心を知る3
子供の頃から心の声が聞こえたイェシカであったが、屋敷の者には恵まれていた。イェシカの家族は心優しく、皆、イェシカを可愛がってくれた。態度としても心の声としても同じように。
また、わりと大ざっぱな性格の両親だったので、イェシカが心の声を聞いたような行動をすることがあっても、不思議な子だな、などと思うだけだった。イェシカにそんな力があるということには、気が付いてはいなかった。
そんなのどかなランセン伯爵家ですくすくと育ったイェシカは10歳になり、パーティーや社交界に参加するようになっていった。これまでとは比べものにならないくらいの多くの人に触れ、イェシカの世界が広がった。
そして、外の世界には色々な人がいるのだと知った。
笑顔の裏で、心の中では酷い罵声を浴びせる。思ってもいない賛辞を述べる。嫌っている者に好きだという。
実際の声とはちぐはぐな心の声があちらこちらから聞こえてくる。
その時のイェシカには分からなかったが、“社交の場”であるこの集まりでは、特にそういった本音と建て前が入り乱れていたのだろう。
だが、そんなことを知らないイェシカは、普通の人間であれば触れることはない、人間の深く黒い部分に至近距離で対面し、大いに傷ついた。
そしてそのことは、まだ幼く多感な時期であったイェシカには受け止めきれず、これ以上傷つかないために心を閉ざした。
目の前の態度とはばらばらの心の声であったとしても気にせず、何を言っていたとしても動じなくなった。
薄笑みを浮かべて相手の欲しい言葉を紡げば、相手の心の声は大概好意的であったので、そうすることがイェシカの癖になっていた。
自分が望んでいることに応えてくれるイェシカは、社交界やパーティーでは人気者となっていた。イェシカの周りはいつも人で溢れていた。
大抵はそんなイェシカに対して好意的な人物であったが、人気者のイェシカを羨み、妬む者もいた。
そんな人物達と上辺の挨拶をしながら聞こえてくる心の声が耳を塞ぎたくなるような酷い言葉だったとしても、イェシカは笑みを少しも崩さず、動じず、何も感じなかった。
イェシカの不思議な力にとって、心を閉ざすことはイェシカが壊れないために確かに必要だったのかもしれない。
けれども、悲しみを感じなくなる代償として、イェシカは喜びも怒りも楽しさも感じなくなっていた。
好意を寄せてくれる相手を前にして、その相手が心の声でも嬉しくなるような言葉を述べているのに、イェシカは何も感じない。
笑みを崩さずに相手に向けるだけ。
いつだって浮かべることのできるこの薄笑みは無表情と同じ。
感情に揺さぶられて現れた笑顔ではないのだから。
イェシカは周りには多くの人がいるのに、自分だけ仲間外れで一人ぼっちのような、社交の場は苦手だった。
何より、もう疲れてしまっていた。
そんな時に舞い込んで来たのがウルリクとの縁談だった。社交の場から離れる良い機会だと思ってしまった。
何も感じないように生きてきて、いつの間にか感情といったものがどういうものが忘れていた。
もう、感じなくても良いと思っていた。
それなのに、イェシカはウルリクと出会って、共に過ごすうちに、感情がどういったものかを再び教えられるようだった。
ウルリクと一緒に本を読み彼が物語りに心を打たれると、その気持ちがイェシカにも流れ込み感動したような気分になる。
ウルリクと一緒に食事をとり、同じ物を食べている時、彼が舌鼓を打ち命の恵みに感謝していると、イェシカも“美味しい”と、胸が温かい気持ちになっているような気がしてくる。
ウルリクの中で沸き上がった感情が、イェシカの感情だと錯覚する。それは自分の感情ではないことは分かっている。
それでも、彼の感情を共鳴していることを心地良いと感じていることは、紛れもない自分の心だった。
***
「……どうかなさいましたか?」
ウルリクとイェシカは寝室を共にしている。1日の終わり、ベッドに横になりながらその日にあったことを話す。
といっても、声を出しているのはイェシカだけなのだが、ウルリクも心の中でその日あった面白かったこと、感動したことを思い返す。
