20 [B]
―――― * * * ――――
彼の鼻筋が好き。
耳の形が好き。
目元が好き。
『……レベッカ』
“私”の名を呼ぶ、彼の声が好き。
『レベッカ?』
オルジフは、口にコーヒーカップを運ぼうとした手を止め、テーブルの向かい側で暫くぼーっと見つめる“私”に問いかける。
“私”は「はっ」と我に返って、咄嗟に笑い返した。
『どうしたんだい、急に?』
『いえ…なんでもないわ。気にしないで』
不思議そうな顔をしたまま、彼は一口コーヒーを啜る。
その様子を眺めながら、“私”がまた微笑むと、彼は困ったように顔をしかめた。
『僕の顔になにか付いているのかい?』
『だから、なんでもないってば。…フフ』
『……なら、どうして笑うんだ?』
少しだけ『ムッ』としたように彼は言う。
自分の分からないことがあれば直ぐに不機嫌そうな顔をして、疑問が解消されるまで諦めない頑固者。
その表情も、めんどくさい性分も――――“私”は全て好き。
“私”は少し勿体ぶると、彼があまりにも問い詰めるものだから、『分かった。分かった』と答えてあげる事にした。
彼の瞳をじっと見つめて。
『あなたが、そこにいてくれるからよ』
そう言って返すと、キョトンとした後、彼は年甲斐もなく顔を赤らめて手にしていた新聞に視線を戻した。
“私”はその様子を見て、また笑った。すると、今度は彼も笑い出した。
……ええ、間違いないわ。
恥ずかしがりなところも。その笑顔も。共にいる時間も。
“私”は、彼の全てが好き。
ある日の朝方。
頬杖を突いて自分の青い髪を弄りながら、“私”はそんなことを考えていた。
―――― 2 ――――
「彼は元々免疫機能が弱くてね。昔ならともかく、今の技術ではそれほど悪くならずに済んでいたのだけど」
懐かしむように、遠くを見つめながら、レヴィアタンは語りを続ける。
「……レベッカが死んでから…彼は治療を受けなくなった。そして、どんどん衰弱していったわ」
ゼロは黙って彼女の言葉を聞き続けた。彼女が向けた視線の先を、自分も見つめながら。
「それでも彼は、いつも私に笑いかけてくれた。私も彼を見つめて笑った。手をとりあって外を歩いたり、食事をしたり、眠ったり……。そんな普通の毎日を、時間がある限り楽しんだわ」
四軍団の編成が始まった頃、前線に出ることは殆ど無く、レヴィアタンは時間を比較的自由に扱うことができた。
言葉通り、空いた時間は全てオルジフと過ごすために使い続けた。特に何かやることがあるわけでもなかったので、当然と言えば当然なのだが。
「けれどある日……私は違和感を感じたの」
オルジフは時折、懐かしむように写真を眺めていた。“レベッカ”と共に撮った写真を。何度かその光景を目にした時、ふと感じることがあった。
「必死で考えないようにしたわ。けれど……できなかった」
亀裂の入った心に、その違和感はじわじわと染みこんで行き、ついには拭い去れぬものとなってしまった。
ある日の夜、彼女は問いかけた。「決して口にしてはならない」と心の中で流れる警報に耳を塞ぎながら。
―――― * * * ――――
『ねえ、オルジフ』
薄明かりの中、ベッドの上で横になる彼。“私”は傍に座って、呼びかける。
彼は『ん?』と視線を向けてくれる。
“私”は彼の瞳を見て躊躇った。どう問いかければいいものか。どう言葉にすればいいものか。彼を困らせはしないものか。
そして、しばらく考えた後、“私”は意を決してそれを言葉にした。
『“私”は……誰なの…?』
瞬間、時間が止まったように感じた。
口を開け、“私”を見つめたまま、彼は黙り込んだ。“私”もまた、黙り込んだ。
その言葉が、正しい表現だったかは、正直分からない。けれど率直に出た、その言葉こそが真実の問いに違いない。だから、“私”は言い直さず、彼の答えを待った。
暫くして、彼は微笑みながら答えた。
『君は“君”だ』
それから、彼は直ぐに眠りについた。
“私”は言葉の意味を考えながら、彼の寝顔を見つめた。
誤魔化したのかもしれない。はぐらかしたのかもしれない。――――そう思っても、それ以上“私”は踏み込めなかった。
何故なら、彼を愛していたから。
この時間を、二人でいる温かい時間を壊したくなかったから。
けれど、黒い靄のような不審感は少しずつ“私”の心を包んでいった。
それから、彼が永遠の眠りに就くまで、“私”は募る不審感をひた隠しながら、共に暮らし続けた。共に笑い続けた。
けれど、次第に『レベッカ』と呼ぶ彼の声は、“私”の心を絞めつけるようになった。
『何かが違う』――――そう感じるようになってしまった。その名前に、呼ぶ声に、違和感を感じるようになっていた。
名前なんてものは只の記号。そう思って、気にしないようにした。“レヴィアタン”でも“妖将”でも“レベッカ”でも、“私”は“私”なのだから。
彼が“私”を見てくれている限り、どんな呼び方をされても、気にする必要なんて無い。そう、強く自分に言い聞かせ続けた。
けれど、彼が目覚めなくなった時。
遂に、“私”は口にした。募り続けたものを、溢れ出るままに口にした。
『……“私”は……“レベッカ”では…ないわ』
黒い靄のような不審感は、その瞬間、心を覆う闇へと形を変えていった。
それから、真実を知ったのは彼の遺品を整理していた時。
