第30話 天然スライダーと読書欲(我慢限界)
「もう、どうにでもなりなさいまし! レッツ・スライディング!」
私のヤケクソな叫びと共に、抱えていた黒い本を胸に、熊毛布マント(もはやただの泥布)を敷いて、天然の急斜面を滑り降り始めた!
「いやっほぉぉぉぉ……じゃなくて、きゃーーーーーーーーっ!!」
最初は優雅な(つもりの)滑り出しだったが、斜面の角度は思った以上に急で、しかもデコボコ! あっという間にコントロールを失い、私は土埃と木の葉を盛大に巻き上げながら、時にはくるくると横回転し、時には木の根っこにお尻を強打し、それはもう無様という言葉が生易しいほどの勢いで滑落していく!
「ミレイユ司書!?」
「おい、待て、馬鹿者!」
私の奇行(というより暴走)に、レオンハルト様とカイエン隊長が驚愕の声を上げるのが聞こえたが、もう止まれない! 抱えた本だけは、絶対に、絶対に死守しなくては! という本能だけが、私を突き動かしていた!
やがて、カイエン隊長が舌打ち一つして、最小限の動きで、しかし驚くほどスムーズに斜面を滑り降りてくるのが見えた。その姿は、まるで雪山を滑る熟練の狩人のよう……って、感心してる場合じゃない!
レオンハルト様も、「ミレイユ司書、お待ちください!」と、騎士の体幹を駆使して(しかし、時折バランスを崩しながら)必死に後を追ってくる!
そして、どれほどの時間(私にとっては永遠にも感じられた)が経過しただろうか。斜面の傾斜が緩やかになり、私はついに、勢い余って数回ゴロゴロと転がり、泥と草と木の葉にまみれて、ようやくその動きを止めた。
「うっぷ……。め、目が回りますわ……。全身打撲……。お尻が……お尻が、四つに割れたような衝撃でしたのよ……」
そこは、木々に囲まれた、小さな川のほとりだった。キラキラと水面が太陽の光を反射し、小鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。ようやく……ようやく、あの薄暗く、汚くて、臭くて、不気味な洞窟から脱出できたのだ!
私は、その場に大の字に倒れ込み、ぜえぜえと荒い息をついた。泥まみれの顔に、一筋の涙が……いや、これは泥水かしら。
すぐに、カイエン隊長とレオンハルト様も、私よりはずっとスマートに(それでも多少は汚れているが)合流した。カイエン隊長は、即座に周囲の気配を探り、レオンハルト様は「ミレイユ司書、お怪我はございませんか!?」と、私の元へ駆け寄ってくれる。
「……だ、大丈夫……では、全くございませんけれど……。でも、生きておりますわ……。奇跡的に……」
カイエン隊長が、冷静に告げる。
「……追手の気配は、今のところない。あの急斜面は、訓練を受けていない者には、そう簡単には下りてこれんだろう。一時的には撒けたと見ていい」
その言葉に、私は心の底から安堵のため息をついた。よかった……! やっと、少しだけ、ほんの少しだけ、息がつける……!
そして、その安堵感と共に、私の内なる欲求が、むくむくと、しかし抗いがたい力で頭をもたげてきたのだ。
私は、泥だらけの手で、しかし宝物のように抱きしめていた黒い本を、じっと見つめた。ここまで、幾多の困難(主に私の不運と巻き込まれ体質によるもの)を乗り越え、命からがら守り抜いてきたこの本。その中身を、一刻も早く知りたい!
「……隊長。レオンハルト様」
私は、不意に真剣な表情で、二人の顔を見上げた。
「わたくし、もう……我慢の限界ですの」
その言葉に、レオンハルト様は「ミレイユ司書……? やはりどこかお身体の具合が……?」と心配そうに眉を寄せる。カイエン隊長は、無表情ながらも、私の次の言葉を待っているようだ。
私は、一度ごくりと唾を飲み込み、そして、ありったけの決意を込めて宣言した!
「少しだけで結構ですわ! ほんの……ほんの数ページだけでも構いませんの! この本を……! この、わたくしが命がけで(主に隊長と騎士様に守られて)ここまで運んできた本を、今すぐ読ませてくださいまし! ここまで来て、この本が一体何なのかも分からずに、また次の逃走劇が始まるなんて、そんなの、本好きの名折れですし、悪役令嬢としての(元)プライドも許しませんわ!」
私の、あまりにも切実で、そしてどこか的外れな訴え。
レオンハルト様は、「し、しかし、ミレイユ司書、まだ安全が確保されたわけでは……」と戸惑いを隠せない。
カイエン隊長は、そんな私と本を交互に見つめ、やがて、ふいと顔を背けるようにして、短く、こう言った。
「……好きにしろ。だが、何か異変があれば、即座に中断する。いいな?」
「ほ、本当ですの!? やったーーーーーーーーっ!」
私は、疲れも怪我の痛み(たぶん)も忘れ、子供のようにはしゃいでしまった! まさか、この鉄面皮の隊長が、こんなにもあっさりと許可をくれるなんて!
早速、私は川で泥だらけの手を洗い(もちろん、カイエン隊長に「水浴びをするな。時間をかけるな」と釘を刺されたが)、一番日当たりの良さそうな木の根元に陣取った。そして、いよいよ、あの光り輝いていた(今はただの古びた黒い本だが)曰く付きの本の表紙を、震える手で、そっと開こうとする。
私の左手にはめられた銀の指輪が、それに呼応するかのように、再び微かに、しかし確かに熱を帯び始めている。
果たして、この「呪いの本(仮)」には、一体どんな驚天動地の秘密が記されているというのか!? そして、ミレイユは、無事に至福の読書タイムを堪能することができるのだろうか!?
……まあ、そんな甘いわけがないと、彼女以外の二人(そして、おそらくこの物語を読んでいる貴方)は、薄々どころか、はっきりと感づいているのだった!
次なる受難の足音は、もう、すぐそこまで迫っている……かもしれない!?