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第1話 悪役令嬢、書庫に立つ

 しぃん、と静まり返った書庫の奥。差し込む陽光がきらきらと埃を舞い上がらせる中、私は至福の溜息を漏らした。

 目の前には、天井まで続く巨大な書架。革装丁の古びた背表紙がずらりと並び、古い紙とインク、そして微かなカビの匂いが混じり合った、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。


 あぁ、幸せ……! これよ、これ! 私が求めていたのは!


 思わず頬が緩むのを、慌てて片手で押さえる。いけない、いけない。ここは職場。しかも、ただの職場ではない。この国の知の殿堂、王立図書館「ルミナ・アーカイブ」。そして私は、ただの読書好きではなく――訳あってここに潜り込んだ、元・悪役令嬢、ミレイユ=フォン=ローデルなのだから。


(……まったく、どうしてこうなったのかしらね)


 心の中で毒づきながら、指先でそっと背表紙を撫でる。ひんやりとした革の感触が心地よい。


 ほんの数ヶ月前まで、私は乙女ゲーム『クリスタル・ラビリンス』の悪役令嬢として、ヒロインをいじめ、王子に執着し、最終的には断罪されて国外追放か良くて修道院送り、という破滅ルートをひた走っていた……らしい。らしい、というのは、その記憶が蘇ったのが、まさに断罪イベントの直前だったからだ。


『ミレイユ=フォン=ローデル! 貴様のこれまでの悪逆非道、断じて許すわけにはいかぬ!』


 卒業パーティーの会場で、きらびやかな衣装に身を包んだ攻略対象者たちに取り囲まれ、王子にそう糾弾された瞬間、私の頭の中に電流が走った。前世――日本のしがない女子大生として、本とゲームに明け暮れていた記憶が一気に流れ込んできたのだ。


(うわ、これ、進〇ゼミでやったとこ……じゃなくて、前世でプレイしたゲームの断罪シーンじゃん!)


 目の前には、涙目で王子にしなだれかかるピンクブロンドのヒロイン。私を睨みつける攻略対象のイケメンたち。そして、遠巻きに囁き合う貴族たち。まさに、ゲームで何度も見た光景。


 普通なら、ここで絶望し、泣き叫び、あるいは開き直って最後の抵抗を試みるのだろう。しかし、前世の記憶と共に、私の本質――すなわち、三度の飯より本が好きで、面倒事は大嫌いなオタク気質――も完全に覚醒してしまった。


(断罪? 追放? 修道院? ……冗談じゃないわ! そんなことになったら、私の貴重な読書時間が!)


 恐怖や絶望よりも先に立ったのは、本が読めなくなることへの激しい怒りだった。ざまぁ? 復讐? 誰がそんな面倒なことを。それよりも、積読リストの消化の方がよほど重要だ。


 気づけば私は、震える声でこう言い放っていた。


「……恐れながら王子殿下。わたくし、殿下との婚約は辞退させていただきますわ。どうぞ、そちらの可愛らしい方とお幸せに」


 あっけに取られる王子とヒロイン、ざわめく周囲を尻目に、私は可能な限り優雅なカーテシーを決め込み、その足で実家にも戻らず、一直線にこの王立図書館へと向かったのだ。もちろん、手土産代わりに「ローデル公爵家の推薦状(偽造一歩手前)」を携えて。


「わたくしを雇わなければ、後悔なさいますわよ?」


 半ば脅しに近い言葉で館長に迫った時のことを思い出すと、少し顔が熱くなる。けれど、背に腹は代えられなかったのだ。私の目的はただ一つ。この図書館で司書として働き、この膨大な蔵書に囲まれて、静かに、ひたすら静かに本を読みふけること!


「……ミレイユさん、大丈夫ですか? 顔色が少し赤いようですが」


 不意にかけられた声に、はっと我に返る。振り返ると、心配そうにこちらを見つめる先輩司書のアンナさんが立っていた。


「い、いえ、大丈夫ですわ、アンナ先輩。少し、この素晴らしい蔵書に感動しておりまして」


 完璧な淑女の微笑みを貼り付け、内心の動揺を押し隠す。危ない危ない。この図書館では、私は「訳あって貴族社会からドロップアウトし、心機一転、幼い頃からの夢だった司書の道を選んだ殊勝な令嬢」ということになっているのだ。まさか断罪回避と読書目的で潜り込んだなど、口が裂けても言えない。


「ふふ、ミレイユさんは本当に本がお好きなんですね。でも、無理はなさらないでくださいね。今日はこの書架の整理をお願いしていますが、終わらなければ明日でも構いませんから」

「ありがとうございます。ですが、ご心配なく。わたくし、こう見えても体力には自信がありますの」


 にっこりと微笑み返し、内心では「早く終わらせて自由時間(=読書時間)を確保しなければ!」と気合を入れる。


 幸い、司書の仕事は思った以上に性に合っていた。膨大な本を分類し、整理し、時に埃を払い、傷んだページを修復する。それはまるで、愛しい者たちの世話をするような、満ち足りた時間だ。周囲の同僚たちも、最初は「あのローデル家の令嬢がなぜ?」と遠巻きにしていたが、私が(本が関わること以外は)至って無害で真面目な働きぶりを見せているためか、少しずつ打ち解けてきてくれている……気がする。


 よし、この調子よ。このまま地味に、目立たず、空気のように図書館に溶け込み、いずれは書庫の主と呼ばれる存在に――。


 そんな私のささやかな野望を打ち砕くように、不意に、硬質な足音が書庫に響いた。この図書館に似つかわしくない、規律正しく、どこか威圧的な響き。


(……げ)


 内心で顔をしかめる。この足音には聞き覚えがある。私の平穏な読書ライフを脅かす可能性のある、要注意人物リストの上位にランクインしている人物だ。


 足音が近づき、書架の隙間から、見慣れた――見慣れたくはなかった――騎士服の男が姿を現した。銀に近いプラチナブロンドの髪に、真っ直ぐな青い瞳。乙女ゲーム『クリスタル・ラビリンス』の攻略対象の一人にして、王太子付きの近衛騎士、レオンハルト=アーヴィング様、その人である。


 なぜ近衛騎士様が、こんな書庫の奥まで? しかも、その真っ直ぐな青い瞳は、寸分の狂いもなく、私を捉えている。


「……ローデル嬢。いや、今はミレイユ司書、と呼ぶべきか」

「レオンハルト様。ごきげんよう。図書館に何か御用でしょうか?」


 完璧な淑女の仮面を貼り付け、内心の「うわー、面倒くさいのが来たー!」という叫びを押し殺す。お願いだから、用があるならカウンターに行ってほしい。そして私に関わらないでほしい。


 レオンハルト様は、表情一つ変えずに私を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「少し、君に話がある」


 その言葉に、私の額に微かな汗が滲む。どうやら、私の望む「静かで平穏な読書ライフ」は、想像以上に前途多難なようである。


(私の安息はどこ……!?)


 心の中で絶叫しつつ、私は営業スマイルを崩さないよう、必死に顔の筋肉を引きつらせるのだった。

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