愛を知る4【side Ulrik】
定期的に訪れるこの深く沈んだ気持ちの波は、イェシカと結婚してから治まったように見えていたのだが、今日の会議をきっかけに再び波立ち始めた。
一度陥った暗い思考はなかなか抜けない。
会議が終わり、王宮を後にし、家に帰ってからもウルリクの気持ちは落ち込んだままだった。
ウルリクとイェシカは寝室を共にする。眠る時に隣にイェシカがいてくれることが、ウルリクは嬉しかった。
そして、いつもイェシカは眠る前にウルリクに話をしてくれる。今日あった楽しかったこと、面白かったことを話してくれる。イェシカの話にウルリクはいつも夢中になって耳を傾けていた。
太陽の光をいっぱいに吸収してパリッとしたシーツがかかったふかふかのベッドに身を沈め、その隣にイェシカがいてくれる。1日の疲れが消えていく。魔法のような寝室だった。
仕事が終わるとこの時間を一番に楽しみに帰ってくる。今日も楽しみだった。
だが、昼間のことを引きずったままのウルリクは、どうしてもいつものような気分にはなれなかった。
「……どうかなさいましたか?」
いつも通りイェシカの隣に横たわり、ウルリクがイェシカを見つめていると、イェシカは今日の出来事を口にするのではなくそんなことを口にした。
……何で彼女には分かるんだろう。
自分のこの無表情はいつだって変わらないのに。
ウルリクを気にかけて、そういう優しい声をかけてくれる人は誰もいなかった。
イェシカだけだ。
沈んでいた心を丁寧にすくい上げようと手を伸ばすみたいな柔らかい声がウルリクに光を与える。
泣きそうなほどに温かい光。そんな光がウルリクを照らしてくれる。そして、光を得たことで、ウルリクは自分の心が前よりもはっきりと見えた。
ウルリクはずっと辛かった。人を傷つけることも、人から恐れられることも、悲しみを感じていないのだろうと思われることも。
そして、その悲しみを自分のうちだけにしか表現出来ず、外に出すことが出来なかったことも。
この瞳は他人から睨んでいると誤解されるだけで、涙を流すこともしてくれない。泣きたくても泣けない。こんな自分には、泣くことさえ許しはしないと言うように。
ウルリクは悲しみを涙として洗い流すことが出来ず、心の中で涸れることのない涙を流し続けることしか出来なかった。
「……何か、お辛いことがあったのですね。私には、ウルリク様がお辛そうにしているのが感じられます。悲しくて、苦しくて、どうしようもなくて押しつぶされてしまいそうな程なのですね」
じっと黙って、ウルリクの心が落ち着くのを待つように見つめてくれていたイェシカがそんなことを口にした。
イェシカが口にした言葉は、正しくウルリクの心だった。むしろ、ウルリクが自覚していた心よりも彼の心を分かっているようでもあった。
ウルリクは自分の抱えてきたこの気持ちが重くて、つぶれてしまいそうなほどに苦しかったのだと、イェシカにそう言われて気が付いた。
「……その気持ち、私にも一緒に背負わせていただけませんか?」
自覚すれば自覚するだけ重くなっていくこの気持ちをどうすればいいのだろうかと、また深く暗い思考に落ちかけたとき、イェシカが温かい声を発した。そして、ウルリクをぎゅっと抱きしめた。
全く思ってもいなかったイェシカの行動に、ウルリクは驚きで固まった。
暗い思考など何処かへ行ってしまうくらいに、何も考えられなくなるくらいに驚いた。
一体、何が起こっているのだろうか。
混乱する頭の中、胸に自分のものではない体温を感じた。温かくて優しい、安心できるような温もりだ。
ああ、これがイェシカの温かさなんだなあ。
そう分かるともう、乱れた思考も気持ちも収まっていた。
ウルリクの中を占めていた暗い気持ちは消え、胸の中は温かい気持ちで満たされた。
イェシカはウルリクが一番欲しかった言葉をくれた。
いや、欲しかった以上のものをくれた。
ウルリクは悲しいという感情を持っていることを、誰かに分かってもらいたかった。イェシカはそれを分かってくれた。
それどころか、イェシカがウルリクを思ってウルリクの抱えきれない悲しみを、一緒に背負うと言ってくれた。
ウルリクのこの暗い気持ちは全ては消えない。消してはいけないものだ。でも、抱えきれないほど持つべきでもない。
ただ、イェシカのおかげでウルリクが持ちきれるだけに、心が軽くなった気がした。
そして、そう言ってくれたイェシカの優しさがウルリクの胸を温かくした。
それともう一つ。ウルリクの胸を温めるのは自分自身の感情だ。イェシカに対する感謝の気持ちだ。
―――ありがとう
そうイェシカに伝えたい。そんな言葉では収まらないような気持ちだけれど。
溢れ出すほどの気持ちで胸がいっぱいになり、ウルリクの心はまた涙を流し始めた。
でも、それはその雫が落ちたところから広がって温めてくれるような、そんな嬉しい気持ちの涙だった。
ウルリクは、イェシカの身体に腕を回した。
彼女を離したくないと、ぎゅっと寄せるように抱きしめる。
腕の中には小さくてとても温かな守りたいと思う人がいた。
「イェシカ」
結局感謝の言葉を紡ぐことは出来なかったけれど、その人を思い、ウルリクは彼女の名前を呼んだ。
自分でも何故だか分からないが、どうしても彼女の名前を呼びたくなった。
すると、今まで分からなかった感情がすとんと、言葉として理解できた。
イェシカと出会った時から感じていた、言葉では表現出来ないような初めての気持ち。
もう初めてではなくて、イェシカと過ごしているうちに、何度も何度も胸に起こるこの気持ちが分かった。
―――好きだ。大好きだ。愛してる
それでも、まだそんな言葉では表現しきれない。
胸が燃えてなくなってしまいそうなほどの熱い想いが、この腕の中の小さく壊れそうな愛おしい存在を大切に護り抜きたいという想いが、ウルリクの心の中にあった。
これは“愛”という気持ちだ。
きっとイェシカと出会わなければ、一生感じることのなかった感情。
形容しがたいこの気持ちがこのまま伝われば良いのに。
言葉としてさえ伝えることのできない自分が、図々しくもそんなことを思った。
「……ウルリク様。私もあなたのことを愛しております」
自分の気持ちを伝えることもできない出来損ないなウルリクに対して、イェシカはそんな言葉をくれた。
イェシカがウルリクを愛していると、言葉にして伝えてくれた。イェシカがウルリクをそう思ってくれていたことが嬉しかった。
そして、ウルリクが同じようにイェシカを愛していることも分かっていると、暗に伝えてくれる。
ああ、本当に、そんな彼女がどうしようもないほどに大好きだ。
イェシカは、ウルリクに笑みを向けてくれていた。
ウルリクの好きなイェシカの笑顔。
だが、その笑顔がいつもと少し違うような気がした。いつもより、もっとあたたかくて優しい笑顔。もっともっと、その笑顔がウルリクは好きになった。
自分のこの気持ちの名前に気が付いた自分は、これからもっとずっと目の前の彼女のことを好きになっていくんだろうな。
気持ちが伝わってくるようなあたたかく穏やかな彼女の笑顔を見ながら、ウルリクはそんなことを思った。