18 [C]
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研究所から被験体が逃げ出したという話を聞いた。
彼の上司である人間の研究者が進めていた計画で、その逃げ出した被験者は、研究所内に多くの犠牲者を出しながらそのまま行方をくらませたそうだ。
あとに残ったのは死体や残骸の処理と、事件の責任追及であった。
大きな問題があった。それは、そのプロジェクトが外部に持ち出すことを堅く禁じられた極秘プロジェクトであったという事実だ。
その計画のコンセプトは“ネオ・アルカディアの守護者として相応の力量と高潔さを併せ持つ戦士の生産”という大層でありながら、大変内容が想像し難いものであった。その詳細は一切外部に公開されることはなく、その一部に携わった彼にさえも詳しい説明をされることはなかった。
その機密性――――場合によっては国家の威信に関わる問題への発展性を含むことから、責任は重大であり、ユグドラシルからの追放は間違いない。それどころかメガロポリス、果てはアースガルズに留まることすら赦されないだろう。
彼の上司は恐れた。戦略研究所でも一定の地位を築き、元老院議員として議会に招集される身分にまで登りつめたというのに。たかだか一つの失態で、その椅子どころか、これまで守り続けてきた財と地位の一切を失ってしまうかもしれない瀬戸際に立たされたのだ。留まるために、手を選ぶことは出来なかった。
『は…?』
最初に口を衝いて出たのは、間抜けのような、疑問符付きの一言だった。
その詳細を知らされてすらいないというのに、監督不行き届きの責任を着せられ、裁かれることになった。
状況が呑み込めないまま、事態は彼を置いて疾走する。
裁判が開かれ、彼の上司は弁護人として一言二言口添えをし、そのまま翌日には有罪が決まった。戦略研究所第四室主任職の剥奪とユグドラシル並びにアースガルズ区域からの全面追放。
事件から三日で、彼はそれまで積み上げてきた全てを失った。
ユグドラシルの聖殿、その廊下で救世主に訴えを叫び、少女と出会い、それから五年が過ぎた――――
気紛れからか、才能を認められたからか。彼は“おじいさま”の下に匿われてきた。
『ネオ・アルカディアと戦いましょう』
驚きを隠せない少女の瞳を真っ直ぐに見つめながら、彼はきっぱりとそう言い切った。
『今のネオ・アルカディアをこのままにしておく訳にはいきません』
レプリロイド達は今もなお、不当な罪で裁かれ、その命を脅かされ続けている。奴隷のような毎日に苦しむ者達がいる。
特に、ここ二年程の状況は百数十年の歴史の中でも群を抜いている。イレギュラー処分率は過去最高となり、レプリロイド達の待遇は悪化してゆく一方だ。
『でも……』
渋る彼女の手を取り、彼は言い聞かせる。
『シエルさん、私と共にネオ・アルカディアを出ましょう』
―――― 3 ――――
扉を開けて最初に目に入ったのは、モニターに大きく映しだされたあの男の顔だった。
「どうしたの、エルピス?」
部屋に入ったものの、扉の前でじっと立ったまま、ゼロの顔を睨みつけるエルピス。その雰囲気はいつもの気品ある様子とはだいぶ違っていた。
その威圧感と普段とは明らかに異質な感じに、ゼロは何か察したのか「また後でな」と通信を切った。
「……何か用事?」
シエルが問いかけても、答えてはくれない。憤りのような色を顔に浮かべたまま、エルピスはそこに立ち尽くしていた。
暫くの沈黙の後に、シエルは再度、「エルピス?」と名前を呼ぶ。
すると突然、エルピスは肩を怒らせる様にして、シエルの目と鼻の先まで近寄る。そして、後ろの卓に叩きつけるようにして片手を置いた。その迫力に、シエルは跳び上がりそうになった。
「エル……ピス…?」
次にその顔を見た時、エルピスの顔はどこか苦しんでいるように見えた。
