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"環"  作者: 正さん
四章
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二十八話「緊急事態」


「…ねえ華菜ちゃん。しばらく経ったけど、ワキノブ君についての噂も広まってないし、スパイらしき人間が慌ててる様子もないよね…」

「……」

「じゃあ明人さんの漫画本は晶さんがやったことじゃないのかな?」


 学食。

 一日休んだら体調はすっかり良くなってくれた。

 体調は良くて、いくらでも走れそうだけど、頭はボーッとして、モヤがかかったように菜那さんの言葉が遠くに聞こえて、なんだか申し訳なくなった。


「漫……華菜ちゃん?どうしたの?平気?」

 その時、私を見て何かに気付いたのか、菜那さんが声をかけてくれる。

「…あ、ちょっと、あの、頭がボーッとして…もう一回お願いしても良いですか…ごめんなさい…」

 そう言いながら自分の額を手で押さえると、菜那さんは目を見開き、回りを見てから、少しだけ私に身を寄せ、右耳にこう囁いてくれた。

「…華菜ちゃん、今日…あの日?」

 私は首を横に振った。

「…前?」

 恐る恐る頷くと、菜那さんも頷いてから、背中を優しく撫でてくれた。


「……私が持ってれば良かったけど…ごめんね、生憎切らしてて…あ!買ってこようか?」

「い、いらないです…自分で買いに行けます…」

 立ち上がろうとする菜那さんを制止しそう言うと、菜那さんは頷いてから私の背中とお腹を優しく撫でてくれた。


「無理しないでね…私は結構お腹痛くなる方でね…あ、男来た、話終わり」

 菜那さんの言葉に顔を上げると、目の前には環とワキノブが。


 環は跪き、私の顔を覗き込んだ。

「……華菜ちゃん、まだ顔色悪いね…やっぱり一日休んだ程度じゃダメだよね…早退する?家まで送っていこうか?何か必要なものがあったりする?」

 焦った口調の環。私は首を横に振った。

「いい、いらない、大丈夫、腹減ってるだけ」

 そう言ってパンを指差すと、環は不安そうに菜那さんの方を見てから、立ち上がり、こう言った。

「…額塚さん、出来る限り寄り添ってあげてほしいんだけど…平気?」

「もちろん!」

 環の言葉を聞いた菜那さんは大きく頷き、もう一度私の背を撫でた上にパンの包装紙を破いてくれた。


 そのとき。

「……あ…」

 私は立ち上がった。

「…?華菜さん?」

 不安げなワキノブの声。

「ごめん。また今度」

 そんな事言い残して私は走った。


「…華菜ちゃ」

 女子トイレ前に行くと、見覚えのある顔と会った。

 それは艮と会う前に菜那さんが声をかけていた地味めな女子生徒、宮部さんだった。

「華菜ちゃん…あ、ごめん、雑談しようとしちゃった。トイレに用あるのか。ごゆっくり」

 そう言いながら離れようとする宮部さんの腕を、反射的に掴んだ。


「……どうした?」

 不安そうな宮部さんの顔。

 百々が言った言葉が過る。

 晶と親しげな様子の宮部さん。

 でもそれは百々がスパイだった頃の話で、あれは晶が流した偽の情報。

 多分あれは菜那さんを私達の元から追い払おうとした晶の仕組んだ事。

 百々が言ってた『元カノ』ってのも、百々を自分の元に呼び出すための都合の良い存在で……元カノの正体は今目の前にいる宮部さんなんだろう。


「…」

 宮部さんの顔を見つめて、そして、何故自分がトイレに来たのか思い出した。

 声を出そうとした。けど声が出なくて、出たのは掠れた息だけ。

 宮部さんはそれで察したのか、私の背を撫でてくれた。


「…あー、成る程、アレなら持ってる」

「……あ、でも……いらない……」

「大丈夫。でも、教室にあるから今から取って来なきゃなんだけど…待ってられる?」

 私が恐る恐る頷くと、宮部さんはもう一度私の背中を撫でてから、私を優しく個室に押し込んだ。


「華菜ちゃ……宮部ちゃん!?なんで!?確か宮部ちゃんは晶さんとも知り合いで…私の事無視して…」

「今はそんなの関係ない!可愛い可愛い天使みたいな女の子が困ってるんだよ!緊急事態!あんたはあの子に頼られてんなら声かけるなりあの男共追い払うなり誤魔化すなりなんなりして!」

「確かに!分かりました!こういうとき頭痛くなるかもしんないから追い払いと誤魔化しに専念しますね!」

「そうして、じゃ取ってくるから!!!!!!!!」

「わ、声でか」


 優しい二人の可愛い声が聞こえた。

 二人とも、優しくて、私なんかあんな優しさに甘えてばっかだとか思って。

 色んな考えが頭を巡って、身体全部が腫れて重たくて、昔の嫌な記憶や、嫌な想像が頭を駆け巡る。

「……ぅ…」

 頭の芯が痛い。

 呻き声しか出なくて、こんなの始めてで。

 地面に寝転がりたい。頭が重い。

 汚いけど、トイレの地面に座り込んだ。

 動きたくても動けなくて、頭が割れそうなくらい痛くて、変に、涙も出て。




「華菜ちゃん、開けれる?」

 そのとき、外から晶の声が聞こえた。

 いつもだと恐ろしく感じる筈の声が、何故か暖かく聞こえた。

「……あきら」

「話さんでも大丈夫、分かるから、他の子らは来んよ」

 なんで

「うちが来んなって言うといたからやで」


 何も言わなくても分かるなんて、心を読まれてるみたいで怖い筈なのに、普通は怖がる筈なのに。怖いのに。

 なんか、今の私には、嬉しく思えて。

 恐る恐る鍵を開けると、ゆっくりと扉が開き、晶が強引に個室へ入ってきた。


「悩ませてごめんな」


 晶の冷たい手が私の髪を撫でる。


「あきら」

「うん、どうした」

「もし、私が、」

「うん」

「私が、もっと、賢かったら」

「うん」

「お母さんも、悩まなかったり、したのかな」

「……」

「前、家の前で、話してた、たまきと、お母さんのお話とか、の、意味、分かったのかな」


 晶は少しだけ黙ってから、私を抱き締めた。

 強く強く抱き締めて、微笑みかけてくれた。

 汚い地面でその綺麗な足が汚れることなんて気にもせず、抱き締めてくれて、晶の笑顔は、今まで見たことの無いくらい、穏やかで、優しい笑顔だった。


「華菜ちゃん、これだけは伝えておくから」


 晶はそう言いながら私に何かを手渡した。

 それは、中に小さいメモ帳とアレが入った、手のひらサイズに折り畳まれた黒いビニール袋だった。


「これから先もっと悩みが多くなるよ、気をつけて」


 そう言い残し、消えていった。

 行って、しまった。


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