誕生日はクラゲとともに
今回はキラ星さんの視点です。
ずっと付いていた傘マークが外れた。その日は雨の予報だったのだけれど、前日のこの日、天気予報から傘マークが消えた。とは言っても、晴れるわけではない。けれど、雨が降らないのなら“良し”としようか。ただ…。
一足先に待ち合わせ場所に着いていた僕は二人分の乗車券とグリーン券を購入した。改札口前で待っていると、後ろからポンと肩をたたかれた。
「お待たせしました」
僕を見つけて駆け寄って来る姫の姿を想像しながら振り向くと、いつものように可愛らしい笑顔の姫が居た。
「あ、おはようございます。切符は買ってあります。なので、早速行きましょう」
「はい。行きましょう」
二人で改札を抜ける。
「お弁当を買いますよね?」
「はい。お弁当を買います」
駅構内のエキュートでそれぞれ好みの弁当を買う。
「ここは私が払いますよ」
「ダメですよ。今日は姫の誕生日なんですから」
「いいんです。キラ星さんには切符を買ってもらいましたから」
そう言ってさっさと会計を済ませる姫。
「お茶も買いましょう」
「お茶でいいんですか? シュワシュワってしたやつの方がいいんじゃないですか?」
「そうですね。シュワシュワのやつにしましょう」
ここでも姫が会計を済ませる。
ホームに降りる。既に電車が入ってきていた。
「どうしますか? 乗りますか?」
「この電車には二階建てがありませんね」
「ありませんね」
「次の電車を待ちましょう。すぐに来ますから」
一本乗り過ごして次の電車を待つ。グリーン車でお弁当食べながら行く。今回のお出かけはそれも目的の一つだから。すぐに次の電車が入って来た。
「今度は二階建てがありますよ」
「ありますね。乗るのはもちろん二階ですよね」
「はい。二階です」
平日の昼間なので空いている。この手の電車はグリーン車でも座席指定がない。グリーン券を持っていても満席だったら座れない。
「空いていてよかったですね」
「平日の昼間ですからね」
電車に乗り込み二階へ上がる。姫が窓際に、僕は通路側に並んで座る。
「早速いただきましょう」
「まずは乾杯ですね」
二人同時に缶のプルトップを開ける。缶を合わせて乾杯。それから弁当を広げて顔を見合わせる。姫の嬉しそうな顔がたまらなく愛おしい。
目的地までに一度乗り換える。その後は地方鉄道に乗る。地方鉄道に乗り換えるときに姫が考え始めた。この辺りを周遊するのに便利でお得な切符があるのだという。行き先や順番を考えながら計算した結果、お得な切符を買った方がいいということになった。その切符を買って地方鉄道のホームへ。観光地でもあるこの辺りは平日のこんな時間でも混み合っている。そのほとんどは外国人なのだけれど。
電車に乗ってから間もなく海が見えて来た。晴天とまではいかなくても遠くまで澄んだ景色がそこに広がっていた。
この沿線の駅は映画やテレビドラマの舞台になっている場所が多い。人気アニメの名場面に使われた場所の最寄り駅で電車を降りる。そこにはカメラを持った観光客であふれていた。そんな場所には見向きもせずに姫は歩いて行く。
「今日はたくさん歩いて貰いますよ」
出発する前に姫がそう言っていた。姫が幼少期を過ごした場所を案内したいというのも今日の目的の一つだから。海辺を離れて山道を歩いて行く。閑静な住宅街に入る。
「こうやって歩いていると、僕たちはどこかのセレブとそのセレブに物件を案内している不動産屋さんみたいですね」
「それ、いいですね。本当にそんな感じに見えますね」
この日は平日で僕は午前中、普通に仕事をしていた。仕事は早めに終えたので待ち合わせ時間を繰り上げてやって来た。だから僕はスーツに革靴。もちろん、セレブは姫で僕が不動産屋なのは言うまでもない。
道中、姫が色んな場所で色んな思い出を話してくれる。それを聞くたびに僕が姫と仲良しになった時間を過去へと誘ってくれているようにも思える。
「坂道ばかりですけど大丈夫ですか? 足は痛くないですか?」
普段から足に爆弾を抱えている僕を姫は気遣ってくれる。
「大丈夫です。姫と一緒だったらどんな場所でも平気です」
一瞬、姫が立ち止まる。
「もう! キラ星さんったら! こんなに至近距離でそんなことを言わないでください。本当に恥ずかしいんですから」
そう言って顔を赤くする姫。そんな姫が可愛くて愛おしい。僕はそんな姫が見たくてわざとこういう言葉を口にする。それを口にする僕がそれなりの容姿やさりげなさを兼ね備えているのかということは考えないで欲しい。とにかく、少なくとも姫はそんな僕を真面目に受け止めてくれる。
