愛を知る1【side Ulrik】
生まれた時ですら、泣き声を上げなかったらしい。
そんな逸話が噂される男がいた。
嘘だろうと一蹴されて終わりそうな話であるが、いや、あの人ならあながち嘘ではないのでは、とそんな風に言われる。
それが王宮魔術師ウルリク・オークランスという男だった。
本当に産声を上げなかったかは定かではないが、ウルリクは赤子の頃から表情が乏しかった。親でさえ、泣くどころか笑った顔も見たことがなかった。
どこか悪いところがあるのではないかと医者に診てもらったこともあったが、至って健康で、むしろ並以上に魔力のある丈夫な身体だった。
「きっとあなたのお父様の無愛想なところが似たのね」と、ウルリクの母は心配ないと分かってほっと息をついた。ウルリクの父もまた、寡黙な人だったから。
しかし、ウルリクが言葉を喋るようになった時、ウルリクに対する母の印象は大きく変わった。ウルリクは寡黙どころか、大層なおしゃべりさんだった。
あれはなに?これはなに?今日はね、こんなことがあって……と、小さなお口は止まらない。
時々、ぽーっとしているところがあったり、何かを見つけて飛び出していく。楽しいこと、面白そうなことを自分から見つけて喜ぶ。そんな子供らしい子供だった。
1つだけ変わっている点を挙げるとすれば、それはやはり表情がぴくりとも動かないところだった。
「そのよく動くお口と一緒に、お顔も動いてくれたら良いのにねえ」
そう言ってウルリクの母は、ウルリクのぷにぷにのほっぺたを揉むのだが、その効果はいつになっても現れないのだった。
月日は流れ、ウルリクが8歳になるとその高い魔力を買われ、魔術学院に入学することとなった。全寮制の学院生活に不安はあったが、ウルリクは期待を胸にその門をくぐった。
入学してすぐに、生徒の能力を見るための測定が行われた。
透明な水晶に手をかざすと、色やその輝きが変わり魔力の属性や量を測ることができる。
次々と生徒が測定されていく中、ついにウルリクの番が来た。どきどきしながら手をかざす。
水晶は少し青みがかった白色に色を変え、輝かしく光り始めた。
それを見たウルリクは、昔訪れた雪山の別荘を思い出していた。朝、目が覚めるとまだ誰の足跡も付いていない新雪ふり積もっていて、その雪に日の光が降り注ぐ。雪に光が反射してきらきらと光っている。それに似ていた。
そんなことを思い出しながら、目の前の光景にきれいだなあ、と目を奪われている横で教員達は何か騒いでいた。「100年に1人の逸材だ!」とか、「しかも珍しい氷魔法……これは将来が楽しみだ」とか色めき立っていたのだが、ウルリクはあまりちゃんと聞いていなかった。
「お前、すごかったな」
席に戻ると、隣に座っていた男子生徒が話しかけてきた。少し興奮したような彼を見て、ウルリクは自分と同じようにあの光景に感動していたんだと思い、嬉しかった。
「うん。雪みたいで綺麗だったよね。でも、君のもたき火みたいで良かったよ」
ちょうどウルリクの前の順番だった彼の水晶の輝きを、ウルリクはよく覚えていた。
冬の寒い夜、てらてらと闇の中で赤く燃え、時々、ぱちぱちと木の弾ける音がする。そんなきれいなたき火。
彼の手をかざした水晶の中で、ゆらゆらと赤く色づいていたその光はそれに似ていた。
そう思って感動を彼に伝えたのだが、一瞬固まったように表情を止めた彼の顔はみるみると不愉快そうなものに変わっていった。
「何だよそれ、嫌みかよ。自分がちょっと能力あるからって偉そうに」
そう吐き捨てると、彼は席を立ち別の場所へと移っていった。
ウルリクは、彼が何故突然に怒ったのか分からなかった。
それからも、同じようなことが何度もあった。
ウルリクが凄いと感じたこと、楽しいと思ったこと、心が動かされたことを口に出して伝えるたびに、相手は嫌な顔をしたり、怒ったり、疑ったり。
そんなことばかりだった。
何度も繰り返しているうちに、ウルリクは嫌でも気づく。
原因は自分のこの無表情のせいだと。
母から顔が動かないとよく言われていたが、そのことについてそこまで深刻に考えたことはなかった。
こんなことが問題になるとは思っていなかった。
ここの生徒は母とは違い、ウルリクを知らない。
無表情で平坦な口調で、つまらなそうに楽しいと、感動したと、凄いと宣う。それも少々独特なウルリクの感性を言葉にして。
それが彼らの知るウルリクの全てだ。
ウルリクが色々なことに心から感動してそれを自分の感じたままに言葉にして伝える。そういう人間だと知らない生徒達は、ウルリクの気持ちも思いも正しく理解することができなかった。
ウルリクが彼らを見下しているとか、馬鹿にしているとか、そんな風に伝わってしまっている。
自分のこの動かない顔面や感情の起伏が現れないこの口調がいけないのだと、色々と変える努力をしてみたものの少しの成果も出なかった。
また、感じてなどいないくせに心にもないことを、と陰口を言われているのを耳にした。
自分は本当にそう思ったから、皆にも伝えようと思ったのに。
自分が感じたこの素敵な気持ちまで否定されてしまうことが、とても悲しかった。自分の気持ちが嘘だと言われ、無くなってしまうようで辛かった。
だから、ウルリクは伝えるのをやめた。
