17 [B]
―――― * * * ――――
「停めてちょうだい」
可憐な声にそう告げられ、絢爛な屋敷の前に並ぶ車の列の最後尾に、一台の白い高級車が停車する。
しかし既に十数台が並んでおり、ここからあの大きな入口の前までは幾らか距離がある。
心配した老運転手は「よろしいのですか」と彼女に声をかける。だが、彼女は朗らかな笑みを見せながら「大丈夫よ」と答え、いつも運転手に開けてもらっていたドアを自分の手で開け、そのままドレスのスカートを少しだけ持ち上げて走っていった。
その様子を危なっかしく思い、慌てて運転手は降りる。
「そんな格好で走っては危険ですぞ!イーリス様!」
彼女――――イーリスの名前を、張り上げるようにして呼ぶが、イーリスは「聞く耳持たず」という感じで、重いドレスのまま走ってゆく。
無理もない。今日は彼女にとっても特別な日であるのだから。
しかし不意に、バランスを崩し「キャッ」と声を上げ躓く。調子に乗って、いつもより少し高めのヒールを履いたのが災いした。そのまま地面へと倒れ込みそうになる。
その身体を咄嗟であるが、あくまでも冷静に受け止める一人のレプリロイド。イーリスは顔を上げて、相手の顔を見る。
「アレクサンダ!」
アレクサンダ――――そう呼ばれた、白銀の髪に、中性的な顔をしたレプリロイドはイーリスの身体をそのまま両手で抱えて歩き始める。「大丈夫だから、下ろして」とイーリスは顔を赤らめて喚くが、アレクサンダは表情を変えぬまま首を横に振る。
「いけません、イーリス様。先程のような様子では、とてもではありませんが放っていられません」
その声もまた、性別が分からぬような極中性的ものであった。あまり彼と交流を持たぬ者であったなら、違和感を感じたかもしれない。しかし、幼い頃より十数年共に過ごしてきたイーリスは少しも気にすること無く、ただ不満そうに頬を膨らませる。
「それに、例えメガロポリス内といえど、どこにイレギュラーが潜伏し、貴方様の命を狙っているか分かったものではありません」
そう、ここはネオ・アルカディアの国家首都であり中枢、メガロポリス。一流の特権階級のみが暮らすことを許された、人類ならば誰もが憧れる夢の街。セキュリティレベルも並大抵の高さではなく、ここに侵入できるようなレジスタンスは正直考えられない。だが、それも以前までの話だ。
昨今では紅いイレギュラーや黒狼軍首領エボニー・ベルサルクなど、Sランク判定を受けるようなイレギュラーが出現してきたのも事実であり、例えメガロポリス内であっても、油断は禁物である。
しかし、「大丈夫よ」とイーリスはアレクサンダの腕の中で微笑む。
「私とお兄様には、あなたがいるもの。アレクサンダという最強の騎士が…ね。――――でしょ?」
悪戯っぽく笑ってみせたイーリスに、アレクサンダは呆れたように苦笑する。
その背中を、老運転手は微笑ましく見送った。
―――― 2 ――――
会場内は穏やかではあるが確かな盛り上がりを見せていた。いくつものテーブルの上に、豪華な料理が並び、アルコール類からお茶類まで様々な飲み物が揃えられている。
今日の主賓であるレオニード卿を囲み、元老院議員、各界の重鎮、そしてその家族などがパーティーを楽しんでいた。
「誕生日おめでとう、レオニードくん」
白髪の老人がグラスを向け、レオニードに語りかける。レオニードは獅子の鬣のようなウェーブかかった金色の長髪を揺らし、微笑みを浮かべて振り返る。
「これはこれは……ドナート卿。今日はいらして頂き、誠にありがとうございます」
「何を言うかね、レオニードくん。感謝するのは私の方だよ。こんな素敵なパーティーに招いてもらったのだからね」
そう言って、老人――――ドナートは快活に笑う。
「しかし……まさか君に抜かれてしまうとはね。元老院議長の座を。次は私かアーブラハムのハゲオヤジかと思っていたんだが」
ドナートの嫌味っぽい視線に、レオニードは苦笑する。
大学講師時代から師としてきたドナートとは良い信頼関係を築いてきた。だが、今回の元老院議長補充の件については、彼の先を行ってしまい、そのことについて言われては返す言葉がうまく見つからない。
