令嬢は今日も幸せです
ラブコメをいっぱい書いたので、ビターな話を書いてみました。
メイド×令嬢はいいものですよね。
ざまぁ要素は薄味になっているかと思います。
私、アリシアの一日は、寝床の中で心地よい匂いを感じるところから始まる。
気分が安らぐ匂いだから思わず二度寝してしまいそうになるけれど、お父様は不摂生には厳しい。匂いを感じながら眠りに落ちる誘惑を振り払って、私は体を起こした。
夢を。
大事な夢を見ていた気がするのだけど、ベッドから出た時にはどこかに消えてしまっていた。
「おはようございます、アリシア様」
起きた私に、挨拶の声がかけられる。
声がした方を見れば、ちょうどメイドのリーナがお茶を淹れているところだった。
すん、と小さく鼻を動かせば、煎じられた茶葉の匂いを感じる。目覚める直前に嗅いだ匂いであることを確かめてから、私はリーナに向かって笑みを浮かべた。
「おはよう、リーナ」
「今、朝のお茶をご用意しています。そちらに水桶と布を準備していますので、どうぞ顔をお洗いになってください」
「ええ」
リーナに促され、私は水桶が置いてあるテーブルに向かう。
用意された水で顔を洗っている間も、リーナの手はてきぱきと動いた。
まるで魔法のように目覚めのお菓子を準備して、ティーカップにお茶を注ぐ。リラックス効果があるという特製のお茶が、今まで以上に強く香った。
お茶が準備されているテーブルに近づけば、そっと椅子が引かれる。そこに腰をかければ、朝のお茶の時間の始まりだ。
まず手を伸ばすのはティーカップ。
お茶の熱が移って温かくなった取っ手を掴み、縁に口をつける。
ふわりと。口と鼻腔の中に、少しだけ青臭さと苦味があるさわやかな香りが広がった。
最初はその青臭さと苦味が苦手だったけど、今ではそれも含めておいしいと感じている。
お茶を味わった後は、お皿に盛られた小さな焼き菓子に手を伸ばす。花の蜜が香るそれは、軽い音とともに私の中の口の中に香ばしさと甘さをもたらした。
お茶を飲み、焼き菓子を口に運ぶ。
その行程を繰り返していけば、ちょうど焼き菓子がなくなったタイミングでお茶も飲み終えた。
「ふう……」
小さく息をつく。
そんな私を見て、リーナが小さく笑みを浮かべた。
リーナは普段無愛想だけど、ふとした瞬間に微笑んだ時は花の蕾がほころんだように綺麗だ。
だからもっと笑ってほしい。
そう思うのに、今日もまた微笑みは愛想がない表情の下に隠されてしまった。
「アリシア様。今日の午後は、旦那様のお客人がお見えになります」
無愛想に戻ったリーナが、今日の予定を告げる。
「お客人はアリシア様にも出迎えを希望されていますが、どういたしますか?」
「お父様のお客人でしょう?娘ですもの、もちろんご挨拶するわ」
「わかりました」
私の言葉に恭しく頭を下げた後、リーナはテーブルを片付け始めた。
準備の時のように、魔法を思わせる手つきで瞬く間にお茶は片付けられていく。それを眺めながら、どんなドレスに袖を通せばお客人をもてなせるかを考えていた。
午後。
お客人がお見えになる時刻になったので、私はお父様とともに屋敷の玄関に向かった。
もちろん、リーナも一緒だ。彼女はいつだって、私の傍にいる。
「失礼します」
他のメイドが扉を開ければ、供を連れた一人の青年が立っていた。
凛々しい顔立ちをされていらっしゃるけど、虫の居所が悪いのか、不機嫌そうに顔を顰めている。
それが少し怖かったけど、お父様のお客人に無礼を働くわけにはいかない。
私はリーナとともに選んだドレスの裾を小さく持ち上げると、恭しく頭を下げた。私がお辞儀をしたのを見ると、お父様もまた軽く頭を下げる。
「本日は、我が屋敷へようこそ。アリシア、この青年はハリス・デイビス殿だ」
「はじめまして、ハリス様。わたくし、アリシア・ミラーと申します」
「……はじめましてではない」
私の挨拶に、ハリス様は声を低くしてそう零された。
不快感が露わになったその言葉を聞いて、私の顔から血の気が引く。けれど、慌てて謝罪の言葉を口にしようとした私、お父様がそっと制した。
「ハリス殿。それは禁句だと約束したでしょう」
「だが、これで何度目だと思っているっ。一体いつになったら……!」
「ハリス様」
今度は、リーナが静かに呼びかけた。
「望んだのは、ハリス様です。ゆめゆめそれをお忘れなきよう、不躾ながら進言させていただきます」
「……っ」
その言葉に、ハリス様はきつく唇を引き結ぶ。
そして私のことを睨むように強く見た後、今にも泣き出しそうに眉根を寄せられた。それを見て胸がツキンと痛んだけど、どう声をかけていいかわからない。
困っていると、お父様が優しく私の肩を叩いた。
「アリシア、もう部屋に戻っても大丈夫だよ」
「は、はい…。その、ハリス様、申し訳ありませんでした」
「……いや、いい」
肩を落としながらそう言うと、ハリス様はお父様に続く形で歩き出す。
私とすれ違う時、彼はそっと左手を持ち上げた。その薬指には、丁寧な細工が施された銀の指輪がはめられている。
婚約者がいるのだろうか。
その指輪を見て小さく首を傾げていると、今度はリーナにそっと肩を叩かれる。
「アリシア様、顔色が優れませんよ。お部屋に戻って、お茶にいたしましょう」
「ええ、そうね。お願いしようかしら」
確かに、少し疲れたような気がする。
リーナの言葉に頷くと、私は部屋の方に向かって歩き出した。
部屋に戻ると、リーナはいつものように魔法使いみたいな手際でお茶を用意してくれた。
気持ちが安らぐ、心地よい匂いが部屋の中に広がる。その匂いを嗅いでいると、さっきまで感じていた疲れが和らぐのを感じた。
ふう、と小さく息をつく。
そんな私の前に、そっとお茶が入ったティーカップが置かれた。
「どうぞ」
「ありがとう、リーナ」
リーナにお礼を言ってから、私はティーカップを持ち上げ、縁に口をつける。
口の中に広がる、青臭さと苦味の混ざったお茶の味。喉を鳴らせばさわやかな香りが鼻から抜けて、お出迎えで強張っていた肩がほぐれてくのがわかった。
(……あれ?)
