11th STAGE [A]
―――― 1 ――――
ミズガルズ――――ネオ・アルカディアの外周都市群の総称である。
そこに住むのは中心であるアースガルズの住民より比較的貧しい暮らしを強いられた貧困層である。最低限の生活保障は国家が約束し、実現してはいるが、職につけない者もいれば、提供される治療技術等の制限もあり、裕福なアースガルズよりも荒れた町ばかりとなっているのは明らかだ。
そして、ミズガルズの一画――――最も荒れた名もないスラム街に、その少年レプリロイドは細々と暮らしていた。
生活が荒めば心も荒む――――このスラム街と、ネオ・アルカディア首都メガロポリスやアースガルズ第二エリア中心都市ニューオリンピア等の様子を比較すれば、それは一目瞭然である。そして荒んだ心の遣りどころは、余すことなくレプリロイドへと注がれる。
少年は酷く疼く左脇腹の辺りをさする。ある家に忍び込み、レプリロイド用の加工食品を盗みだそうとしたのだが、家を出ようというその一歩手前で見つかってしまった。そして暴力を振るわれ、身体中が傷だらけになった。最も強い蹴りを入れられた左脇腹を抑えながら、なんとか逃げ延びることができた。
「ちくしょう……アイツら許さねえ……」
少年に暴力を奮ったのは、その人間に飼われていたレプリロイドたちだった。皆、人間の怒りやイレギュラー処分を恐れ、飼い主の言い成りになっているのだ。
「……意気地なし共……」
そう悪態をつく。少年は飼い主に反逆し、そのままこのスラム街に逃げ込み、なんとか生き延びていた。
あの日のことはまだ覚えている。ぶよぶよと太った醜い飼い主の男が油まみれの汚い顔を近づけ、少年の口に無理やり舌を押し込もうとしてきたのを、逆にその舌を噛みちぎってやったのだ。口いっぱいに広がる鉄の味に躊躇うこと無く、とっさに口を覆った男の腹に一発蹴りを入れ、そのまま逃げた。男の嗜好を凝らしたシチュエーションのおかげで、その部屋には自分と男以外に誰もいなかったことが幸いして、無事に逃げられたのだ。
「レプリロイドが……人間に怯えてどうすんだよ……」
実際的な能力ではレプリロイドの方が明らかに人間を上回っている。だというのに何故、他のレプリロイドたちは奴隷のような扱いを受け入れ、逆らわずにいるのだろうか。勿論、イレギュラー処分や処刑など、恐るべきものは他にもある。しかし、レプリロイド達が団結して立ち向かえば、この逆境を跳ね除けることも難しくないはずだ。
そんなことを思いながらも、現在の状況を振り返り、自嘲が漏れる。結局自分も人間に怯え、身を隠すようにこのスラム街で暮らしているのだ。他の者達をどうこう言う資格などなかった。
路地に入り込み、壁伝いに歩く。よろけた拍子に、傍にあった木材に躓く。すると積んであった木材はガランと大きな音を立てて転がってしまった。
「やべっ!」
思わず声に出す。人間に聞こえてしまうかもしれない。
すると、「だれかいるの?」という幼い少女の声が、寄りかかった壁の上方にある小窓から聞こえてくる。
少年は高鳴る心臓部のあたりを抑え、息を潜める。しかし、ふと気になって上方に目を遣ると、窓から顔を出した少女と目があってしまう。
しかし、少年は安堵した。その少女もまた、人間に飼われたレプリロイドだった。飼い主の趣味と思われる首輪がそれを如実に物語っている。
「だいじょうぶ?」
じっと見つめる青い瞳。サラリと流れた栗色の髪。少年の目に、それは強く焼き付いた。気づけば体温は上昇し、頬が紅潮していた。
「けがしてるの?……まってて」
少年の傷を見ると、少女はそう言って窓の中へと顔を引っ込める。少年が言われるまま待っていると、少女は再び顔を出し、プラスチックの小さなケースを渡す。
「ぬるといいよ」
それは、レプリロイドの自己修復機能を補助する修復用ナノマシンを含んだクリームだった。言わば、レプリロイドの傷薬である。
少年は少しだけ躊躇ったが、身体中の傷にそれを塗りたくった。クリームを返そうと、もう一度見上げると、少女の顔は既にそこには見えなかった。中から、先ほどの少女とは違う男の声が聞こえたので、少年はそのままそこから立ち去った。
ようやく隠れ家に到着し、腰を落ち着けた少年の胸には少女への感謝の気持ちと、同時に憐れみの気持ちが湧いていた。
――――いい子なのにな……
瞳の奥にある空虚。まるでかつての自分を見るようだった。
少年、少女型レプリロイドの存在意義は大きく二つの側面に分けられる。人間の親が、子どもの遊び相手として飼う等といった側面。もう一つは、人間の性欲の捌け口としての側面。後者の需要はミズガルズ――――特にこのスラム街においては非常に大きい。人間よりも遥かに丈夫なことから、酷く乱暴に扱われることが多く、精神プログラムがそれを受容しきれず閉鎖、崩壊してしまう事も決して少なくない。『生活が荒めば心も荒む』――――まさにその象徴でもあった。
