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生活

作者: アルミ缶


目覚めはいつも通りだった。

時刻は8時半。カーテンを開ける。あいも変わらず曇り空だ。ここ数日、晴れ間とは無縁の日々が続いている。

布団をもぞもぞと抜け出して男はシャワーを浴びる。寝ぼけ眼が一気に冴えていく。

歯磨きをする。身だしなみを整える。

そのあとに目覚めのコーヒーを一杯。とびっきりブラックなやつを淹れる。


部屋の中で一呼吸つく。この時間が男には至高だった。自宅にいようが、旅先だろうが、この時間は毎日の生活において欠かせない。


やがてコーヒーを飲み干すと、男はコートを羽織って外へと繰り出す。


フロントに鍵を預けるとボーイは行ってらっしゃいませ、と頭を下げた。男も軽く会釈をする。

モーテルの外に出ると木枯らしが体にしみた。冬が近い。


石畳の上をコツコツと歩く。今日も此れと言って行く当てはない。

しばらく道なりに続く緩い坂を登っていくとパン屋がある。中に入る。もう見慣れてしまった店の内装。

昨日も一昨日も、こちらにきてからというもの、このパン屋にはかれこれ毎日通っている。


ベーグルをお盆に乗せる。ここのベーグルは香ばしくてとても美味しい。それと他に適当にいくつか選んでレジに持っていく。レジの女性店員はパンを紙袋に詰めながらテキパキと清算をしてくれる。彼女ともこちらに来てから毎日顔を合わせている。


紙袋を受け取ると、男はまた何処へともなく歩いていく。目的地は適当だ。今日も男はこの小さな港街を放浪する。


森の方へ行った先にある教会でお祈りを捧げた日もあった。港へ向かって波の音とカモメの鳴き声、潮風の匂いとともに散歩をした日もあった。昨日は、繁華街の方へ向かってみた。だんだんと都会の喧騒が強まってきて、気分が浮かなくなって途中で引き返したが。


しかし、どこへ行った日も必ず最後はこの、運河沿いに続く遊歩道にあるベンチにたどり着く。

そこで一息ついて、朝買ったパンをいただくのだ。


黒猫がどこからともなく姿を現して男にすり寄ってくる。これもいつものことだった。

男はベーグルをひとかけちぎって、足元に放り投げる。彼は競合相手もいないのにそそくさとそれを突っついてあっという間に平らげる。こんな風におすそ分けしてやるのももう1週間連続となる。そうするとどうも彼も味をしめてしまったようで、今日なんかはもうひとかけちょうだい、とねだるようにベンチの上に飛び乗って男を見つめてくる。

男は彼の要求に快く応じる。彼はこのベーグルの素晴らしさを共有できる貴重なこの街の友人だ。


食べ終わった後も男はそのままじっと座って時を過ごす。

何かを考えている時間もあれば何も考えずただ空を見つめている時間もある。ひたすら贅沢に時間を消費していく。

そうして夕焼けが雲を暗く染める頃になって、男はようやくベンチを立ってモーテルへと戻る。


部屋に戻ってからも、男はゆっくりと時を過ごす。ルームサービスを頼み、腹を満たしたあとはベッドに腰掛け、持ってきた本のページをめくる。そうして夜が深まったら、そのまま電気を消して就寝する。


これが男のここ数日のルーティーンだった。


男は休暇中だった。

普段は証券マンとして日に何十億も動かし、画面とにらめっこしていた。だが、毎日毎日、身を粉にして働いていた男は、あるとき急に自分がなぜこんなことをしているのかわからなくなってしまった。

この世界に自分が何も寄与していない、必要とされていない感覚に襲われた。そして、それと同時に男は視界から色を失った。男の瞳には、何を見ても白黒映像しか映らなくなってしまった。

医者に診断してもらったが、原因は不明だった。「疲れが蓄積しているのは間違いない」と医者は言った。「一度仕事のことを忘れて、競争とは無縁の生活を送ってみなさい」


そうして男は休暇を取ってこの辺鄙でのどかな港町にやってきたのだ。ちょうど1週間前のことだった。


ここまで過ごしてきたが、相変わらず男の視界に色が戻る気配はなかった。


***


次の日、目覚めはいつも通りだった。

時刻は8時半。カーテンを開ける。あいも変わらず曇り空だ。

布団をもぞもぞと抜け出して男はシャワーを浴びる。寝ぼけ眼が一気に冴えていく。

歯磨きをする。身だしなみを整える。

そのあとは目覚めのコーヒーを一杯。とびっきりブラックなやつを淹れる。


コーヒーを飲み終え、いつも通りボーイに鍵を預け行きつけのパン屋へと向かう。


ベーグルといくつか適当なパンを乗せてレジへ。


「今日から新作が出たんですよ」


いつもの女性店員におもむろに話しかけられた。


「ベーグルと同じくらいオススメです」


そう言って彼女はにっこりと笑う。


彼女の推薦通り新作のオニオンロールを買うと男は、今日はまっすぐに運河沿いの遊歩道へと向かった。


ベンチに腰掛けて空を見上げていると、今日は早かったなとでも言うように、いつもの猫が姿を現した。猫は男の膝の上にピョンと飛び乗って、あいにくまだお腹は空いてないんだ、と喉をゴロゴロ鳴らして横になる。


「お前、そんな綺麗な色してたんだな」


男は、薄青みがかったグレーの毛並みをゆっくりとかいた。



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