そういえば私は、誰をお出迎えしたのだろう。
ついさっき会ったはずなのに、まるで靄がかかったかのように思い出せない。
「アリシア様」
首を傾げていると、リーナの優しい声が私を呼んだ。
視線を向ければ、綺麗な微笑みを浮かべているリーナの顔が目に映る。彼女の笑顔を見つめながらお茶の香りを嗅いでいると、疑問はどこかに去ってしまった。
もうその人のことは思い出せない。
そもそも私は今日、リーナやお父様とお母様以外に誰かと会っていただろうか。
うん、そうね。今日も私は、大好きなリーナやお父様とお母様とお会いした。大好きな人達と安らかに過ごせるなんて、とても幸せなことだわ。
「リーナ」
「なんでしょうか、アリシア様」
「今日もおいしいお茶をありがとう。私、幸せよ」
幸せな気持ちを伝えたくて、リーナに笑いかける。
リーナは少し目を丸くした後、優しく、綺麗な笑顔で微笑み返してくれた。
「ええ。私もです」
○○○
私、リーナの一日は、主であるアリシア様が就寝したところで幕を下ろし始める。
安らかな寝息を立てるアリシア様の寝顔を見つめてから、音を立てないよう、彼女が眠る前に飲んでいたお茶を片付けた。
茶筒を確認すると、茶葉の残りは少なくなっている。
「明日にでも、補充しなければ」
そう言って茶筒の蓋を閉めてから、ベッドでお休みになっているアリシア様を見やる。仰向けに眠る我が主の寝顔はとても安らかで、幸せそうだ。
彼女は知らない。
一人の人間を――ハリス・デイビスを忘れることで今の安らぎが成り立っていることを。
そして私は、否、私だけではなく旦那様や奥様も、アリシア様が彼のことを二度と思い出さなくてもいいと思っていることを。
アリシア様がハリス様のことを忘れてから、半年の月日が流れようとしていた。
二人は小さいころから結ばれることが決まっていた、いわば婚約者の間柄だった。家同士の仲を取り持つための婚姻だったけど、アリシア様はハリス様を心から好いておられたし、ハリス様もアリシア様のことを想っていた。
両家の婚約は、順風満帆に思えた。
そこに亀裂が走ったのは、お二人が学校に入学された時。
アリシア様は特待生として入学した平民の少女と交流を持ち、ご友人になられた。新しくできた友人を婚約者であるハリス様に紹介するのは自然な流れだったが、その当たり前が歯車を狂わせた。
少女は、アリシア様とは気質も見た目も正反対だった。
だからこそお互いにないところを補うように親しくなったのだろうけど、その正反対さは家柄に不自由さを感じていたハリス様にはたいそう魅力的に映ったらしい。
ハリス様は、その少女を強く気にかけ始めた。
時にはアリシア様との約束を反故にし、彼女との約束を優先するほどに。
「ハリス様との逢瀬は、なくなったわ。お忙しいようなの」
アリシア様が悲しげに目を伏せてそう零した翌日、少女と仲睦まじく街を歩くハリス様を見た時は、信じられないと思ったものだ。
旦那様に進言しようかと考えたこともあった。
しかし、メイドである私がこんなことを言うのは差し出がましい。何より、真実がアリシア様の耳に入り、彼女が心を痛めることが嫌だった。
何せ、婚約者と新しい友人、両方から裏切られているのだ。
その痛みは、約束を嘘の言葉で反故にされた辛さとは比べ物にならないだろう。
物珍しさからくる一時的な火遊び。
私はそう思って、見たものを胸に秘めた。
それが間違いだったと知るのは、数ヶ月後。
あの男はあろうことか、アリシア様との約束があった日、少女を家に連れ込んで自室で情交に及んでいたのだ。あまりのショックにアリシア様は気を失い、供として同行していた私は寸前のところでアリシア様を受け止めた。
ハリス様はそのことを謝らなかった。
それどころか、両家の婚約を取り消せないものかと申し立てた。無論、今さらハリス様の私情で破棄できるものでもなく、その申し立ては却下されたが。
それでも少女を諦めきれなかったのか、ハリス様はしばらく彼女を囲った。
アリシア様との友情を忘れ、不義の恋に夢中になっていた少女はそれを受け入れた。
貴族が平民を囲い、火遊びに興じるのはよくある話ではある。ただし、ハリス様と少女、少女とアリシア様の関係を知る者は当人達を除けば私だけだった。
