楽しいを知る2
いつもの空気とは違う潮の香りをいっぱいに含んだ風。そして、大空から続いているように、広く大きい一面の青。
ウルリクとイェシカの目の前には、そんな広大な海が広がっていた。
馬車で揺られることおよそ1日。
ウルリクとイェシカは旅行先であるオークランス家の別荘に到着した。
着いた頃にはもう辺りは暗くなっていて、海辺の別荘とはいえ海はよく見えなかった。
あまり遠出の機会のなかったイェシカは疲労困憊で、楽しみにしていたウルリクには申し訳ないと思ったが、その日はすぐに休ませてもらうことにした。
疲れた様子のイェシカにずっとウルリクは心配だという感情を向けてくれていたし。
こちらの別荘でも、同じ寝室のベッドでウルリクとともに横になったが、イェシカは眠気には勝てず、いつものように話をすることなく眠ってしまった。
だが、そのおかげか2日目の朝、目覚めたときには昨日の疲れが嘘のように消え、爽快な気分だった。
そして、目が覚めた時から隣で横になっているウルリクから、大丈夫かな……、元気になったかな……という心の声が聞こえてきていたので、ウルリクももう起きていることは分かっていた。
ごろり、とウルリクの方を向くように寝返りを打つと、寝起きのためかいつもより怖さの増した目とイェシカの目がばっちり合う。
「おはようございます。昨日は申し訳ありませんでした。もう今日は大丈夫です。元気いっぱいです。一緒に海に行きましょう」
イェシカが起きているとは思っておらず、不意に目が合って驚いていたウルリクに、イェシカは朝の挨拶と共にそう告げた。
「おはよう」
(良かった元気になって。無理させてしまったんじゃないかと心配してたから。こっそり眠っている時にかけた回復魔法も効いてくれたのかな。そうだといいなあ)
ウルリクが返した言葉は素っ気ないような朝の挨拶たった一言だけだったが、イェシカにはちゃんとウルリクが心配してくれていたことは伝わっていた。
それに、以前は挨拶をしてもウルリクが返事をするのは5回に1回くらいだったが、今は必ず毎日返してくれるようになっていた。
……しかし、イェシカはウルリクの心の声で1つ気になることがあった。
ウルリクはイェシカに回復魔法をかけたといったか、と。
魔術師でないイェシカは魔法についてそれほど詳しくないのだが、回復魔法と言えば確か上級魔法だったのでは……と思った。
そんな魔法をただ馬車の長距離移動で疲れただけのイェシカに使ったというのだろうか。
道理でいつも以上に身体が快調のはずだ。
何という魔法の無駄遣いだろう。
それでも、心の声を聞いただけのイェシカには言及しようもないし、ウルリク本人が満足しているようだから、聞かなかったことにしようと、そう思った。
そんなこんなで無事、2日目の昼前についに海へと辿り着いたのであった。
幸いにも今日は雲1つない快晴で、光を反射する海面はきらきらと輝いていてきれいだった。
まるで、青い果実の果汁を注いだカクテルみたいにきれいだ、というのはウルリクの感想。
手の先で水に触れると冷たくて気持ちが良かった。
海に降り注ぐ太陽の光はイェシカ達のことをじりじりと焼き、熱い。
今はまだ春を終えたばかりの時期ではあるが、日差しは思ったよりも強くなっており、もうすぐ夏が近づいていることを予感させる。
さすがに入って泳ぐことは出来ないが、裸足になって足をつけるくらいはできそうかもしれない。
甘いカクテルを想像しながら海の水を舐めようとしていたウルリクをやんわりと止めたイェシカは、そのことを提案しようとした。
「やあ、そこのお姉さん。俺達と遊ばない?向こうで肉を焼いたり、採ってきた果物を用意してあったりするんだけど、どう?」
そんな時突然、砂浜を歩いていた軽装の2人組の男がイェシカに話しかけてきた。
恐らく庶民であろうその2人がイェシカとウルリクに対して気安く話しかけてきたのは、イェシカ達の格好に理由があった。
実は今、ウルリクとイェシカは貴族が着るような上等の服ではなく、街のその辺で売っているような普通の服を着ていた。
