伝えたいを知る2【side Ulrik】
「私、本当はずっとウルリク様ともっとお話したいと思っていたんです」
夜、いつものようにベッドで隣に横になるイェシカがそんなことを言い出した。
イェシカはいつもウルリクに話しかけてくれていたじゃないかと疑問に思っていると、イェシカは少し拗ねたように言った。
「そうじゃなくて、いつも私ばかりお話ししていたじゃないですか。ウルリク様もその日にあったことを心の中で話していてくれてお互いに届いているけど一方通行というか……でも、これからはお互いに受け取りながら話せますね」
(そうか……イェシカは俺の日々の話も聞いてくれていたのか……)
「はい。勝手に聞いてしまっていました。ウルリク様のこと、少しは分かっていると思いますよ」
イェシカはいたずらっぽく笑った。
そんな普通の会話みたいな返答に、ウルリクは嬉しくなった。
何気ない会話のキャッチボールでさえ、ウルリクは上手く出来ていなかったから。
これからはもっとイェシカと話せる。
イェシカが言っていたことが、すっと実感できた。
「……それで、ウルリク様。私、ずっとウルリク様の話の中で気になっていたことがあるのですが……」
イェシカがそう切り出したのは、ウルリクがずっと前に気にしていて、それでいて忘れかけていた、思ってもいない出来事だった。
ウルリクの王宮でされていたある噂について。
“冷酷魔術師”のあだ名だけでなく、それにあやかるように、生まれた時にすら泣き声を上げなかったのではないかという噂についてを。
その噂が盛り上がっていたのは、もう数ヶ月も前のことだ。だが当時、ウルリクはその噂を聞いて思い悩んでいた。
両親に確認したことはないが、自分は本当に産声を上げなかったんじゃないかと思った。
感情表現がこんなにも出来ない自分ならありえそうとも。
そして、そんな普通の生まれ方をしていない自分だから、こんなにも人間らしくないのかもしれないとも。
そんな風に落ち込んでいた日、確かにベッドの中でそのことを考えていたような気がした。
ウルリクすら忘れかけていたことを、イェシカが覚えていて、ずっと気にしていてくれたことに驚いた。
「何て馬鹿な噂をするのだろうと思いました。赤子は皆、生まれた時には羊水を吐き出して肺に空気を入れるために泣き声を上げるのですよ。ウルリク様だって産声を上げたに決まっているじゃありませんか」
(そうか、そうだったのか……良かった)
「そうですよ。それに、ウルリク様は普通の人よりももっと豊かな感情をもった人間らしい方なんですから」
ぷりぷりと不満げなイェシカには申し訳ないが、それを聞いてウルリクは胸が弾んだ。
馬鹿な事ではあるが、自分が本当に人間では無くて別の生き物なのではないかと思う時があったから。
イェシカが否定してくれて、そんな馬鹿な考えは吹き飛んでいった。
そして、ウルリクのそんな噂に対して怒ってくれるイェシカが嬉しかった。
(……また、イェシカと何処かへ出掛けたいな。今度は何処へ行こうか)
「私も行きたいです。ウルリク様となら何処へでも」
(俺もイェシカとなら何処へだって行きたい。でも、そうだな……また、きれいな場所があれば良いなあ)
「そうですね……では、ラルセン家の所有する湖の近くのコテージはどうですか?早朝の湖は輝く様で、とてもきれいなんですよ」
それはとても良い。
楽しそうだなあと思うと、ウルリクが何も言わずともイェシカは笑ってくれた。
そんな幸せな日常がずっと続いていくものだと、この時のウルリクは信じて疑っていなかった。
***
たった板一枚の隔たり。
それがとても分厚く、こんなにも距離が離されているようにも思える。
ウルリクは閉ざされた扉をトントン……と控えめにノックした。
「イェシカ……」
声をかけると部屋の中から布すれの音がして扉の前まで近づいてきたことが分かったが、その扉が開くことはなかった。
「ごめんなさい、ウルリク様。まだ、体調が優れなくて……」
「そうか……」
数日前から、イェシカはこんな調子だった。
部屋に閉じこもり、顔を見せようとしなかった。
オークランス家の領地に訪れてから一月ほどはイェシカはいつも通り、いや、それまで以上に楽しそうに2人の日々を過ごしていた。
しかし、ある日突然、ウルリクの隣で目覚めたイェシカは気分が悪いと言い出した。
その顔色は、今にも倒れそうなくらい青白かった。
すぐに医者に診てもらい、大事はないということは分かったものの、療養のためにウルリクと部屋を別にすることにした。
それから、イェシカは部屋に籠もっている。
使用人さえ必要最小限にしか中に入れようとしない。
心配だが、こういった時どうすれば良いかウルリクは分からなかった。
イェシカはそっとしておいて欲しいと言う。
身体に障ってはいけないし、そうした方が良いのかもしれないと思い、様子は見に行くものの無理に中に入ろうとはしなかった。
「また来る」
そうとだけ伝えて、ウルリクは扉に背を向けた。
―――ぐすっ
