18 [E]
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ネオ・アルカディア、アースガルズ第三エリア。少女はその中でもレプリロイドの風当たりが強くない地域に住む、ある人間の屋敷に飼われていた。
当初はその人間の息子の遊び相手という名目だった。楽ではなかったが、それほど酷い仕打ちを受けることもなく、ある程度平穏に暮らしていたのだが、数ヶ月ほど経過した頃、事件が起きた。
その家の亭主が、酒の勢いに任せたのか、彼女に乱暴をしようと迫った。少女は必死に拒絶しようとしたが、相手がレプリロイドであることをいいことに、男は殴る蹴るの暴力に訴え、少女を組み敷こうとした。
衣類も全て剥ぎ取られ、いよいよ…となった時、少女は無我夢中で男の腕を振りほどき、傍にあった鈍器に手を伸ばし、勢い良く男の頭部を殴りつけた。
気づけば部屋の中には血溜まりができていた。
少女は逃亡。苦心の末、偶然にも、とあるレジスタンス組織の構成員と接触し、国を抜けた。
それからいくつかの集落とレジスタンス組織を転々とした。
ネオ・アルカディアの襲撃を幾度も経験し、その度に命からがら逃げ果せた。
だが、共に暮らしていた仲間たちは、虚しいほど簡単に死んでいった。
先日まですぐ横で笑っていたものの頭部が、次の日には呆気無く砂塵に変えられた。
その日戦いに赴いた者達が、ついに帰ってくることは無かった。
そんな日々を過ごす内に、少女の中に沸々と志が湧いてきた。
そして煮え切らない意志を抱えながらある集落に留まり、暫く経った頃。
“紅いイレギュラー”の噂が聞こえてきた。
―――― 5 ――――
ガラノフが合図をすると、後方で控えていたパンテオン達が銃口をクラフトに向けた。そして、躊躇いがちな部下達を尻目に、ガラノフは片手で指示を送った。
たちまち、銃声が鳴り響き、クラフトの身体に数十発のエネルギー弾が撃ち込まれる。それを見ていた部下達はガラノフに「いいんですか」と慌てて視線で問いかけた。
だが、ガラノフは悪びれる様子もなく、「構わねえよ」と言ってのける。
「生憎、“紅いイレギュラー”もいることだ。こいつを処分したところで、俺達が罪をおっかぶる必要は無ぇ」
その眼は虚勢でも、冗談でも無く、真剣そのものであった。
たとえイレギュラーハンター第十七精鋭部隊長が相手だろうと、自身の邪魔をする者は決して許しはしない。無論、座右の銘である弱肉強食の範囲に基づいてのことだが。
一見狂気じみたガラノフのあり方に、彼の部下達は恐れを感じるよりも、カリスマ性を感じ、惹かれていた。それ故に、皆、彼の命には逆らわないのだ。
そして、ガラノフの指示を受けるまま、それぞれその場を離れ、武器を手にして戻ってきた。ここでクラフトを抹殺してしまおうと判断したのだ。
激痛に膝をつくクラフト。だが、銃撃を受けた痛み以上に、彼の心を覆う影は大きかった。
「……本当……なのか…」
震える声で問いかける。ガラノフは一層悦びに顔をひきつらせた。
レイラは否定の言葉を返すことができず、黙りこむ。しかし、その瞳は真実を語っていた。それを見て取ったクラフトは、言いようのない失望感に苛まれた。
「違う!殺そうと思ったんじゃない!オレは…ただ!」
咄嗟にレイラは言い訳を口にする。だが、ガラノフは鼻で嘲笑う。
「理由や状況はどうあれ、テメエは人間を殺した。そして、それをイレギュラーハンターであるアイツは赦すことができねえ」
「なあ、そうだろ」とクラフトに問いかける。返事はなかったが、その表情で全てがわかった。
“人間に危害を加えるべからず”
それはレプリロイドとして最低限の行動指針だ。いったいどの様な仕打ちを受けようとこれは護らねばならず、遵守しなければならない法だ。
そして、これを破った者を処分するのがイレギュラーハンターの仕事であり、義務だ。
例え人間に乱暴を加えられたレプリロイドであったとしても狩らねばならない。もしもそれを赦してしまうならば、レプリロイド達の反乱を赦したも同然だ。
だが、そう言ったルール以前に、クラフトという一人のレプリロイドは“人間を守る”ということに対し、強い信念を持っていた。誇りを持っていた。
それ故に、今、目の前の少女を救いたい感情との狭間に立たされ、選択を迫られた。決して決めることのできない選択を。