それが日課となっていた。
いつもはベッドに入ると、そのふかふかさに満悦し、話が楽しみだと上機嫌な気持ちが伝わってくるのだが、この日はウルリクにしては珍しく、落ち込んだ感情が流れてきた。
彼の心の声に耳を寄せると、どうやら今日の会議で先の戦争で得た、ウルリクの戦果の話題になったらしい。
そして、周りの物達はウルリクを賞賛し、国の勝利に執着する、他を顧みない非道さに感嘆の声を上げたという。心の声が聞こえないウルリクだが、本心では自分のことを恐れ、罵っていると分かるような態度で。
ウルリクは先の戦争でその圧倒的な力を持ってして、一瞬にして敵の一個隊を壊滅させた。しかし、それはこれ以上国民への被害を出さないための苦肉の策だった。
ウルリクはその動かない表情から察されることはなかったが、敵とはいえ他人を傷つけるこの選択がとても辛かった。
国のためとはいえ、傷つけた人々に対して罪の意識は消えること無く、心を痛め続けていた。
味方である自国の人間から恐怖の目で見られることも、苦しかった。
そんなウルリクの心の声が聞こえた。
苦しみ、悲しみ、後悔、自責の念などの深く思い彼の感情が伝わってきた。
泣きたいのに泣けない。泣くわけには行かない。
それでも、涙を流す彼の心がイェシカに共鳴された。
「……何か、お辛いことがあったのですね。私には、ウルリク様がお辛そうにしているのが感じられます。悲しくて、苦しくて、どうしようもなくて押しつぶされてしまいそうな程なのですね。……その気持ち、私にも一緒に背負わせていただけませんか?」
イェシカは隣に横になるウルリクをぎゅっと抱きしめる。
その言葉はイェシカの本心からの言葉だった。
イェシカはウルリクのあたたかで豊かな感情が好きだ。そんな感情を一緒に感じさせてもらってきた。
でも、それだけではなくて、彼の感じる悲しみや苦しみも全部知りたい。ともに感じたい。
それに、彼のそんな気持ちを少しでも代わりに請け負えたら。そんなことを思って。
ウルリクから驚きの感情が伝わってくる。
心の声も出ないほどに。
そして、だんだんと驚きで混乱した気持ちが消え、悲しみや苦しみの感情も薄れていき、あたたかな感謝の気持ちが伝わってきた。
(……ありがとう)
今にも泣き出しそうな、彼の声が聞こえた。
でも、その涙はきっと虹の架かった空に降り注ぐ、あたたかなお天気雨のようなものだろう。
だからもう大丈夫だ。
ウルリクの腕がそっとイェシカに回される。
そして、イェシカのことをぎゅっと優しくも力強く抱きしめた。イェシカにウルリクの温度がよりいっそう伝わった。
「イェシカ」
耳元でウルリクの声が聞こえた。
心の声ではない、彼の少し低く、それでも氷のように透き通った肉声。
そんな声でイェシカの名前を呼んだ。その声に続く言葉はない。
それでも、イェシカにはちゃんと聞こえた。
(……好きだ。大好きだ。愛してる)
そして、ウルリクの胸が燃えるような、それでいてふわふわの毛布で優しく包む込むような、そんなあたたかい感情が伝わってきた。
イェシカの心臓もどくん、といつもより早く、強く脈打ち、胸が熱くなってくる。そんな気持ちが感じられた。いつもの共鳴するようなあたたかな感覚。
だが、少しだけいつものものとは違ったような違和感を覚えた。
(……違う。これは違うわ。ウルリク様の感情は別でちゃんと感じる。同じようでいて、少しだけ違う感覚。これは、私自身の感情なんだわ)
ウルリクのイェシカを好きだという感情。
イェシカもウルリクに対して、それと同じ感情を持っていることに気が付いた。
イェシカはウルリクを好きだという自分の心に気が付いた。
「……ウルリク様。私もあなたのことを愛しております」
ちゃんと、あなたの気持ちは伝わっていますよ。
そんなことを伝える気持ちで、言葉を紡いだ。
そして、心を無くしていた自分の中に芽生えたこの感情が伝わってほしい。
そんな想いを込めて。
抱きしめ合う二人の間はお互いに温め合い、さらにぽかぽかと熱を増していた。