17 [D]
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喫茶店のテラス席に向い合って座る。するとディックは慣れた態度で、案内をしてくれた店員のレプリロイドにコーヒーを二杯頼んだ。
「よく来るの?」
「ええ、まあ……たまに」
ディックははにかみながら答える。
「第一部隊長代理でしょ?そんな暇有るの?」
「正直、ここ最近は出動が少ないんですよ」
闘将の謹慎処分からレジスタンスの動きには少しずつ変化が表れていた。
黒狼軍も、内部では以前程活発な動きを見せず、むしろ外の拠点などへの攻撃行動が増えている。
紅いイレギュラーの活躍が目立つため、これに便乗し、軍に対抗しようという動きが窺える。また、精鋭を欠いても尚強力なイレギュラーハンターとやり合うより、各地の軍事拠点への奇襲作戦の方がハードルが低いのも確かだった。
また、十七精鋭部隊に関しても、紅いイレギュラーとベルサルク本人の討伐が目的であるため、雑兵にまで目を向けていないという現状も関係していた。
「成程ね……」とネージュは納得の声を上げた。
会話がそこで一旦途切れる。
ディックがふと街の方を眺めたので、ネージュは店の中へ視線をやった。人間のカップルや夫婦、友達だけでなく、人間とレプリロイドが談笑している姿も見える。これこそニューオリンピアならではの光景だ。人間とレプリロイドが主従の隔たりに臆す事無く、生活のパートナーとして支え合う様子。――――それが二度と見れなくなると思うと、胸が苦しい。
「先日の記事、読みましたよ」
ディックに話しかけられ、ネージュは我に返る。
「先ほどの黄昏気味な様子は、それに関係するんじゃないかと思っているんですが…どうっすか?」
「……流石ね」
隠すような話でもない。ネージュは溜息混じりに説明を始めた。
これまで再三に渡り、政府から厳重注意を受けていたこと。それを聞き入れず、己の信念のまま記事を書き続けたこと。そして先日の記事が原因で公安委員会の目に止まり、「オリンポスプレス社退社命令」「ニューオリンピア及びアースガルズ全域からの強制退去命令」という重い処分が下されたこと。
可能な限り片方に偏ることのないよう気をつけながら、ネージュは関わる全ての事情を話した。
「成程…そいつは困りましたね」
数分前に店員が既に運んできていたコーヒーを、今になってようやく一口啜り、ディックは戸惑いと共にそう言った。
「……分かってるのよ、自分が悪いんだってことは」
突然という話ではない。忠告は受けてきた。
コリニーが、なんとかしてネージュを社に残そうと尽力してくれていたことも知っている。間に入り注意することで、ネージュと上が直接衝突しないよう取り計らってくれていたことでさえも。
しかし、そう言った諸々の事を無視して、ネージュは自身の理想を貫くために突っ走ってきた。速度が落ちることはあったが、歩みを止めることは一日足りともなかった。無論、方向を変えることも。それ故、このような事態を招いてしまったのだ。
そんなことは初めから分かりきっていた。
「けど…。ねえディック、一つ教えて頂戴」
改めて名を呼ばれ、ディックは真っ直ぐ自身を見つめる瞳と視線を重ねた。
そして、少しだけ躊躇いがちに、悔しそうに、ネージュは言葉を搾り出す。
「……私、間違ってないよね」
それだけが知りたかった。
「私……間違ったことしてないよね」
再度問い直す。
“自分はただ正しいことを伝えようと努めただけだ。事実を捻じ曲げ、都合の良いように社会を牛耳ろうとする輩の方が断じて許すことができないし、それを正しいと認めたくはない”――――そう信じて今までやってきただけだ。
それなのに、何故この世界はそれを赦してはくれないのか。正しいと信じた道を歩もうと努め、まして善人を貶めるつもりも無く、誰かを苦しめたわけでもなく……それどころか、力強く生きようとする者、己の使命に命を懸ける者、日々の生活を支えてくれる者達の事実をありのままに伝えようとしてきた。いや、実際に伝えてきた。
それの何が間違っているというのか。何故認められないのか。どうして「生き方を変えろ」と形のない刃を突き付けられるのか。
何故この世界は正義を否定しようとするのか。
ネージュはそれだけが知りたかった。
その問いに答える言葉を探しているのか、ディックはしばらく言葉を発さなかった。
彼の様子に、ネージュは「ごめんなさい」と口にした。
「イレギュラーハンターのあなたに答えられる話じゃなかったわね」
今やネージュは強制退去を命じられた危険人物だ。そんな彼女の言葉に、素直に頷いてしまえば、確かにディック自身の現在の立場も危うくなると考えて良かった。
それに苦笑しながら、ディックはようやく口を開いた。