それはクラフトにとって最大の障害だった。
「結局テメエは現実を受け入れようとしてねえんだよ」
ガラノフが更なる追い打ちをかける。
レイラの頭を鷲掴み、身体を持ち上げた。レイラは呻き声のような悲鳴を上げる。
「所詮この世は弱肉強食。力のある者が正しい。俺の言った通りだろう?このガキも一緒さ。暴力と言う名の“力”で、弱い人間をぶち殺した」
その声が重く響く。
「そして、権力という“力”に居場所を追われ、今こうして再び暴力と言う“力”の前で為す術なく叫び続けている。なあ、クラフト。認めちまえよ」
同じ道へと引き摺りこむような、囁くような声でガラノフがそう告げる。
「それでも…俺は……」
クラフトが何かを言いかけた瞬間、ガラノフはレイラの身体を投げ捨て、傍にあった自分のライフルに手をかけた。そして銃口をクラフトへと向け、引き金を引いた。
マントのビームコーティングがその威力を減退させるが、その痛みは尋常ではなかった。鈍い痛みを抑えるように、クラフトはうずくまる。
「いい加減に認めちまえよ、クラフト!テメエが選んだのはそう言う道なんだよ!」
ガラノフの怒りが、堰を切って溢れ出す。
「正義!?使命!?名誉!?弱い人間を守る!?悪を挫く!?違う!違う 違 う !!俺達が立ってる場所はそんな“理想郷”じゃあ無ぇだろう!」
クソったれのルールに縛られた泥沼の世界だ。
抜け出したい思いが無いわけではない。逆らいたい思いが無いわけではない。だが、そこで生きていくためにはそのルールに従う外はない。
弱肉強食――――弱者は強者の肉となり食される。それがこの世の原理だ。
どれだけ足掻こうと、もがこうと、レプリロイドという弱者は、人間という強者に逆らうことはできない。それを受け入れるしか無い。
「イレギュラーハンターの道を貫くなら尚更だ!知っていた筈だろうそのくらい!!“その摂理に倣って生きるしか無ぇ”ってことくらい、分かるだろうが!」
イレギュラーハンター――――レプリロイドにとっての警察組織。現ネオ・アルカディアにおいて国内の治安維持活動組織として最強の部隊。人類の盾。
それはつまり、如何に残虐な人間の命であれ護らなければならない義務を負っている。その為ならばどれだけ同胞を処分することになろうとも決して厭わないことを誓っている。
それでも尚、クラフトはガラノフの道を拒絶しようとした。
それでも尚、クラフトは人間を護りたいと願った。
それでも尚、クラフトは今、目の前の少女を救いたいと願った。
それでも尚、クラフトはイレギュラーハンターの道を貫きたいと思った。
それでも尚、クラフトは罪を犯したレプリロイドを救いたいと思った。
その矛盾が、在り方が、ガラノフは何よりも嫌いだった。
「テメエは昔からそうだ!『正義だ』『使命だ』と人間の言いなりになりやがるクセに、頭じゃ現実を認めずにズレたことばかり考えやがる!綺麗事ばかり叫びやがる!それが苛つくんだよ!ムカツクんだよぉ!」
殊更声を荒げ、ガラノフは怒気を含ませて叫んだ。
「『それでも…俺は……』!?なんだ!?『救いたい』か!?ふざけるなよ!理想を吠えてばかりで救える世界じゃあ無ぇだろうが!いい加減に認めやがれ、クラフトぉ!!」
再び引き金が引かれる。放たれたエネルギー弾は、クラフトのヘッドギアに直撃し、弾き飛ばした。
皆、言葉を失い、クラフトを見つめた。幸い、頭部を貫通してはいなかったが、クラフトは虚ろな目で、地面を見つめていた。額からは血が流れていた。
『理想を吠えてばかりで救える世界じゃあ無ぇ』――――先程、ガラノフが口にした言葉が脳裏に反響する。そういえば以前、自分も似たような事を言った。
ボレアスの山内。あのポーラー・カムベアスと向き合った時だ。
『第十七部隊?…救世主の後継者?……聞いで呆れる!ごの雪山を見で……純白の世界を目に焼き付けで……何も思わながっだのか!?』
『今やるべきごとは、ごんなごとなのか!違うだろう!!』
掲げたい理想がないわけではない。命を奪わないまま平和を勝ち取れたなら、それに越したことはない。
しかし現実に、平和を乱そうとする輩は後を絶たない。時に己の利益のために、生存のために、信念のために…………世界に国家がたった一つとなった今でさえ、心が完全に一つになってはくれない以上、争いは大なり小なり、必ず生まれてしまう。
