十二話「初めて」
「……なんでだ」
一ミリも騒ぎにならなかった。
例の女が手を回した結果、そうなったのかどうかは分からない。
ただただ、いつも通りなんだよ。
騒ぎも無ければ、それに関係する噂話の一つも耳に入らないレベルで。
帷子と艮の二人も「クラスメイトから何も言われないし何も聞かれないし、自分達を見る目もいつもと変わらない」と言っている。
毎日会う兄貴でさえも、噂なんて一ミリも知らないようなアホ面で味噌汁を溢して火傷していた。
このまま噂が広まるのを待ったとしても、意味は無に等しいんだろう。
むしろ悪化しそうというか…あの騒ぎの目撃者すら、騒ぎの事を忘れてしまいそう、というか、なんというか。
頭が働かない。微塵も良いアイデアが浮かんでくれない。
一月も待った。それなのに広まらなくて、何も、進まなくて。
ただワキノブ達と無意味な話し合いをしているだけで、このままだとあの女と話すよりも前に、あの女が卒業してしまいそうで。
そうなったら私がこの学校に来た意味はどうなる?何も成し遂げられないままあの女が卒業したら?
どう、しようか。
女子トイレで手を洗いながら、鏡の中に居る自分へこう問いかける。
「……どう、すればいいと思う?」
例の女が手を回した結果、こうなったんだとしたらそれでいい。
でも、もし手を回していなかったら?いやそもそもというか、例の女が手を回したとしたら、一体どうやって封じ込めたんだ?
分からない。一ミリたりとも、理解できない。
水の流れる音。
安っぽい芳香剤の匂い。
脳味噌の動きが停止し、自らの非力さへ、自らの、察しの悪さへ腹が立つ。
晶、お前は今、何をしているんだ。
お前は、今も、私をどこかで、見ているのか?
私を見下したような目で、見ているのか?
「蹴散らしたちゃん、久しぶり」
その時、ハスキーな女の声が右隣から聞こえた。
声のした方を見ると、そこには。
「……佐鳥…晶……」
「名前覚えててくれたん?嬉しいな」
……!!
長い前髪で、肩までのボブヘアー。私から見て左側のもみ上げだけが短い。
私よりも少し背が高く、雪のような肌に、すらりと高い鼻、そして、薄い紅色の唇。蛇のような目。
背に冷たい汗が流れる感覚がした。
なんでこの、こいつが、一年のトイレに、いや、それよりも、蹴散らした…ちゃん……って……。
やっぱり、あの噂を広めたのは…こいつ、なのか……。
「この高校めっちゃ無駄に偏差値高いからさ、テスト結構難しかったやろ?大丈夫やった?」
眉を下げ、心配そうに私を見つめるこいつ。
「……大、丈夫」
恐る恐るそう答えると、晶は満足そうに頷き、私の隣の手洗い場で手を洗い始めた。
「なあ華菜ちゃん」
「……」
名前を呼ばれる度に強張る体。
震える手。ハンドソープの安っぽい匂い。
気付かれないよう、拳をグッと強く握りしめると、晶はそれに気付いたのか、クスリと笑った。
「…智明、喜んでたよ、華菜ちゃんと同じ高校通えて…なんでこの高校来たん?」
ざわりと立つ鳥肌。
全てを分かっていて、全てを、理解しているくせに、あえて、バカのフリをして、掌の上で転がそうとしているのか。
ペーパーナプキンで手を拭いてから、唇に色付きのリップを塗る晶。
ぐっと覚悟を決め、大きく息を吐き出してから、晶の問いかけにこう答えた。
「お前と会うためだ」
晶は、目を見開いた。
目を見開いてから、しばらく固まり、何かに納得したのか一度頷き、こう言った。
「うん、うちもそうやで」
「わ、そんなことがあったんですね…」
晶と会った事を、私は、ワキノブにだけ話した。
学校から少し離れたファストフード店の奥の席。
壁に、妙にアーティスティックな絵が描かれていて、二人で「この壁なんかキモい形だな」なんていつも通りの雑談をして、少し和んでから話すことにしたんだ。
ワキノブにだけ話そうと決めた理由は、澁澤は晶に対して大きな感情を抱いていそうだったから。
もし私と晶が会ったと言ったら…動揺して、何か、ダメなことになってしまいそうな気がしたからだ。
「晶は、私を、どこかから、ずっと、見ていたのかって思うと…」
「…怖いん、ですか?」
頷く私。流れる沈黙。
すると、慰めるためか、向かいの席に座ったワキノブは、少し身を乗り出して私の耳たぶを撫でてくれた。
「高校デビューのためにピアス開けといて「怖い」なんてよく言えますね」
「それとこれとは関係ないだろ」
「ふふ…確かに、関係ないかも」
私の言葉を聞きクスクスと笑うワキノブ。
ワキノブの顔を見ながら、氷が溶けたあまり美味しくないオレンジジュースを一口飲む。
こいつの横顔を見ていると、ふと、分厚いレンズの奥に光る目が、菜那さんの瞳の色と少し似ているな。いや、半分だけ似ているな、と思った。
「…お前、なんで、メガネかけてんの?視力そんな悪かったっけ?」
私がそう尋ねると、ワキノブは困ったように首を傾げてから、小さな声でこう答えた。
「視力がめっちゃ悪い、というのもあるんですけど…綺麗すぎるから、姉様に隠した方がいいって言われて」
綺麗すぎるから、隠した方が良い?