「隊長、この前紅いイレギュラーと交戦したらしいです」
突然投げ込まれた話題に理解が追いつかず、ネージュは顔をキョトンとさせる。それから「隊長」が誰なのかを理解すると、驚きの声を上げる。
「嘘っ!ついに!?……どうなったの?」
興奮を自重しながら、恐る恐る結果を聞く。すると、ディックはまたも苦笑交じりに首を横に振った。
「いろいろと事態がイレギュラーで…取り逃がしたらしいです。――――本人曰く『反省が必要』だそうですよ。…あ、ここだけの話で」
『反省が必要』――――そう聞いた瞬間、ネージュはあの少々厳つい顔をした男が、眉尻を下げ、困ったように笑う様が思い浮かんだ。
「そっか……」と声を漏らし、背もたれに体を預ける。
如何な“救世主の後継者”と呼ばれる男でさえ、そう容易く紅いイレギュラーほどの相手を捉えることは出来なかったということだ。予想出来なかったわけではないが、期待していたのも事実で、少し残念な思いは拭い切れない。
「それどころか、今回は本当にいろいろ大変だったみたいで……」
ディックはボレアス山脈での一件を、クラフトから聞いた内、言える範囲を選んで話した。
ある実験に使われていたミュートスレプリロイドが紅いイレギュラーを庇うようにして楯突いたこと。そこでのやりとりの一部。部下の負傷。取り逃がした紅いイレギュラー。
ディックの話を静かに聞いた後、「なんだか、ちょっと心配ね」と苦い顔をしてネージュは言う。
「そうすね…まあ……なんだかんだであの人――――」
「ん~」と言おうか言うまいか迷った挙句、ネージュがその言葉を掠めとった。
「言い方悪いけど……ちょっと“ヘタレ”なとこあるわよね、彼」
「ええ、仰る通り」
“悩める男”などと言えば聞こえは良いが、実際のところ、彼は自分の信条に自信が持てず、正しいのかどうかを常に考え、己の道に迷い続けている。
きっと今回も、紅いイレギュラーに対する失態も勿論のことながら、ミュートスレプリロイドから言われた理想論に対し、否定しきれない想いを持ちながら、現実とのギャップに苦しんでいることだろう。
「それなのに、変な時だけ怖いもの知らずで意固地ですからね。“あの日”なんか典型ですよ」
二人からヘタレ等と称されてはいるが、“あの日”――――五年前の任命式の時は、来賓にネオ・アルカディアトップの錚々たる面子が揃っていたにも関わらず、それを放り出して事件解決に動いていた。
結果的に事件を食い止め、ネージュの記事により“新たな救世主”と盛り立てられたが故にその功績は認められたが、もししくじっていたなら……と思えばゾッとする。しかし、それでもクラフトに今、あの日のことを聞けば『無我夢中だった』としか答えなかった。
「そんなあの人が、戦場に行っても常に本国から取り寄せ続けたものが何だったかわかります?」
突然の問いに、ネージュは首を傾げた。
本国から取り寄せると言うのは、それ程簡単な話ではない。補給部隊は常にレジスタンスからの襲撃の危険に晒されるし、それを護衛するための兵たちの緊張度は正直なところ並大抵のものではない。前線程命の危険を感じる機会が少ないとは言え、皆無ではなかったし、気を抜いたときに奇襲を受けるというのはよくある話だ。
そのため、補給物資というのは必要最低限のものに絞られる。娯楽品の類も完全に無いわけではないが、ネオ・アルカディアにおいてレプリロイドの立場を考えれば、戦場でそんなものを手にすることこそ憚られることだったので殆どが軍事関係の備品だった。
そんな状況だから、クラフトがそうまでして前線でも手にしたいものが何なのか、見当がつかなかった。
だが、ディックは少しも勿体ぶること無く、さらりと答えた。
「新聞です。オリンポスプレス紙をきっちり一週間七日分を一部ずつ」
「は?」
呑み込めず、ネージュの目が点になる。
どうしてわざわざ新聞などを前線に取り寄せるのか。本国の情報なら管理局から一括でデータ送信されている筈だ。それなのに、どうして新聞などに手を伸ばす必要があるのか。
それから、オリンポスプレスの名前を確かめるように、ぼんやりと口にする。
「さっきまで自分が勤めていたところなのに忘れちゃったんですか?」と茶化すようにディックが笑ったので、その理由に思い当たった。
「……まさか、私が書いてるから…?」
「そのまさかですよ」
ディックはコーヒーを啜りながら答える。しかし、ネージュは尚も信じられないというような顔をしている。
「そんな……別に私の記事なんか、大したもんじゃないわよ。前線に行ってまで読みたくなるようなものは別に……」
「それでもあの人は読んでたんですよ。あなたの記事を。毎週ね」
