安心しろ。死なせはせん。お前には、まだ果たしてもらうべき『役目』があるからな。それに……お前が静かに本を読める場所くらい、いずれ用意してやらんでもない」
(な、なんですって!? それは……! い、いえ、そんな甘言に騙されてたまるものですかっ!)
私の心は、ほんの僅かな期待と、それを打ち消そうとする頑なな警戒心で、激しく揺れ動いた。
レオンハルト様は、なおも食い下がろうとするが、カイエン隊長はそれを制するように、懐から取り出した何か――小さな、鳥の形をした金属製の笛――を、静かに口に当てた。
そして、夜の森に、高く、澄んだ音色が響き渡る。それは、単なる音ではなく、何かを呼び覚ますような、不思議な力を秘めた音色だった。
遠くで、それに呼応するかのような、別の鳥の鳴き声が聞こえた気がした。
カイエン隊長は、笛をしまうと、静かに立ち上がった。
「……迎えが来る。ここから少し離れた場所に、一時的だが、安全を確保できる隠れ家がある。そこへ向かうぞ」
(む、迎えですって!? この人の……『組織』の仲間が、こんな森の奥深くまで……!?)
私の脳裏に、新たな疑問と、そしてほんの少しの……いや、やっぱり大きな不安が渦巻く。
「その隠れ家には……もしかして、お風呂と、ふかふかのベッドと……そして、たくさんの本があったり……いたしますの……?」
私の、あまりにも切実な問いかけ。カイエン隊長は、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、口の端を歪めたように見えた。
「……さあな。行ってみれば分かる」
その言葉は、希望なのか、それとも新たな絶望への序章なのか。
私は、まだ濡れたままのドレスの裾を握りしめ、新たな逃避行の始まりを、ただただ覚悟するしかなかったのだった。