そんな声が聞こえた気がした。
いや、確実に聞こえた。
イェシカの泣き声が。
そう思ったら考える間もなくウルリクは踵を返し、扉の数歩横の壁に手を付くと、氷魔法で破壊していた。
パキパキと氷の欠片と化した壁が崩れ、壁には大きな穴が空いていた。
「どうして、泣いている」
壁に開けた穴から部屋の中に入ったウルリクは、扉に背を預けて涙を流していたイェシカに近づいた。
責めるような口調になってしまったが、イェシカならウルリクが心配する気持ちを分かってくれるだろうと思って。
そんな思いでイェシカを覗き込んだ。
しかし、ウルリクと視線の合ったイェシカはその涙に濡れたピンク色の宝石の様な瞳を見開き、表情を歪めて目を反らした。
「分からない……分からないんです!誰の心も、あなたの心も。急に分からなくなってしまったんです」
叫ぶようにそんな風に声を絞り出して、イェシカは肩を震わせた。
「こんな能力、別にあってもなくても良いと思っていました。でも、無くなってしまったらこんなにも怖い。人に会うのが。皆、何を考えているのか分からないのがこんなにも怖いなんて」
悪い想像ばかりしてしまうと、信じられないとイェシカは言った。
「それに、力の無くなった私になんて何の価値もない。あなたの心が分からないなんて。あなたの心が分からないと言って、あなたを傷つけたくなんてないのに……ごめんなさい……」
ごめんなさい……と何度もイェシカは繰り返した。
俯くイェシカからは、ぽたりぽたりと涙が滴っていた。
イェシカは突然訪れた今までとは違う世界に恐怖し、不安に駆られ取り乱していた。
涙で睫毛を濡らし、細い肩を震わせながら。
それでも、自分のことでいっぱいいっぱいであろうその状況の中で、イェシカはウルリクのことを考えていたのだった。
(俺は馬鹿か……!)
ウルリクは自分自身を殴りたい気持ちでいっぱいだった。
ウルリクはこんなにも苦しんでいるイェシカに、まだ分かってもらおうという受け身な気持ちでいた。
そんな自分を恥じた。
だが、反省は後だ。今はそれよりもすることがある。
ウルリクは膝を付き、イェシカの手を取り、イェシカを見上げるように決心して上を向いた。
「イェシカ……好きだ。イェシカの笑った顔、一緒に楽しんでくれるところも、優しい言葉をかけてくれるところも全部。他にも言い表せないくらい全部……今まで、伝えられなくてごめん」
ウルリクはたどたどしく、ゆっくりとだが確実に自分の心を言葉にした。
イェシカはウルリクの心が分からない自分には価値がないといった。
とんでもない。
人の心が分からないのは特別なことではない。普通のことだ。
今までがウルリクがイェシカに甘えていただけ。
人間、皆誰しも自分の心を伝えたいと思う時がある。
そんな心を伝える手段として、言語というものが生まれたに違いない。
それを使おうとしないで、心を分かってもらおうなどとは、何という怠惰なことだろうか。
「イェシカは俺のそばにいてくれるだけで良い。それだけで幸せなんだ」
伝えたい。伝わって欲しい。
彼女の涙が乾き、再びその顔に笑顔が咲いて欲しいから。
イェシカに出会うまで、こんな気持ちになったことはなかった。
伝わらないならしかたがないと諦めた。
誤解されても、きっとその誤解は解くことができないだろうから弁解しなくても良いかと口を噤んだ。
だから、こんなにも自分の気持ちを自分の言葉で伝えたいと思うのは初めてだった。
ウルリクの突然の言葉にイェシカは驚き、ぽかんとした表情をしていた。
きっと、まだ言葉が足りないのだろう。
「ずっと……俺はイェシカに甘えて、自分から伝えるということをしなかった。それでいて、イェシカに分かってもらおうなんて最低なことだったんだ。だから、イェシカは何も気にしなくて良い。これからは、ちゃんと、俺が君に言葉で伝えるから」
心臓がばくばくと大きな音を立てる。
心を言葉にするのは、こんなにも緊張して、怖くて、不安で、胸の中が熱くなることだっただろうか。
それでも、伝え続けたい。
イェシカの不安を少しでも取り除きたいと、必死になって言葉にした。
「1つだけイェシカにお願いしたい。俺の言葉を信じて欲しい。俺は君に嘘をつかない。俺が嘘をつけないことなんて、君は分かっているだろうけど。俺を信じて」
なりふりなんて構っていられない。
自分の持てる全てを出したようなそんな懇願。
ウルリクはじっとイェシカの様子を見守った。
ぽかんとした表情をしながらウルリクの言葉を聞いていたイェシカは、だんだんとその頬を緩めていった。
「……そうですね。ウルリク様は嘘なんてつけない素直な方ですものねえ。私……ウルリク様の言葉だけは全部、信じられる気がします」
そう言って、イェシカは控えめな笑みを浮かべた。
うん。約束する。絶対、君に嘘をつかない。
君がそう言ってくれるから。
下手くそな言葉でしか伝えられないかもしれないけど、全部、この心を君に伝えるから。
ウルリクはこの胸の気持ちを伝えようと、再び言葉を紡いだ。