第1話 趣味としてのウィスキー~ブラックニッカスペシャル~
香ばしい麦芽の香りが鼻腔をくすぐった。
「うん、いい香り……」
宮原美咲は、手元の小さなグラスを眺めながら、またそっと鼻を近づけた。
先日購入したブラックニッカスペシャル。
これまで千円以上のウイスキーには滅多に手を出してこなかった彼女にとっては、ちょっとした贅沢なウイスキーだ。
部屋の灯りを少し落とし、デスクに向かう。
パソコンの画面には締め切りの迫った小説の原稿が表示されている。
ラノベ作家として十年以上のキャリアを積んできたが、昨今の出版不況と物価高騰で生活はますます厳しくなっていた。
「まぁ、これも楽しみのひとつだと思えばいいよね……」
美咲は小さく呟きながら、再びグラスに鼻を近づけた。
アルコールの刺激の奥に、何か甘みのある香り、そして微かに感じる樽の風味。
これまで偶に飲んでいたブラックニッカクリアとは明らかに違う。
実は美咲、これまでお酒はそれほど好きではなかった。
友人や知人と飲み屋に行くときは、たいてい運転手役で、お茶ばかり飲んでいた。飲むにしても日本酒やワインの甘い系統が好みで、ウイスキーに特別な思い入れはなかった。
一番好きなお酒はと聞かれれば「而今」と即答する彼女だが、その而今は今や手に入らない幻のお酒となってしまっている。
そんな彼女だが、時々ウイスキーに挑戦することもある。
そして先月、何気なくトリスクラシックを買って飲んでみたところ、不思議と「美味しいかも」と感じたのだ。
それが全ての始まりだった。半月ほどでひと瓶開けて、もしかしてウイスキーの味がわかってきたのかなと思い始めた。
「たまには贅沢してもいいよね……?」
そう自分に言い聞かせ、今日、スーパーで1500円ほどするブラックニッカスペシャルを手に取ったのだ。
今まで千円を超えるウイスキーはほとんど買ったことがなかった美咲だが、そのお髭のおじさんが有名なウイスキーであることは知っていた。
グラスに注いだのは30ml程度。安物のショットグラスだが、それでも香りは十分に楽しめる。
一口含むと、喉の奥でじんわりと広がる温かさ。そして不思議な甘み。
「わぁ……」
美咲は小さく感嘆の声を漏らしながら、パソコンの画面を切り替えた。
YouTubeを開き、検索窓に「ウイスキー 初心者」と入力する。
すると、様々な解説動画が表示された。
「ウイスキーの種類」「ウイスキーの美味しい飲み方」「初心者におすすめのウイスキー」などなど。
美咲は興味深そうに一つずつクリックしていく。
「モルトとグレーンの違い……へぇ、知らなかったなぁ」
「ブレンデッドウイスキーってこういうことなんだ……ふーん」
「スコッチ、バーボン、ジャパニーズ……」
次々と新しい知識が頭に入ってくる。
知れば知るほど、ウイスキーの世界の奥深さに魅了されていく。
そういえば、数年前にカティーサークのハイボールにはまったことがあった。
しかし二本目を買った頃には飽きてしまい、それ以来ウイスキーからは遠ざかっていた。
また、何年か前のクリエイターが集まる大きなパーティで、高級ウイスキーをいくつか飲む機会があった。
イチローズモルトやアードベック、アランなど、今となっては羨ましい銘柄だ。
しかし当時は何も知識がなく、ただ「強いなぁ」としか思わなかった。有名なマッカランが既に空になっていて飲めなかったことが、今になって心残りだ。
「うーん、もったいないことしちゃったなぁ……」
グラスを見つめながら、美咲は少しだけ眉を下げて後悔した。
今ならもっと味わえたのに。
何十年も前、親とその友人と行った田舎のスナックで飲んだウイスキーの水割り。あの時の美味しさは今でも忘れられない。
プロが作る水割りの味に、いまだに憧れを抱いている。
「ねえ、これからウイスキー、ちゃんと勉強してみようかな」
美咲はふと決意した。
家族のために車を運転する必要があるので、ウイスキーを楽しめるのは夜10時以降の限られた時間だけ。
だからこそ、その時間を大切に、質の高いものを少量ずつ味わおうと思った。
グラスに残ったウイスキーをゆっくりと口に含む。
アルコールの刺激、穀物の甘み、そして樽の風味。
一口ごとに違った表情を見せるウイスキーに、美咲は魅了されていた。
「ウイスキーって、個性があって面白いね。小説の登場人物みたい」
そう思いながら、美咲はグラスを傾け、最後の一滴まで味わった。
YouTubeでは次の動画が自動再生され、「シングルモルトの選び方」というタイトルが表示される。
「シングルモルトかぁ……いつか飲んでみたいなぁ」
しかし美咲の財布事情は厳しい。
当面は二千円以下の銘柄を探すことになりそうだ。
それでも、近所のドラッグストアやイオンのウイスキーコーナーを買い物ついでにチェックするのが、最近の楽しみになっている。
「明日から、ウイスキーのことノートにまとめてみようかな」
そんなことを考えながら、美咲は一日の終わりを告げるようにパソコンの電源を落とした。
「ウイスキー作家……ううん、ウイスキーライターってのもいいかもね」
そんな言葉を呟きながら、美咲は明日への期待を胸に、静かに寝床に向かった。