「シエルさん……。あなたは……私が…」
「ぐっ」と奥歯を噛み締め、言葉を飲み込む。そして、吐き出すように問いただす。
「あなたには…私とあの男とどちらが大切なのですか!?」
「……え?」
唐突過ぎる問いに、思考が追いつかない。状況がつかめない。
だが、エルピスの言葉は更に続く。
「私は…必要ではありませんか!?あの男さえいれば…それですべて事足りますか!?」
猛烈な勢いで迫り、「答えてください」と問い詰めるエルピス。シエルが落ち着くよう宥める声も掻き消されてしまう。
そしてとうとうエルピスの勢いに押し負けたシエルは、バランスを崩して椅子から転げ落ちた。小さく「キャッ」と声を上げると、エルピスもそれでようやく我に返った。
「い…たぁ……」
「…………すいません」
それから自分のしてしまったことを思い返す。なんという醜態を晒してしまったのか。
どうしていいか分からず、エルピスはその場で右往左往する。そして、「失礼しました」と逃げるように背を向けた。
「待って!」
シエルの呼び声に、扉のロックを解除しようとしたエルピスの手が止まる。
「……ごめんなさい。手をとってくれる?」
座り込んだまま、シエルは片手を伸ばし、そう言った。
エルピスは何度か躊躇った後、シエルの方へと戻り、手を取る。そのまま引き上げ、立ち上がらせる。
「それでは」と再び立ち去ろうとする。しかし、シエルはその手を離さなかった。そしてまた、もう片方の手を被せた。
呆気にとられるエルピス。その手はいつかと同じように、温もりに包まれた。
「シエル……さん…?」
「覚えてる?ゼロが傷ついた時のこと」
数カ月前、まだゼロがこの基地を拠点としていた頃。旧黄金の鷲基地でアヌビステップ・ネクロマンセス率いる死屍軍団との戦いの中、瀕死の重傷を負い、文字通り、三日三晩目覚めなかった時のこと。
エルピスは「ハッ」と想い出す。そういえば、あの時も同じ問いをした。
『そんなにその男が大切ですか?』
気づけば、シエルは微笑を浮かべていた。エルピスの手を優しく撫でるように包みながら。
「大切だよ…ゼロも」
ポツリと呟くように答える。
「だけど、エルピスのことも大切。……ううん、アルエットもセルヴォもドワさんも、ルージュやジョーヌも…みんな、大切だよ」
あの日と、何ら変わることのない答え。だがあの日と違い、その頬に涙は流れていない。
「私にとっては、ここにいるみんなが大切で、みんなが必要なの」
その微笑みは、優しさと慈しみに溢れていた。
「だから…ね、エルピス。そんな事聞かないで」
「……シエルさん」
先程までの迫力は影を潜め、潮らしい表情を見せるエルピス。「大丈夫よ」と、シエルは笑ってみせた。
「他のみんなも必ず分かってくれるわ。エルピスが私達には必要なんだ…って」
ここ最近、エルピスについてとやかく言う者達が団内に増え、そのストレスが彼を追い詰めているのだろうと、シエルは悟っていた。
励ましの言葉を掛け、固く握手をする。
「お願い、エルピス。これからもあなたの力を貸して」
彼に期待を寄せる蒼い瞳に真っ直ぐ見つめられ、エルピスはただ「ありがとうございます」と小さな声で礼を述べた。
それから別れを告げ、シエルの部屋を出る。
自室へと向かう廊下を歩きながら、エルピスは尚もぐるぐると考え込んだ。
それは、既に知っている通りの答えだった。
彼女がそう答えることを――――ここにいる誰もを等しく大切に思っていることを、エルピスはよく理解していた。このように強引に問い詰める必要もないほどに、分かりきったことだった。
しかし残念ながら、その答えはエルピスが求めたものでは決して無かったのだ。
「シエルさん……あなたは………」
あの場で、決して言うまいと、無理やり飲み込んだ一言が喉元で燻っているのが分かる。
煮え切れないものを抱え、途中で零れてしまうことのないよう注意しながら、自室へと急ぎ足で戻った。