自分の中だけでこの感動を味わい続けられればそれで良い、そう思った。
それに、自分が口を開くことで、他人を少なからず傷つけていた。
皆、笑っていた顔から、眉は寄り口角は下がる。そんな表情を相手にさせてしまっている。自分の顔面はぴくりとも動かないのに。
だから、自分は何も口に出さない方が良いのかも知れない、そう思った。
ウルリクの特徴に無表情に加え、無口が足された。
つまらない人間。何を考えているか分からない。何にも心を動かされない“心のない人間”。
そんな風に自分が言われていることをウルリクは知っていたが、どうでも良かった。
自分の中には確かな感情がある。
他人には分かって貰えなくとも、自分だけはしっかりと分かっているから。
それで良いと思っていた。
友人の一人も出来なかったウルリクは、学生時代は魔術の鍛錬と研究に明け暮れ、単純な魔力だけではない、圧倒的に優秀な魔術師になっていた。
最難関といわれる王宮魔術師の試験にも軽々合格し、どんどんと出世していく。
いつの間にか、“冷酷魔術師”と呼ばれるようになっていた。
ウルリクは背も伸び、知力も魔術も存分に成長したが、表情筋だけは全く成長をみせなかった。
子供らしさが抜けて大人に近づくにつれ、その顔は怖さが増していった。
決して厳つかったり、極端に目つきが悪いというわけではないのに、美形ならではのすごみのようなものが恐ろしさを際立たせていた。その一点においてのみ、顔面は成長を見せていた。
今では目が合うだけで怯えられる。それは少し悲しかったが、当たり前のことと慣れてしまえば気にすることもなくなった。
***
「ウルリク、あなたそろそろ結婚したらどうなの?」
久々に領地に帰った時、母が呆れたようにそう切り出してきた。もう何度目のやり取りだろう。
ウルリクは王宮勤めであるため、王都にある別宅に両親とは離れて暮らしている。そして、領地に帰るたびに母は何度も同じ事を言うのだ。
続いていた戦争も勝利に終わり、比較的国の情勢も落ち着いてきた最近、結婚の話を至るところで耳にする。
教会の神父は大忙しだろうなと他人事で考えるだけでいられたら良かったのに。
ウルリク自身も自分が結婚適齢期だということは分かっている。功績もあげたし、役職も申し分ない。むしろ、していない方が不自然だ。
ウルリクだってできるものなら結婚したい。正直、自分の家庭というものには憧れていた。温かくて尊い、大切な場所。なんて素晴らしく魅力的なものだろう。
だが、結婚したくてもできないのだ。
ウルリクが無口無表情な“冷酷魔術師”であるから。
こんな自分とは結婚はおろかお見合いすらしてもらえない。
母がお見合いの話を至るところに出しては断られているのを知っている。自分のためにしてくれていることは有り難いが、もう諦めた方が良いのではないだろうか。
そんな風にウルリクは思っていた。
それは一言も声にしなかったのだが。
ウルリクは何も言わない方がいいと思ってから、意識的に思ったことを口に出すのをやめた。言いたい、と思っても思いとどまり口を噤む。
そうしているうちに、いつの間にか意識しなくても何も口に出さなくなっていた。
そして、いつの間にか、意識しても思ったことを口に出せなくなってしまっていた。
でも、そうだとしても何も不都合はない。
もう、誰かに何かを伝えたいと思うこともない。だから、それでも良いと思っていた。
母とも話せなくなってしまったが、元々寡黙な父を相手にしていた母にとっては無口になったウルリクも大差ないようだし。
「ということで、結婚の前にお見合いをしてみましょうか。ここに、そのお相手の写真があります。ランセン伯爵家の一人娘、イェシカ・ラルセンさん。あなたとのお見合いを受けて下さったの」
また小言を言われるのだろうかとうんざりしていたところ、思ってもみなかった話が聞こえてきて、ウルリクは驚いた。
今まで一度も受け入れたことのないお見合いを受け入れてくれる女性が現れたというのだから。
まさに青天の霹靂。それはそれは驚いた。目を見開いたりなどはしていないのだけれど。
「もちろん、この話進めて良いわよね」
「……ああ」
何かの間違いで受けてしまったのかもしれない。
それなら気の毒だが、それでもウルリクはこの初めての“お見合い”というものにわくわくしていた。
写真を見る。この人がイェシカ・ラルセンか。可愛らしい人だな。
会ってから怖がらせたりしてしまわないだろうか。一緒にお茶を飲んだり、庭を歩けたりしたらいいな。
お見合いは上手くいくだろうか。いかないだろうな。それでも、少しでも楽しかったと思って貰えたらいいな。
そんな風にウルリクは想像を働かせていた。
そして、心の奥の方で、上手くいけばいいな。
この人の夫になれたら、と少しだけ期待していた。
気の早いことを、といわれるかもしれない。
でも、口に出さなければ何の問題も無い。
自分の中だけの大切な気持ち。自分が分かっていればそれでいい。
実際には、今考えたことの1つだって実現しないだろうけど、考えるだけならいいだろう。
だって、誰にもこの自分の心は分からないのだから。
………それでも本当は、誰か一人だけでもいいから、この自分の心を知ってくれる人がいればいいのに。
ウルリクは密かに、そんな叶うはずもない願いを胸に抱いていた。