楽しいを知る3
この海岸には、あまり知られていない名所があるという。
それが、イェシカ達が向かっている洞窟。
引き潮の時だけ道が現れ、辿り着くことが出来る特別な洞窟だ。
実はイェシカはこの辺りに暮らす人の心の声を聞いて、そのことを知っていた。そして、今の時間は丁度その引き潮だということも。
イェシカは普段はあまりこのように、他人の心の声で得た情報では行動しないようにしていた。勝手に人の心を盗み聞きし、自分のために使うのは不正な行為に感じ、抵抗があった。
自分のために行動するときは、きちんと実際の耳で聞いた情報だけを情報として使う様にしていた。
だが、今回はどうしても落ち込んだウルリクの気分を戻したいと思い、その手段を使ってしまった。
ウルリクの気分が少しでも紛れればいいと思って。
少し話を聞いただけだったので、迷うかも知れないと思ったが、迷うこと無く目的の洞窟と思われる場所に辿り着くことが出来た。
岩の壁がずっと続いていた海辺を歩いていくと、その壁にぽっかりと大きく穴が空いたような洞窟があった。海蝕洞というらしい。岩の弱い部分が波風によって削られて出来たらしい。
そんな受け売りの知識をイェシカがウルリクに説明すると、イェシカは物知りだという尊敬の思いと、自然の神秘はすごいなあという感情が伝わってきた。
イェシカは尊敬されるどころか、むしろずるいことをしているのにと思いつつ、ウルリクが珍しい洞窟に興味を持ち、気分が上を向き始めていたので良かったと思った。
洞窟に入ると太陽に日差しが遮られているためが、少しひんやりとしている。
ここまで歩いてきて火照っていた身体に吹く、涼やかな潮風も相まって気持ちが良かった。
ウルリクもそんな場所に来て、段々と調子が回復してきたみたいだった。
ウルリクには暗い気持ちじゃなくて明るい気持ちでいてほしい。
イェシカはそう思っていつも以上にウルリクに話しかけた。洞窟の中を見渡して、あれは何でしょうね?これは何でしょうね?と、ウルリクが興味を引かれそうなものを見つけていく。
そんなことをしているうちに、イェシカは何だか既視感のようなものを覚えた。
前にもここに来たことがあるような………
あれは、いつのことだっただろうか。
「イェシカ……?」
「……あ、いえ。何だかこの光景に見覚えがあるような気がしまして。小さい頃に訪れたことがあるような……」
急に話を止め、立ち止まったイェシカはウルリクにどうしたのかと声をかけられるが、イェシカはそれをあまり気にする余裕もないほどに、他のことで頭がいっぱいだった。
一度思い出すと、だんだんと霧が晴れていくように少しずつその記憶が呼び起こされた。
(そうだわ。あれは社交界デビューをするよりずっと前、私がもっと小さかった頃のことだわ)
イェシカは小さい頃に両親とこの洞窟に訪れたことをはっきりと思い出した。
あの岩の形も、この道の感じも。
そしてこの先には、とっておきの場所があったはずだ。
どんどんと一致してくる記憶に、イェシカは少し興奮気味になる。
早くウルリクに見せたい、そう思った。
「ウルリク様。この先にもっと素晴らしい場所があったはずです。ほらっ、あそこに……」
「イェシカっ!」
その場所を見つけたイェシカはほらっ、と思わず駆け出していた。
と、同時にウルリクがイェシカの名前を叫んだ。
「えっ……きゃあ!」
その場所の洞窟の地面は、海藻が茂るように生えており、足下に注意せずに走ったイェシカは足を滑らせた。
勢いよく転んだイェシカは尻餅をつくどころか、ひっくり返り地面に大の字で仰向けになっていた。幸い、海藻のおかげで少しも痛くはなかったが。
あまりにも予想外の出来事にイェシカは起き上がることもせず、目をぱちくりとさせていた。
「大丈夫か……?」
イェシカに危なげなく近づいたウルリクが、イェシカを心配して覗き込む。
そんなウルリクとばっちり目が合った時、イェシカの胸の内から何だかこみ上げてくるものがあった。
「……ふふっ………あははははは!まさか、こんな風に転ぶなんて………あははははは!」
そして、イェシカは声を上げて笑い出した。
ウルリクからぎょっとしたように驚いた感情が伝わってくる。でも、イェシカは笑い声を止めることなんて出来ない。気にせずに笑い続けた。
だって、こんなにも可笑しいのだもの。
大人になっても、こんな風に転ぶなんて。
前にここに来た時も、はしゃいで同じように転んで両親に怒られた。
イェシカはその時のことを、はっきりと思い出した。
あの時もとても楽しかった。楽しくて、楽しくてしょうがなかった。
そう思い出した時、イェシカは自分の中の感情が分かった。
今もその時と同じ、いや、その時以上の感情が自分の中にあるんだと。
「ウルリク様。私、楽しいです。とっても。こうやって旅行に来られて、綺麗な海や洞窟を見られて楽しいです。でも、なにより、そんな素敵な経験をウルリク様と一緒に出来ることが楽しいんです。ウルリク様と一緒にいることが、私にとって一番に楽しいことです」
倒れたイェシカを引き起こそうと手を伸ばしたウルリクに、イェシカは笑いの余韻が残るような実に楽しげな声でそう伝えた。
そして、イェシカはウルリクの伸ばした手を掴むと、えいっとその手を思いっきり引っ張った。
そんないたずらをしてみた。
不意を突かれたウルリクは足を滑らせ、イェシカの隣に転んだ。
楽しい。ああ、なんて楽しいんだろう。
ウルリクのことを子供っぽいところがある人だなと思ったが、自分も存外子供のようではないか。
いたずらが成功したイェシカはくすくすと笑いながら、そんなことを思う。
イェシカの横に倒れ、呆気にとられたままのウルリクにイェシカは上を指差した。
仰向けになり、視線を移したウルリクから感動が次々にイェシカに伝わってくる。
その部分の天井は、一部だけ岩が欠けていて青い空が見えた。
そして、その欠けた形は愛を示す印に似ていた。
本当にウルリクといるのは楽しい。
イェシカはその光景に目を奪われるウルリクを見つめながら、そのことをゆっくりと噛みしめた。