「………俺には……関係ねえよ」
自分に言い聞かせるように呟いてから、疲れ果てた体を横にして、瞼を閉じる。
そう、“関係ない”。自分が生きるだけでも精一杯なのだ。だからあの少女のことを憐れむ気持ちは、どうにもできやしない。どんなに少女の顔を思い返しても、その声と瞳を思い出しても、全て何の意味もなさない。
それでも胸の奥に燻り続ける気持ちが、彼を眠りに就かせてはくれなかった。
翌晩、傷が癒えたのを確認し、外へ出た。あの少女に会いたい気持ちが確かにあった。
――――傷薬を返すだけだ……
決して他意あってのことではない。用事があるから会いに行くだけだと、自分に言い聞かせる。
しばらく歩き、あの路地へと入る。そして少年は、昨日、少女が顔を出したあの小窓から中を覗いた。
しかし視界に飛び込んできた、世にもおぞましい光景に少年は絶句した。
五、六人程の人間の大人達が、たった一人の少女に欲望のまま乱暴を働いていた。少女は衣一つ着せられず、轡を噛まされ叫ぶことも許されず、ただ身体を揺らされている。人間の汚らしい体液が彼女を汚し、少女もまた擬似体液を虚しく垂れ流し、只管にその身体を弄ばれていた。――――そして、その少女こそ昨日出会った彼女だった。
しばらく思考が追いつかなかった。ようやく状況を理解すると、ぐるぐると何かドス黒いものが少年の中で渦巻き始めるのを感じた。そして快楽に浸る人間たちに囲まれる中、少女の瞳が絶望の色に包まれているのを確認した瞬間、何かが大きな音を立てて切れた。
気づけば少年は足元の木材を手に、壮絶な勢いで家の中へ押し入っていた。
その後はよく覚えていない。とにかく何か叫びながら木材を振り回し、その場にいる人間達を殴り飛ばした。そして少女の腕を掴み、脇目もふらずにスラム街を駆け回った。そして何処をどう通ったのか、それすらも分からないまま、自分の隠れ家に命からがら辿り着いた。
息を落ち着かせてから、少年はその辺にあった布で少女の体を綺麗に拭いた。そして、人間から盗んだ服を渡して着るように言った。少女はそれに黙って従い、服を着た。
それから訪れる沈黙。何から話せばいいのか分からなかった。そもそも、あんなことをしてしまって良かったのか。自分たちの状況を更に悪くしてしまっただけではないのかと、少年は思い始め、恐怖を感じ始めた。
そして、その沈黙はようやく破られる。少女のか細く、そして愛おしい声で。
「わたしは…セラ。……あなたは…?」
「……アーク」
少年は問われるまま名乗った。すると少女――――セラは「アーク」と彼の名を確かめるように呼ぶ。
「アーク……。ありがとう」
初めて見せるセラの微笑に、少年――――アークはいつかのように、頬が紅潮してゆくのを感じた。
それから二人の生活が始まった。
人間の家から物を盗んではその身を隠し、隠れ家でその日の収穫に二人で一喜一憂した。一緒に空を眺めたり、星を見たり、二人で散歩に出かけることもあった。
決して楽ではなかった。けれど、幸せだった。そんなささやかな生活が二人を包み続けた。優しい時間はみるみるうちに流れていった。
ある夜。隠れ家の屋根から星を眺めながら、アークは言った。
「ネオ・アルカディアを出よう」
突然の提案だった。
「……どこかいくあては…あるの?」
不安そうに言うセラに、アークは少し自信なさ気に、正直に答える。
「無い…。けど……外にはたくさんのレジスタンス組織があるって言うし……。それに、外に出ようっていうヤツらが結構集まってるって話もよく聞くし……」
恥ずかしげに答えるアークに、セラは思わず微笑む。そして、「いいよ」とあっさり同意した。
「アークがいっしょなら、わたしはどこでもいくよ」
見つめる瞳にはアークへの信頼が確かに強く輝いていた。あの時アークが助けてくれたから、今までもアークがいたから、だから自分はここまでこれたのだ。
そんなセラに、アークは固く約束する。
「…何処に行っても、どんな時でも……俺は絶対セラを護るよ」
その声は、揺るぎ無い意志が確かに感じられた。
「何が起きたって、俺はセラを助ける。絶対にセラだけは護り抜く――――」
「たとえこの命に代えても」と言いかけたところで、セラは人差し指をアークの口に当て「それ以上はだめ」と遮る。
「ふたりで生きぬくんだよ、アーク。ずっといっしょに、生きていこうよ」
自分よりも幼い少女が、その小さな口から発する力強い言葉に、アークは一瞬呆気に取られ、それから強く頷いた。
小さな胸に熱いものが込み上げてくるのを感じたあの夜の誓いを、生涯忘れはしないだろう。
11th STAGE
救い