そこでクラフトは戦うことを誓った。人間のために。か弱く尊い命のために。
しかし、それでもまた、今目の前で弄ばれようとしている同胞の命を救いたいと思った。
ガラノフの言う通り、クラフトもまた理想を求めようとしていた。
この手を差し伸べられる誰もを救いたいと願っていた。
しかし、どこかで割り切らねばならないことが分かっていた。
しかし、それでも捨てきれぬ理想があった。
――――だから俺は……
あの時、酷くやり切れない想いが胸を駆け巡ったのはそのためか。
そんな風に迷い、悩む自分に、カムベアスは『理想を掴め』と声を張り上げた。そしてそこに踏み出せない自分を知っているからこそ、クラフトはあの時、声を荒げて怒鳴り返したのだ。
『理想だけを吠えたところで、救える世界ではない!』
――――違う……
ガラノフと自分を重ね、カムベアスの幻影を見つめる。そして――――
「……ネージュ…」
彼女の名が頭をよぎった。
『だから私は記事を書き続けるわ。そんな未来を信じているから。……ううん、そんな未来に“したい”から』
あの日の言葉が心の奥底で木霊した。あの日、どうして彼女があんなにも遠くに見えたのか、ようやく分かった。
「違う……」
クラフトが呟いた言葉が聞き取れず、ガラノフは思わず耳を澄ます。
「違う……そうじゃない……」
カムベアスも、ネージュも、ただ理想を吠えていただけではない。
それを求め、掴むための道を選び、進んでいた。
「彼女が…強かったわけじゃない……」
あの日、カムベアスへと怒鳴り返した言葉はただの言い訳だ。
きっと分かっていた。
ただ理想を掴めないのではない。
求めないのではない。欲しないのではない。
望まないのではない。願わないのではない。
理想を吠え、叫び、それでも追いかけない理由。それは単純だ。
「俺が弱かったんだ………」
口にし、言葉にし、それでも目を背けていた。
ガラノフの言う通り、理想を吠えるだけで、心の底では諦めていた。
掴めないものだと蓋をして、遠ざけようとしては結局捨てきれぬまま抱えて。堂々巡りを続けていたのだ。
様子を訝しむガラノフ達の目も気にする事無く、クラフトはただ考える。
――――ならば、どうする……?
そんな弱い自分がどうすればここから這い上がれる?
どうすれば理想を求められる?追いかけられる?声高らかに叫び、真っ直ぐに手を伸ばすことができる?
思わず懐に手を入れる。すると、答えは直ぐに見つかった。
『そんな風に信じてなきゃ…やってられないわ』
――――………そうだな……ありがとう
「認めよう、ガラノフ。……確かにお前の言う通り、この世界は“弱肉強食”なのだろう」
よろけながらも立ち上がり、そう言いながらクラフトは真っ直ぐにガラノフを見つめた。
暴力であれ、権力であれ、力を持った強者により、この世界は動かされている。そして、弱者はその力に振り回され、時に犠牲となってしまう。それは変えられない摂理だ。
その中で一人、迷い続けていた。同胞を手にかけ続けることに疑問を持ちながらも、“人間を護る”という使命を盾に、いつしか諦めるようになっていた。目指したい世界が本当はあるというのに、目を背けようとしていた。真に信じたいと願っていた正義を、裏切ろうとしていた。
「だが……それでも俺は、護りたい。力の無い者達を。虐げられても尚、生きたいと願う者達を。人間だけでなく、レプリロイドでさえも。……その力がある限り」
今こそ、その正義を貫きたい。いや、きっと貫いてみせる。これから先は。
“彼女”が理想を求めて、この世界に抗うように。自分もそんな茨の道に、足を踏み入れる覚悟を決めたのだ。
「…俺は……もう迷わん」
ランチャーを解放し、銃口をガラノフに向けて、声高らかに宣言する。
「ガラノフ!貴様らがこれまで行なってきた数々の蛮行は、同じネオ・アルカディアの同胞として赦し難き罪悪だ!故に、イレギュラーハンター第十七精鋭部隊長クラフトの名において、貴様らを粛清する!」
迷いを吹っ切った眼と声色に、ガラノフ達は驚き、戸惑う。この短時間に彼の中で何が起こったのかはわからない。ただ一つ、分かっているのは、ここにいる第二十三独立遊撃隊と、たった一人で一戦交えようと腹を括ったということだけだ。「テメエ本気か!」とガラノフは思わず叫ぶ。
「俺は前に進む。それだけだ」
クラフトは短く鋭い声で返すと、ランチャーの引き金を振り絞った。