そもそもドナート卿は候補にすら上がっておらず、そのことを自虐的に皮肉る程だから、本人も相当気にしているのだろう。
「いえ…まだそうと決まったわけではありませんので」
苦笑いを続け、渋々そう返すレオニードに、ドナートは「ハハハ、ジョークだよ」と笑って肩を叩く。
「しかし、そう謙遜する必要はない。見給え会場内を。これだけの人間が何故集まったのか……分からないわけではないだろう?」
有名所の元老院議員が十数人に、その関係者、各市長、管理局長など、政界に携わる者、レオニードと関係のあった大学関係者達だけでなく、オリンポスプレスなどのメディア各社、不動産建設関係、金融関係から、果ては食品関係と言った各業界の社長、重鎮が揃って出席している。
たかが一人の元老院議員の誕生パーティーだからと言ってこれだけの人間が一堂に会する事などあり得ない話であったし、中にはレオニードとは一度も面識のない人間すらいるのだ。それは、彼が単に民衆から支持を集める若手元老院議員だからという理由だけではない。
「皆、新たな元老院議長に取り入って甘い汁を吸いたいと思っているのだ。――――人間とはかくも欲深き生き物よ」
あのバイル卿の擁立ということで、誰の目から見ても、当選は既に確実。そんな彼が誕生日を祝うパーティーを催すというならば、それに駆けつけ、取り入るのに理由はいらないというわけだ。
かつての友人も含め誰もが、レオニードが手にするであろう、元老院議長の特権の恩恵をあずかりたいと思いここへ足を運んできている。元老院議長とはそう言う立場なのだ。
「気をつけたまえ。これから君を利用しようとする者、敵となる者が今まで以上に増える。敵味方の判断は細心の注意を払い給え。それが例え、“かつての師”であってもな」
そう鋭い目つきで忠告するドナート。少しだけ考えた後、レオニードは問い返す。
「忠告、痛み入ります。――――それではお聞きします。ドナート卿は私の敵でしょうか?味方でしょうか?」
予想外の質問にドナートは、しばらく眼を点にして硬直した後、幾度か瞬きをする。
それから、快活な笑い声を上げると、またしてもレオニードの肩を叩いた。かと思えば、口に笑みを浮かべながらも、鋭い目付きでレオニードを見つめる。
「なに……それは自分で見極め給え。ただひとつ言えるのは、この後先短い老いぼれにとって、その座は“長年片思いを続けた憧れのマドンナも同然だ”ということだ」
「それは………丁重に扱わねばなりませんな」
ドナートはもう一度笑いながら肩を軽く叩くと、「それではまた」と他の出席者に挨拶へと向かった。
その直ぐ後、会場の扉が勢い良く内側へと開かれる。そして、「お兄さま」と声を上げ、栗色の髪をした可愛らしい少女が駆け寄ってくる。そして、飛び込むように抱きついてきた。
「お兄様、お誕生日おめでとうございます!」
「やあ、イーリス。今日も元気で何よりだ」
レオニードは駆け寄ってきたイーリスの頭を優しく撫でる。それから「けれどね」と言葉を続ける。
「君ほどの有名人が、周囲の目も気にせずこのような姿を晒してはいけないよ。周りをご覧」
イーリスは「ハッ」として周囲を見渡した。気づけば、突然のことに周囲は言葉を失い、こちらを呆然と見つめていた。
それからイーリスの頬が、紅潮してゆく。
「やだ……私ったら……」
そう言って、レオニードから慌てたようにして離れる。
その光景を見て、思わずどこからか吹き出すような音が聞こえる。それが伝染するようにして、場内は一気に笑いに包まれた。イーリスの顔は恥ずかしさのあまり更に真っ赤に染まり、仕舞いには顔を覆い隠してしまった。そんな彼女を眺めながら、レオニードも嬉しそうに笑う。
「お兄様まで……笑わないでください!」
赤い顔のまま頬を膨らませ、イーリスは不満気に言う。「分かった分かった」と繰り返しながら、レオニードは尚も笑いながら、イーリスの頭を撫でた。
元老院議長候補レオニードと“虹の歌姫”イーリス。ネオ・アルカディア内でもこれほど名の知れ渡った兄妹はいないだろう。