彼の研究メモと、“私”の設計データから、全てを知ってしまった。
外見を似せるだけでなく、“レベッカ”の記憶と人格をデータ化して“私”に搭載した。死んでしまった本当のレベッカへの愛情を捨てきれず、“私”という“レベッカ”の模造人形を作った。
彼は最期まで、“レベッカ”を愛していたのだ。
―――― * * * ――――
「……彼を、愛していたわ」
事の顛末を語った後、レヴィアタンは再び口を開く。
「けれど…ね。それが本当に“自分の感情”だったのか……私には分からないの」
オルジフを愛した感情は。オルジフとの思い出は。心は。記憶は……本当に自分のものだったのか。
膝を抱え、顔を少しだけ埋める。上目遣いに、僅かに前を見つめて、考えこむ。
「……いいえ、違うわ。答えはとうの昔に出ていた」
そう言って笑う。けれど、その瞳は空虚な輝きを放っていた。まるで、ただの人形のように。
「“所詮、私たちはレプリロイド”――――生命の形を模した“模造人形”なのよ。この心も、人格も、感情も……全てデータに過ぎず、生命を名乗れるだけの価値も、尊厳も……本当は何処にもありはしない」
プログラムのままに誰かを愛し、悲しみ、生き続ける。
個としての自由を求めども、結局は抗えず仕舞い。ボレアスの大地で、カムベアスが証明したように。
「恨んでいるわ。憎んでもいるわ。けれど、それも“私”のものなのかしら。分からないの」
「ねえ、教えて」とレヴィアタンはゼロを見つめた。虚ろな目をしたまま。乾いた笑みを浮かべたまま。
「“私”は……誰なの?」
「…………」
見つめ合う二人の間に沈黙が訪れた。重く、悲しく、寂しい沈黙が。
ゼロは、その問いに返すことができず、黙り続けた。けれど、眼をそらす事は出来なかった。彼女の瞳の奥に、自分の姿が見て取れたから。
暫くして突然、レヴィアタンは吹き出し、沈黙を破る。
「ごめんなさいね。辛気臭い話になってしまって」
「クスクス」と笑って謝るが、その様が、ゼロには憐れに見えて仕方がなかった。
心配げに見つめるゼロに、レヴィアタンは「大丈夫よ」と言う。
「もう、割り切っているから。上手くは言えないけれど、『私たちは“そういうもの”なんだ』…って思っていくしかないわよね」
その時、彼女の一見破天荒な言動の理由が垣間見えた気がした。
再び考え込んだ後、「けどね」とレヴィアタンはポツリと、小さく呟く。
「一つだけ……今も引っ掛かっていることがあるの」
あの日の事を何度思い返しても、彼女はただ一つ、どうしても思い出せないことがあった。
殊更寂しい眼差しで、彼女は口にする。
「あの日……彼が微笑みながら何か言ったの……。だけど…どれだけ思い出そうとしても……その言葉だけが思い出せないのよ」
彼女が“気づいてしまった”――――その直後、彼が紡いだ最期の言葉。
怒りのせいか。憎しみのせいか。恨みのせいか。それとも“彼女”への嫉妬心からか。その言葉だけが思い出せない。幾百、幾千、幾万と交わした言葉の中で、たったそれだけが。
その事実が今も彼女を、“あの日”から解き放ってはくれないのだ。まるで呪いのように。天罰のように――――……‥‥
深呼吸を一つしてから、身体を後ろの岩壁に預ける。
「……喋り過ぎて…疲れちゃったみたい。少し眠らせてもらうわ」
そう言って、レヴィアタンは瞼を閉じた。それから少しして、彼女が眠りに就いたのを証明するように、柔らかい寝息が横から聞こえてきた。
ゼロは彼女の寝顔を見つめた後、空を眺めた。漆黒の空に散りばめられた星々が、まるで己の存在を主張するかのように輝いている。
呆れたように、溜息を一つ吐く。
「………無用心にも…程があるな……」
直ぐ傍にいるのは、あの“紅いイレギュラー”だと言うのに。彼女は少しも警戒すること無く、スヤスヤと安らかな寝顔を晒して眠りに就いている。
だが、この無用心さは今に始まったことではない。
ボレアス山脈でも、潜水艦でも、そして今、己の過去を何の躊躇いもなく明かしてしまうなど、予想だにしない言動ばかりが目立つ。
しかし、その根幹が何処にあるのか、ゼロには確かに分かった気がした。
破天荒で、型破りな言動を重ねて、相手を試しているようで、本当は自分を試していた。
掴みどころが無いようで、その実、全て彼女は本気だった。
「……抗おうとしていたんだろ」
そう言って彼女の横顔を見つめる。
プログラムに縛られた常識的な行動。従順な思考。模範的な在り方。――――それらを全て否定したいがための彼女なりの反抗だったのだろう。
“所詮はレプリロイド”――――そう言いながら、その枠から外れたかった。自分の感情と人格を肯定したかった。
“レヴィアタン”という唯一無二の、絶対の存在でありたかった。
けれど、捨てきれない感情が――――オルジフへの恋慕の情が、それを妨げる。
彼への愛が、彼との過去が、いつまでも彼女を縛り続け、離さない。そしてまた不幸なことに、自分もそれを離したくはないと思ってしまった。
人の手で植え付けられた“プログラム”かもしれないと分かっているのに。
そのジレンマが、彼女を真に縛り続けているのだろう。
「………分かるぜ、そういうの。慰めじゃなく…さ」
そう呟くように言って手を伸ばす。
そして愛おしむように、彼女の青い髪を優しく撫でた。