せっかくの旅行なのに目立って注目されたりしてしまっては楽しくないから、とお忍び旅行を計画したのであった。
ウルリクはその輝く様な銀髪を帽子で隠し、そしてあろうことか、どこで使うのだろうと思っていたあの色つきのメガネをかけていた。
イェシカは長い髪を緩く三つ編みにし、動きやすそうなふわっとしたワンピースという装いなのだが、ウルリクは変装に力を入れすぎなのではないだろうかとイェシカは思っていた。
だが、王宮では“冷酷魔術師”と恐れられているウルリクが隣にいるというのに、イェシカに話しかけてくる男が出るのだから、変装の効果は抜群のようだ。
目つきを気にしているウルリクに対して、そのメガネは最適な品物なんじゃないだろうか。
「君みたいな可愛い子がこんな無愛想な男と一緒にいるなんて、せっかく海に来たのにもったいないよ」
「そうそう。俺ら、ずっと君のこと見てたんだけど、そっちの男ずっとつまらなそうにしてるじゃないか。一緒にいる君が可哀想だと思って。俺達の方がずっと君を楽しませてあげられるよ」
男二人は、ぺらぺらとそんなことをイェシカに言う。
心の声を聞くと、遊ぶというのは本当のようだったが、こうやってよく女性を口説いていて、そういうことに手慣れているということが分かった。
心の声を聞くまでもないが、イェシカが楽しめなくて可哀想というのはただの口説き文句だ。
しかも、ウルリクに対して何て失礼なことを言うのだろうか。
「結構です。お断りします。私たちは私たちで楽しみますので、他の方を誘われてはどうですか?女性でしたら、誰でも良いようですし」
こんな相手には礼節など尽くさなくて良いと、イェシカは冷たい態度で返した。
それでも、二人は連れないなあなどと言いながらまだ引かずにイェシカを誘い続ける。
相手のいる女性やなかなか折れない女性を落とすことを何かの勝負のように楽しんでいるようだった。
何て女性に対して最低な人達だろうと思いながら、どうしようかと思案していると、あれやこれや言っていた二人の顔色が急に悪くなり始めた。
「あ……いや、やっぱりいいです。し、失礼します……っ」
「話しかけたりして、すみませんでしたあ……!」
そして、そう叫びながら慌てるように走り去っていった。
隣を見ると、ウルリクはメガネをずらし、その視線の先で走り去る二人を睨んでいた。
なるほど。
「すみませんでした。うまく断れなくて。困った方達でしたね」
イェシカがウルリクに同意を求めるようにそう話しかけると、ウルリクは浮かない表情をした。
いや、顔は変わっていないのだけれど、心が落ち込んでいた。
(……俺といると、イェシカは楽しくないのかもしれない。イェシカは俺のことをいつも楽しませてくれるのに、俺は何もしてあげられていない。俺はつまらない男で、こんな俺と一緒にいさせてしまって申し訳ない。彼らと行った方が、イェシカは楽しめたんじゃないだろうか。でも、行って欲しくなくて……)
そんな心の声が聞こえてきた。
じめじめとした思考が次から次へと出てくる。
イェシカはあのような人達が行ったことを真に受けて気にしなくて良いのにと思った。
イェシカが他でもないウルリクといたいから一緒にいるのに。
―――楽しんでいますよ
イェシカはウルリクにそう伝えようと口を開きかけ、はたと考えた。
彼にそう伝えようと思ったが、本当に自分が楽しんでいるのか分からなかったから。
そんな感情を自分は持っていないと思ったから。
楽しいと思っていなくても、口だけで楽しいと伝えることは簡単だが、それはウルリクに対して嘘をつくことになる。
いつも真っ直ぐな感情を持つウルリクに対して、不誠実なことになるんじゃないだろうかと思い悩む。
いつも、イェシカが感情を口にするときは、ウルリクの感情に同意を示すように、代弁するように言葉にしてきた。
だが、今回は違ったためにそう考えてしまった。
「……ウルリク様。あちらに洞窟があると聞きました。一緒に行ってみませんか?」
結局、イェシカはウルリクに“楽しい”とは言えなかった。
それを誤魔化すように、ウルリクの手を引いて洞窟を目指した。