踏み潰された蟻について
会社最寄りのバス停を降りてしばらく歩いていく。
季節はまだ残暑が厳しく早朝といえども朝日が眩しい。
体質的に目が日光に対して強くなく、自然と下を向きながら、うなだれる様に職場まで歩く。
後頭部に熱を感じる。
アスファルトの上を歩く蟻の姿が見える。
働き蟻だ。下を向きながら歩いていると何かを目指し歩いているヤツもいれば踏みつぶされて死んでいるヤツもいる。
踏みつぶされた仲間などまるで見えていないかのように生きている蟻はせかせかと歩く。
蟻は仲間の死体、あるいは死を認識できるのだろうか。
動物が仲間の死体に集まって何かを行っているという話を時々聞く。
人間以外の死を認識する動物は死んだ仲間の事をもう動かなくなってしまった、自分とコミュニケーションをとることが出来なくなってしまったとまでは理解できるのだろう。
しかしそれは高度に発達した脳を持つ動物のみ可能であり、他の昆虫や無脊椎動物等は認識し得ない。
ならばAIはどうだろうか。技術の進歩により、人間からしてみれば時々本物の人間とAIの区別がつかないことが多くなってきた。
しかし本質的にAIは人間のみならず思考能力を持つ生物の持つ感情を理解することはできないだろう。
あくまでAIは現象に対してどのようにして反応するかを学んだ機械にしかすぎないのだから。
人間とそれ以外の生物、そしてAIの違いについては議論が分かれるところだが、これは俺自身の主観であって正解ではないのだろう。
閑話休題。
蟻の話に戻るが彼らは仲間の死を理解できない。
踏みつぶした人間にも認識されず仲間にもその死を認識されない可哀そうな蟻。
彼の生きた意味とはなんだったのだろう。
弱肉強食、それが自然で生きる事だとすればその張本人(蟻?)に我々と同じように自我が有ったとして果たして納得するのだろうか。
弱肉強食といった言葉は、あくまでも安全圏に居て自分の安全が脅かされることがないと確信した空虚な人間の発言だ。
例えば人間よりももっと高度な存在が地球上にいたとしてその存在が弱肉強食だと宣ったら私たちは正気を保って粛々とその言葉を受け入れることが出来るだろうか?あるいは適者生存だなんだと言って人間をその枠に収められて納得できるか?
ああ、無常。
世の中には知らない方が良いという事がある。
誰かにそんなことを言われたら気になって仕方ないだろう。それで真相を究明しようとしてその『知らない方が良いこと』を知ろうとするのだ。
踏みつぶされた蟻の存在意義とは?
虫なりにこの世に生を受け、本能に従って生きてきた結果が、
結果が、俺の目の前にある無残な姿である。
この地球上でそういった哲学的思考をする生物は人間だけだ。
もしかしたらそういった思考は本来生きるためには全く必要ないのだろう。
だから・・・地球上で俺だけが、今この目の前の踏みつぶされた蟻に祈りをささげよう。
傲慢かもしれない。それでも祈ろう。もし一寸にも満たない小さなその命に来世があるのなら、
少なくとも、無造作に踏みつぶされる生ではなく、精一杯生きて天寿を真っ当できるような、そんな生を。
そして、世界を謳歌しようとする、命に幸、あれ。