二人共類まれなる才能を持ち合わせながら、レオニードは女性だけでなく男性すら虜にすると噂される程の整った顔立ち、イーリスは虹のような歌声と花のように可愛らしい容貌まで兼ね備えており、多くの民衆から憧れの兄妹とされていた。
彼ら美男美女のあまりの仲睦まじさに、二人の出自のせいも相まって、怪しい噂が流れてしまうこともしばしばあった。
そんな二人のもとに、体格のいい色黒の男が近づく。
「虹の歌姫といえど、お転婆お姫様は今も健在ということかな」
「あら、エッカルト様。お久しぶりです」
「エッカルト」とレオニードも嬉しそうに彼の名を呼ぶ。色黒の男――――エッカルトは「久しぶりですな、レオニード卿」と言葉を返す。
「いや、レオニード元老院議長殿と呼ぶべきか?」
「君までやめてくれ。昔どおり『レオ』と呼んでほしい」
苦笑しながらそう言うと、エッカルトは笑って「りょーかい」とおどけたように返した。
エッカルトは空のグラスをイーリスに差し出す。それからワインを注ごうとすると、イーリスはそれを片手で制した。
「おや、酒は早かったかな?」
「いえ…そういう訳ではないのですが……」
もじもじと口篭るイーリスに、エッカルトは首を傾げる。レオニードも「別に飲んでも構わんが」と不思議がる。
レオニード、そして前の壇上にチラチラと視線を送るイーリスの様子に気がついたエッカルトは、一度グラスをテーブルに置き、「ちょっと待ってろ」とどこかへ歩いて行ってしまった。それから少しして、何かを注いだティーカップを手にして戻ってくる。そしてそのカップをイーリスに手渡した。
「ハーブティーだ。これならいいだろう?」
「エッカルト様!ありがとうございます!」
イーリスはお礼を言うと、嬉しそうにカップに飛びつく。そして、自分が思うより少しだけ熱いことを確認すると、小さい口を尖らせ「フゥー」と息を吹きかける。
その様子が子リスのように可愛らしく、思わず見とれてしまう者が何人かいた。しかしレオニードは尚も首を傾げるだけだった。
「それにしてもレオが元老院議長か……。どんどん遠くに行っちまうなぁ」
エッカルトは少しだけ寂しそうに目を細める。
レオニードとエッカルトは大学時代の友人であった。学業もサークル活動も協力しあい、時には争い、時には無茶もして、互いに高めあってきた親友である。
しかし、レオニードは首を横に振る。
「そんなことはない、エッカルト。私はいつまでも私だ。故に、私たちはいつまでも良き友だよ。君が拒まぬ限りは…ね」
「誰が拒むもんかよ。そう言ってくれると嬉しいぜ、レオ。そんな親友が元老院議長だってんなら、俺も鼻が高いってもんさ」
そう言って元気よく笑う。
それから二人でしばらく談笑を交わす。かつての他愛のない思い出や、失敗話、最近の情勢や互いの近況についての話に花が咲いた。
その途中、不意にレオニードがキョロキョロと周りを見回し始める。
「どうした?」
「いや…イーリスがいない」
妹がいないことに気づき、周囲を探す。エッカルトも場内を見渡す。しかし、どれだけ探しても、あの可愛らしい人形のような少女の姿は見当たらなかった。
「手洗いにでも行ったのだろう」とレオニードが見当をつけ、探すのを諦める。そこで急にエッカルトが肩を叩いた。それから彼が「見ろ」と指を差した方へ視線を遣る。すると、その先――――壇上にイーリスが立っていた。
「皆様!今日は私の兄、レオニードの誕生パーティーにお越しいただき誠にありがとうございます!」
マイクを手にそう言うと、一礼する。可愛らしい歌姫の挨拶を、場内は拍手で迎える。
「僭越ながら、妹である私イーリスから、敬愛するお兄様と、会場の皆様へのプレゼントとして一曲差し上げたいと思います。――――それではお聴きください」
そう言って、再び丁寧に一礼すると、またしても場内から拍手が送られる。それが静まり始めたのを見計らって、待機していたピアニストに目配せする。
切ない旋律が場内に奏でられ始める。そして、イーリスが歌い出す。
その可愛らしい歌声は、場内全てを包み込むように響き渡る。優しく、温かい歌だった。