クラフトは前線に行ってからも毎週欠かすこと無くオリンポスプレス紙を取り寄せ続け、ネージュの記事には必ず目を通していた。時には傍らに仕舞い、戦場に持ち携帯してゆくこともあった。暇があれば記事を読んでいた。勿論、その様子をディックは見たことがなく、聞いた話ではあるが。
「どうしてだと思います?」とディックにからかうような目で問われるが、それが分からないから戸惑っているのだ。コーヒーを二口、三口と口にするが、答えが見つからない。
仕方なしにディックが答えた。
「欲しいんですよ、支えが」
「え?」
「さっきも言ったでしょ、あの人は“ヘタレ”だって」
自身の正しさを信じられず、使命感のみで戦い続けている。しかしそれ故に、道に迷い、生まれる反省は尽きることがない。
精神的な面で、折れそうになることもしばしばだ。抱きたい理想と、直面している現実との間に挟まれた時は特に。しかし、そんな時こそ、彼はネージュの記事に目を通した。
「あなたの記事は、あの人にとっての“支え”であり、“道標”だったんですよ。自分を肯定してくれる、正しいことを正しいと認めてくれる、そういう…ね」
ネージュという一人の人間が叫ぶ正義が、自分を肯定してくれていることを感じた。自分の取り組みを応援し、背中を押してくれる――――そんな支えに感じていた。他の誰でもない、人間であるネージュだからこそ、そう思えた。
だから前線でも、一部は必ず肌身離さず懐に入れていた。折れそうになった時、正しさを見失いそうになった時、ネージュのことを思い出した。
ネージュの言葉によって、クラフトは赦され、認められてきたのだ。だから、第十七精鋭部隊という重い任を請け負っても尚、ここまでやってこれたのだ。
そんなディックの話が信じられず、ネージュは尚も自身の耳を疑う。
だが、不意に思い出す。十七精鋭部隊長としての任命が決まった時の取材での時、彼が一言だけ零した言葉。
『……君は、強いな』
あの時の困ったような笑みは、自身の弱さを認めたからこそ滲み出てきたものだったのだろう。
「ネージュさん、お願いします」
ディックはそう言って、いつになく真剣な表情でネージュを見つめた。
「書き続けてください。何処に行っても…続けてください、ジャーナリスト」
「え?」
それは思いも寄らない頼みだった。ディックは少し恥ずかしそうに頬を掻く。
「なんだかんだで俺ら、あの人のこと好きなんすよ。だから、力になれるなら……なってやりたいんです」
遠く離れてしまったが、何か力になれることがあるならばそれをしてあげたい。
ネージュの書く言葉が、信じる正義が支えとなるならば、どうかそれを絶やさないで欲しいと頼むしか無い。
「きっとこれからもっと、想像以上に厳しいでしょうけど……そのまま変わらずに、ネージュさんはネージュさんのまま、その信念のまま書き続けて欲しいんです」
「ディック……」
ネージュのためではない。無論、クラフトのためだ。
けれど彼の願いは、ネージュにとって天啓に等しかった。
思わず微笑み、言葉を返す。
「大丈夫よ、ディック。私は書くわ」
いや、きっと書かずにはいられないだろう。ジャーナリズムに懸けた信念がこの胸の中に燻り続ける限り、書くことは絶対にやめられない。
「正直、これからどうなるかは分からないわ。だけど……うん………書いてみせる」
何より、こうして自分の信じた正義を信頼し、支えとしてくれる者がいるのだと分かった今、彼女もまた心強く感じられた。
だから、きっとこれから降りかかるであろう困難の中でも、筆をとり続けられるに違いない。そう確信できた。
「ありがとうございます、ネージュさん」
礼を言うディックに、ネージュは首を横に振る。「お礼を言うのはこっちの方よ」とはにかんで見せた。
それから他愛の無い世間話をして、二人は別れた。
ディックはこれから基地に戻り書類整理をしなければならないらしい。
ネージュもまた、自宅の整理をしに帰ることにした。出ていくならば早い方がいい。急かされた方が気分は悪い。
――――懐かしのスラム暮らしね
そう思い、空を見上げた。
再び思い出される過去。母と二人、最低限の生活保障を受けながら、貧しく暮らした毎日のこと。二人を捨てた父親への恨みつらみを抱えて生きていた日々のこと。
しかし、今は違う。
もうネージュは成人し、一人の人間として自分の道を歩んでいる。――――そして何より、それを肯定してくれる人達がいる。
こんなに心強いことはない。
不意に彼のことを思い出す。そして、遠くに流れてゆく白い雲を見つめた。
――――クラフト……
きっと彼は今も、この世界のどこかで理想と現実の狭間で、もがき、闘い続けているのだろう。
そう思えば、心の底から闘志にも似た感情が自然と湧き上がってきた。
澄み渡る広い空の下、ネージュは軽い足取りで自宅へと向かって歩き始めていた。