思えば、僕が姫を姫と、そして、姫が僕をキラ星さんと呼ぶきっかけになった七夕の日、姫は一人で彦星さんを思いながらここを歩いていた。今は僕が姫の隣を歩いている。それが姫にとって幸せなことなのかはまだ判らない。ただ、少なくとも、今、姫の隣に居るのは彦星さんではなくて僕なのだということ。僕にとってはそのことに大きな意味がある。別に彦星さんに喧嘩を売ろうというわけではないのだけれど。
姫が当時住んでいた家の前まで来た。既にその家はもうない。思い出だけがそこにはある。その思い出が永遠に姫の心の中で、いい思い出としてあり続けられるように僕が少しでも役に立てればいいと切に願う。
「あとは下りです」
「大丈夫でしたよ。少しだけ息が切れましたけど」
「少しだけですか?」
「少しだけです!」
少し坂を下るとモノレールの駅があった。そこから海辺までモノレールで移動する。姫が大好きなお日様は出ていないけれど、雨が降っていないことがまだ救いだ。
モノレールを降りると、海岸までの通りはおしゃれなお店が立ち並ぶ。
「そろそろ吸いたいんじゃないですか?」
「大丈夫ですよ」
タバコを吸う僕がずっとタバコを吸っていないことに対して姫が気遣ってくれる。その気遣いが嬉しくてタバコなんてどうでもよくなってしまう。
通りかかったコンビニで水族館のチケットが安く買えるのだというのを知った。
「ここで買っていきましょう」
水族館。今回のメインイベント。本当は姫が見せたかったのはこの海岸からの夕日だった。けれど、あいにくの天気。夕陽を見ることが出来なかったのは残念だけど、姫と一緒に居られる時間は僕にとってどんな景色よりも輝いたものだということを僕は自信を持って言える。
「ここは僕が払います」
「ダメです。私が来たいと言ったのだから、自分の分は自分で」
そう言って会計を済ませた僕の上着のポケットにお金をねじ込んだ。そんな姫を僕は尊敬する。前の彼女は財布を出すことすらしなかったから。
「姫の誕生日なんだから…」
「いいんです。その代わり帰りの切符はキラ星さんが買ってください」
なんだか騙されたような感覚のまま、僕はいつも姫の笑顔にごまかされてしまう。
姫が楽しみにしているのはここに展示されているクラゲ。以前から水族館に行くのならクラゲが見たいと子供のように目を輝かせて話をしていた。
「この前、テレビでここが紹介されていましたよ」
「本当ですか?」
「はい。それで、その時にここを案内していたさかなクンが言っていました。ここはで世界でだか日本でだか初めてシラスを飼育しているんだって」
「そうなんですか! さかなクンが言っていたのなら間違いないですね。では、シラスも見ましょう」
入館して順路に従って歩く。いつものように姫はひとつひとつの展示を時間をかけて丁寧に観察していく。同じ展示を見るのに僕もいつものように姫に体を添わせて同じ場所に顔を置く。いつものように触れるか触れないかの微妙な距離を保ちつつ。
シラスの水槽は順路の最初の方にあった。本当にシラスだった。すごく美味しそうだったのだけれど、この姿を見てしまったらシラス丼を食べる気にはならなかった。まあ、それも一時のことだったのだけれど。
大水槽の前に差し掛かった時、ちょうどダイビングショーが始まった。ダイバーの女の子が水槽の中で魚たちと遊ぶ様子がガラス越しに見られた。ショーが終わった後もしばらく大水槽を眺めていた。これもさかなクンが言っていたのだけれど、この大水槽で悠々と泳いでいる真イワシもここで初めて飼育されたのだとか。その真イワシの群れの見事な行進はいつまで見ていても飽きることがない。
「このまま見ていたら終電に遅れます」
「そうですね」
ようやくその場を後にする。実際は閉館時間まで居ても終電に乗り遅れることはない。そして、いよいよクラゲのコーナーにやって来た。色んな種類のクラゲが優雅に浮かんでは沈んでを繰り返していく。ここにきて姫の足が完全に止まった。時間を忘れてクラゲを見つめている姫の姿を僕はじっと眺めながら姫の後を金魚の糞のように付いて回った。姫にこんなに見つめられているクラゲに軽い焼きもちを妬いていたのは姫には内緒だ。
『間もなく最後のイルカショーが始まります』
そんなアナウンスが流れて来ても姫はクラゲから離れようとはしない。イルカショーにはちょっと心が動いたけれど、どんなイルカだって姫の可愛さにはかなうはずがない。そしてあっという間に閉館時間になった。外に出ると辺りはうす暗く、空からぽつりと雨の雫が頬に落ち始めた。本当だったらここで綺麗な夕陽を見るのが最大のイベントだったのだけれど…。夕陽を見る機会はいつかきっと訪れる。でも、そんな夕日よりも僕は姫の方がきっと綺麗だと思う。
帰りの電車の中で姫はうたた寝をしている。今、姫が夢を見ているのだとしたら、そこにはきっと無数のクラゲが登場しているに違いない。悔しいけれど、今日だけは僕も彦星さんもきっと出番はないかもしれない。