気づけばそこにいた全ての人の視線が彼女に釘付けとなった。華奢な体から発せられる、切なくも力強い魂を感じられる歌声。誰もがその虜となっていた。
感情を揺さぶるような一分程の演奏が終わる。
場内が沈黙に包まれる中、イーリスが「ご清聴ありがとうございました」と最後にまた丁寧に頭を下げる。だが、反応がない。
不安になって前を見ると、誰もがこちらを見つめたまま硬直していたのが分かった。「何かまた粗相をしてしまったのでは」と思い、イーリスは内心で焦り始める。
突然、一人が拍手を始める。レオニードだった。優しい微笑みを浮かべながら、手を叩いた。
それから次々と、拍手が上がる。そして、ついに場内は歓声に包まれた。イーリスの歌声に、途切れること無く賛辞が送られる。
その歓声に答え、イーリスはもう一度丁寧にお辞儀を返した。
―――― * * * ――――
扉の外にまで聞こえる歓声。アレクサンダはその声から、イーリスの企画が成功したことを確認した。
数週前から、「プレゼントは何がいいかしら」と相談を受け続け、最終的に「最も気持ちを込められる物を用意できたなら、それが一番では」と進言していたのだ。
自身も、今なお続く歓声に、安堵の溜息を吐いた。
「あら…番犬はやはり外で待たされてるのね」
挑発的な声に反応し、アレクサンダはそちらへと向く。
そこには少女が立っていた。腰まで伸びた金茶色の髪に、翡翠色の瞳。蒼いドレスワンピースを着ている。
「……あなたでしたか」
アレクサンダも彼女についてはよく見知っていた。
「フフ……。中はとても楽しそうね」
彼女はそう言って扉を見つめる。その怪しい雰囲気に、アレクサンダは咄嗟に身構えた。しかし、その様子を見て彼女は「クスクス」と小さく笑う。
「大丈夫。私は招待されていないし、ここに立ち入るつもりもないわ」
「ならば何故ここへ?」
尚もあからさまに警戒し続けるアレクサンダ。だが、彼女は相変わらず小馬鹿にしたような嘲笑を浮かべたままだ。
「少し様子を見に来ただけ。いつまでも籠の中では退屈してしまうもの。――――あなたなら分かるでしょう?」
「退屈などと……そんな理由であなたに出歩かれては困る。そもそもそんな格好で『様子見』等と言われて納得ができるとお思いか」
「もしもの時の為よ。普段着で十六のか弱い乙女がこんな所を歩いていたら、余計怪しまれるでしょ?」
彼女の、どこまでが本気なのか分からないこうした態度が、アレクサンダは正直なところ苦手だった。
思わず口端を歪めると、彼女は笑みを浮かべたまま近づき、扉に触れる。だが、先程も言ったように中に入るような様子は見せなかった。
「“おじいさま”はいらっしゃっているのかしら?」
不意に、彼女が問いかける。その声は珍しく、人並みの感情が込められているような気がした。
「いえ、今日は……。ですが、我が主は“近い内に対面の機会を設ける”と仰っておりました」
「そう、ザンネン。なら、もうしばらく“籠の中”で待たせてもらうわ」
そう言って扉から手を離すと、クルリと小さく振り返り、廊下を戻ろうとする。
「私は未だにあなたを信用しておりません」
堪え切れず、アレクサンダは後ろからそう声をかける。
彼女の足がピタリと止まる。
「あなたの抱えた闇の深淵が、私には未だ見ることができない。しかし我が主は、それでもあなたを迎え入れた。――――私にはそれが危険なことに思えてならない」
すると、彼女はまたもクルリと軽快に振り返る。その表情は相変わらずの笑顔のままだった。
「私はただ壊れる様を見たいだけ。あの男がそれを見せてくれるというのなら、私はそれを静かに楽しませてもらうまでよ」
彼女は無邪気な顔で、そう軽く言い放つ。
しかし、その眼が決して冗談ではないと物語っているのを、アレクサンダは見逃さなかった。
「例えば、そうね――――」と彼女はさらに言葉を続ける。殊更悪戯めいた笑みを浮かべて。
「あんな聞き苦しい歌が二度と聞こえなくなるような世界になってくれたなら、私は満足よ」
それは彼女なりの、世界に向けた呪いの言葉だった。