ふがいなさを知る1【side Ulrik】
イェシカはいつもにこやかだ。
どんな時も穏やかな笑みを浮かべている。そんな優しく、柔らかいイェシカのそんなところをウルリクは好ましく思っていた。
だが、自分はまだ本来のイェシカを知らなかったのかもしれない。
と、ウルリクはそう思った。
目の前の彼女がこんな風に口を開けて、こんな風に声を上げて笑うとは想像もしていなかった。
いつもの微笑みを浮かべているイェシカはどちらかといえば感情の起伏が緩やかで、怒っているところや落ち込んでいるところも見たことがない。明るい人なんだと思っていた。
だが、それと同様に、笑うときも小さな波が立つような穏やかな海のようだった。
だから、声を上げて笑うイェシカを見てウルリクは驚いた。
イェシカにそんな一面があったということに。
細い身体のどこに、そんな力強いほどの感情が隠れていたのだろうか。
本当にあのイェシカなのかと疑ってしまいそうなほどだった。
でも、目の前の彼女は、他にもないイェシカだ。
貴族の女性としては、あまり良いとは言えない笑い方かもしれない。そうであるけれども、ウルリクはそんなイェシカの笑い方が、一瞬で好きになった。
それにきっと彼女のこの姿を知っているのは自分だけだろう。自分だけにこの姿を見せてくれているのだと思うと、心から嬉しかった。
手を伸ばし、イェシカを引き起こそうとしたときに、逆に引っ張られてしまった時は本当にびっくりした。
くすくすと楽しそうに笑うイェシカに、怒る気持ちなんて全く起こらなかったし、転ばされたウルリクまで楽しい気持ちになった。
イェシカが教えてくれた自然の神秘も素晴らしかった。
それから、イェシカは子供の頃の話をいっぱいしてくれた。
山に虫を捕りに行って迷子になってしまった話、初めて刺繍をした時自分の服まで一緒に縫ってしまっていた話、料理長と一緒にお菓子を作って見た目はよくなかったけど、両親も他の使用人達も皆おいしいと言って食べてくれた話。
どの話も面白かったが、とても楽しそうに話すイェシカを見ているだけでウルリクも楽しかった。
―――ちゃぷっ
尽きない話を聞いているのは楽しかったが、何やら水の音が聞こえ、ウルリクは身を起こした。
もともと海藻の上に寝転んでいたので地面も服も湿っていたのだが、地面の湿潤度が明らかに増している気がした。
どこからか水が流れ込んで来ているのかと洞窟の入り口を振り返ると、ウルリクは目的も忘れてその光景に目を奪われた。
暗がりから明るい洞窟の外に海が見える。まるで、空と海を切り取って岩の額縁に入れたような絵画のような景色にウルリクは見とれていた。
「……すみません。少し、良くないことになったかもしれません」
隣のイェシカも身を起こし、先程までの楽しげな声は鳴りを潜め、洞窟の外を見つめながら深刻そうにそう言った。
ウルリクはその言葉で、自分が確認しようとしていたことを思い出した。
いけない。そうだった。
水がどこから来たのか確かめようと思っていたのだった。
一つの物事に感動すると他のことが疎かになってしまう癖は気を付けているつもりだった。
仕事を始めてからはこの癖が出ないようになっていたのだが、イェシカといると安心してつい癖が出てしまったみたいだった。
イェシカはいつだって分かってくれるし、いつでも感動してもいいと言ってくれているような気がするから。
それでも今はこの状況に気を引き締めないといけない。
イェシカと二人、立ち上がって洞窟の外を確認してみると………外は来た時の道が無くなっていた。岩の道が海に水没してしまっていた。
「すみませんここは引き潮の時だけ来られる場所と知っていたのですが、こんなに早く満ち潮になってくるとは思わなくて………あまりにも楽しくて、時間を忘れてしまっていました」
申し訳なさそうにイェシカがそう謝る。
だが、イェシカからこの場所についてそう話を聞いていたウルリクにも、時間を気にしなかった責任はあるのだから、イェシカだけが悪いわけではない。
それに、イェシカが時間を忘れてしまうほど楽しんでいたということが嬉しかった。
先程、2人組の男に言われたことをウルリクは気にしていた。
イェシカに素晴らしい洞窟に連れてきてもらったことで気が紛れてきてはいたが、イェシカが笑いながら楽しいと伝えてくれた言葉、それに今言ってくれた言葉で、ウルリクは本当にイェシカがあの2人よりも自分といる方が楽しいと思ってくれていることが分かった。
「全部私の不用意な行動のせいだし、ウルリク様もそんなことで喜んだりしなくて良いのに………それより、どういたしましょう?このままここにいたら、足が着かない高さまで水が来てしまいそうですし」
最初にぼそりと呟いたイェシカの声はウルリクには聞こえなかった。
それより……と気を取り直したように、イェシカは洞窟の外の岩の壁で藻が生えている位置を見ながらそう言った。そこまで、水が来ることを予測したのだろう。
イェシカは本当に物を知っているし、状況判断が的確だなと、またイェシカの新たな一面を知った。
そして、のんびりとした性格の自分よりも、よっぽど役に立って優秀なんじゃないだろうかと、密かに思った。
そんなのんびり者のウルリクは、ようやく真剣に考え出す。
そしてすぐに、まあ大丈夫だろうと結論づけた。それに、やるなら早い方が良い。
「大丈夫だ。このまま、歩いていく」
ウルリクはそう言ったあとで、はっとする。
これでは言葉が足りな過ぎではないだろうかと不安になった。
まだ、今はそれほど水が来ていないとはいえ、膝の高さくらいの水位はあるだろう。
水の中を歩いて行けば歩きにくく、歩く速度も水が増えるごとに格段に遅くなるだろう。
それに今は波がまだ低いとはいえ、その中を歩けば波にさらわれる危険もある。
イェシカだったら、水位が上昇しつつある海の道の中を歩くのが、愚かで危険なことだろ分かるだろう。
そんなことを考え、言葉を足そうかと思った時、ウルリクよりもイェシカの方が先に口を開いた。
「分かりました。行きましょう。よろしくお願いします」
そう言って、ウルリクに両手を広げた。
少しも疑ったりせず、ウルリクを全面的に信頼していると示すように。
胸が痛くなるほどの気持ちがこみ上げてくるが、今はそんな時間が無いことは分かっている。
イェシカを抱き上げると、イェシカはウルリクの首に腕を回して抱きついた。
「行くぞ」
一言そう伝えると、ウルリクは海に沈んだ道に足を踏み入れた。
―――パキパキィィ
ウルリクの足が海水に触れる直前、流動していた液体が固まり、小さな音を立てながら固体になっていった。
そう、ウルリクは氷魔法を発動させ、海の水を氷に変えてその上を歩こうというのだった。
一歩、また一歩と踏み出す度に海水は凍り足場が出来る。
ウルリクは造作も無くやっていることだが、これはほとんど誰にも真似できないことだろう。
だが、ウルリクは当然というように、海の上を歩いたのだった。
「ウルリク様………すごいです。綺麗です」
耳元でイェシカが感嘆の声を漏らす。
表情は見えないが、きっと驚いているだろう。普通の者は、魔法など見る機会はほとんどないから。イェシカも、もしかしたら魔法を初めて見るのかもしれない。
ウルリクの氷魔法は使い方次第で毒にも薬にもなる。
そして、その強大過ぎる力は恐れを抱かれるものだ。
それでも、ウルリクはイェシカに魔法を見せる時、少しの不安もなかった。
イェシカだったら、笑って受け入れてくれると思っていたから。