「あれくらいの時分では、気が移ろうのも致し方ない。一時的なものだろう」
不服を零した奥様に、旦那様はそう返した。
私はハリス様の不義がどれだけ罪深いかを告げようとしたが、それを止めたのは他ならぬアリシア様本人だった。
「きっといつか、ハリス様の心は私のところに戻ってきてくださるわ」
その言葉が傷心を誤魔化すために紡がれたものであることは、一目瞭然で。
だからこそ、私は何も言うことができなかった。
そうしてアリシア様が傷つき、疲弊する一方、ハリス様はアリシア様のことを見舞うことは一度もなかった。
少女は美しかったが、その美しさはどうやら節制を強いられる平民だからこそ維持されていたものらしい。アリシア様の文を届けに来た私が久しぶりに見た少女は貴族の贅沢にすっかり溺れ、美しさはすっかり衰えていた。
憔悴していながらもハリス様のために美しさを保つことを欠かさなかったアリシア様とは対照的で、ハリス様はそんなアリシア様に再び心を戻していたようだった。
調子がいい話だけど、それでも素直に不貞を謝ればまだ許せただろう。
しかし、ハリス様はあろうことかさらに酷い仕打ちをアリシア様にした。
「これは薬草を煎じて作った薬茶だ。嫌なことを忘れられる効能がある。これを飲んで、あの日のことは忘れるんだ」
久しぶりにアリシア様の元を訪れた日。
ハリス様はそう言って、茶筒をアリシア様の目の前に置いた。
あの日のことをなかったことにしようとしたのだ。
おそらくは、アリシア様の心労を消すためではなく、いざという時に自分が不利になる秘事を覚えられていては困るという理由で。だってハリス様はその時でさえ、自らの不貞をアリシア様に謝りはしなかったのだから。
「……わかりました」
アリシア様はハリス様の言葉に頷き、私に先に飲ませず、まずは自分が飲んだ。
あの日の横顔を忘れることはないだろう。
諦念と絶望に彩られた、儚い微笑みを浮かべていた横顔を。
あの瞬間、アリシア様の心はハリス様から完全に離れたのだ。
それは、目撃してしまった不貞だけではなく、ハリス様自身のことを「嫌なこと」としてアリシア様が忘れてしまったことで証明された。
婚約者のことを忘れる。
そこまで事が大きくなれば、もはや隠しきれるものではない。
私も今までのことを洗いざらい、旦那様に話した。
結果として、アリシア様の記憶が戻るまでの間、婚約は一時的に解消された。加えて、デイビス家の者が原因でアリシア様が大きな心的外傷を得たとして、ミラー家に有利になる契約が結ばれた。これもまた、アリシア様の記憶が戻れば解消される。
ハリス様のことを忘れたアリシア様は、いっそう美しくなった。
アリシア様はハリス様のことを好いていたとはいえ、ハリス様はそれに明確に応えたことはなかった。両想いという保証がなかった婚約は彼女に負荷を与えていたのだろう。その負荷から解放されたアリシア様は、とても幸せそうだった。
美しくなったアリシア様を諦めることができないのか、あるいはデイビス家の当主に睨まれたのか。
ハリス様は足繁くミラー家に通っていたけれど、ハリス様と一緒にいるとアリシア様の体調が優れなくなる。今では一緒にお茶を飲むことさえ旦那様が許可せず、ああして入り口のところで顔を合わせるだけになっていた。
「んぅ……」
「おやすみなさいませ、アリシア様」
寝返りを打つ主を微笑ましく見つめながら、片付けを終えた私は明かりを消し、アリシア様の部屋を後にした。
手に持つのは、中身が少なくなった茶筒。
アリシア様には、リラックス効果があるお茶だと説明している。
旦那様達にも、そういう効能のお茶だと話してアリシア様に飲ませる許可をいただいている。
このお茶が、かつてハリス様が持ってきたものと同じであることを知っているのは、私だけだ。
(ええ。二度と思い出さなくていいのです)
あの男がアリシア様の幸せに不要であることは、この半年でよくわかった。
ならば、思い出す必要などどこにあるのだろうか。
――――私、幸せよ。
昼間、アリシア様が口にされた言葉を思い出す。
その言葉に、あの笑顔にそうするように、茶筒を強く抱きしめた。
「ええ。私もです」
愛しい愛しい、アリシア様。
ずっと、幸せでいましょうね。