「どういう意味?何が綺麗?」
ワキノブは、私の質問に、また、首を傾げた。
そして、少し考えてから、お茶を一口飲み、ゆっくり話してくれた。
「私の顔が、綺麗なんです…その、いや、綺麗すぎるもの、って、時には、悲しい目に遭うって、小さい頃から、姉様に…言われ続けていて…」
小さく震える手を、ぎゅっと握りしめるワキノブ。
その手を、ワキノブの小さい手よりも小さい、私の手で包み込む。
「私が守るよ」
目を見開くワキノブ。
少ししてから、ワキノブは、メガネを外した。
「……うん、確かに、綺麗かも」
「…知ってます、でも…ありがとう」
「……」
「……華菜さん」
「……うん」
「……」
「…名前呼んでくれてありがと」
「…うん」
「ワキノブ」
「そこは忍って呼ぶとこだろ」
しばらくそうやって話し合っていると、ワキノブが、氷が溶けて薄くなったお茶を飲み、文句を言ってからこう尋ねてきた。
「このお茶不味すぎる…氷が溶けただけで普通こうなる…?……あ、あの、華菜さん、今更こんな事言っちゃダメかもしれないけど…晶さんって人、本当に悪い人なんですかね…?」
「え?」
「話を聞く限り、その、私には、貴方を心配して会いに来たように思えてしまって…」
ワキノブの言葉で、あの時感じた恐怖心を思い出した。
「……そっか」
私がそう言うと、ワキノブは慌てながら言葉を続けた。
「あっ!その、華菜さんの事は勿論信じますよ、でも…私が、晶さんがどういう人なのかを理解してないからかも、しれませんけど…あ、じゃあ…今、この話はやめた方が…良いですよね」
「ううん、大丈夫だよ、言って、聞きたい」
「……えっ、と…」
ワキノブはしばらく悩んでから、こう続けた。
「…晶さんが、悪い人だっていう認識は間違ってる、とまでは言わないけど、疑う、余地くらいはあっても…良いんじゃないですか?」
怯えたように、珍しく私の顔色を伺いながらそう話すワキノブ。
「……なんでそう思った?」
何となく気になって、そう聞いてみる。
するとワキノブは、真っ赤な唇をぐっと噛み締めてから、泣きそうな声でこう言った。
「姉様の、大事な…友達なんです…晶さんって人」
「……!」
「晶さんの事を姉様に聞いてみたら…姉様は、恩人だ、とか…良い人って言っていて、なら、晶さんが、華菜さんに接触したのも、友達の、妹だから、心配で会いに来たんじゃないか、とか、いや、それだったら…最後の言葉の意味が分からないし…」
怯えたような、私の機嫌を伺うようなワキノブの態度。
初めてだ。ワキノブのこんな姿を見るのは。
少し悩んでから、私は、さっき私を慰めてくれたワキノブよりも大きく身を乗り出し、ワキノブを抱き締めた。
「板挟みにしてごめん、ワキノブ」
「ううん、大丈夫…こちらこそ、ごめんなさい」
背に恐る恐る回されるワキノブの手。
ワキノブも、誰も、晶も、傷付けない道を、選べたら。
もしそんな道があるのなら、私は。例え。何をしてでも。