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空を泳ぐ海洋動物

作者: りな

 不眠症は色々な疾病の症状の一つだという。その多くは心理的なもので、精神科を訪れる人も少なくない。

 精神科は他の医療機関とは違う。初診では何の病気なのか、明確に判断できないからだ。大抵、初めて精神科を訪れた患者はデパスやリーゼといった弱い抗不安薬を処方されて、意味があるのか分からないカウンセリングを受けて、それで終わり。

 自分がうつ病なのか、統合失調症や境界性人格障害といった重い病気なのか、知らされない宙ぶらりんな状態で社会に放り出される。


 こう言っている私も、その一人なのだけれど。


 私は溜息をついた。ブルーのPTPに包まれたリーゼをウーロン茶で流し込んだ後の、自分の無力感。精神科に受診するというのは、社会の目が許さないと言うよりも個人的な敗北感の方が強い。

 十人十色とはいうものの、自分は十人の中でも劣った色だと思い知らされる瞬間。初診で医者に貰った精神科の冊子は、まるで私に刻まれた社会不適合者の烙印のようでさえあった。

 無論、周りを見れば、自分より「劣った」人間はいるのだろう。それでも、社会一般の「平均」から叩き落とす精神科通院歴が消えるわけでは無いのだ。

 私はやりきれない敗北感を抱えたまま、薬を薬局で貰った紙袋にかたづけた。明日も大学の講義がある。

――今日は、眠れると良いのだけれど。

 私は電気を消し、ベッドに横になった。薬は酒とは飲み合わせが悪いから、寝酒をするわけにはいかなかった。


 ベッドに横になって天井を眺める。私はいままでどれだけこの無駄な時間を過ごしてきただろうか。

 暗い中で考え事をしていると、嫌なことばかり思い出す。今までの失敗、今までの恥。振り切ろうとしても振り切れない、嫌な思い出たち。それでも薬のおかげか、私の意識は少しずつ薄れつつあった。

 小学校の教室。中学に通っていた頃の学校の最寄り駅。今は縁の切れた友達。彼氏が吸っていた煙草の箱。泳ぐペンギン。

――ペンギン?

 私は薄れゆく意識の中で少しだけ疑問に思った。私はそんなにペンギンに思い入れなんてあったっけ?

 なんとなく、嫌な予感がした。一度起き上がろうとする。

 身体が、動かない。

――金縛りだ。

 私は思った。金縛りなんて、生まれてから一度もあったことが無い。なんとか抜け出せないか、身体を動かしてみると、どうやら瞼だけは動くことが分かった。

 どうやら視覚までおかしくなっているらしく、天井の模様が揺らめいて見えた。そのなかで、白く動き回る影があった。

――ペンギンだ。

 私は少しだけ残った感性で、それを見た。天井の模様は、水面だった。私は底から見上げる形で、泳ぐペンギンを見ていた。白く見えていたものは、ペンギンの腹だった。


 昨夜はいつの間にか眠っていた。翌朝、けたたましいスマートフォンのアラームで起きた私は顔を洗い、薄く化粧をして、トートバッグに荷物を詰め、玄関から外に出た。

 自分の目に映った物が、信じられなかった。

 空を、巨大な魚が泳いでいた。サメと言うには不格好な太い身体に、白い斑点があった。

――ジンベエザメだ。

 私の少ない海洋動物の知識でも、それが分かった。よく見ると小さな魚の群れが電柱に纏わり付くように泳いでいるし、花壇に珊瑚が生えていたり、風で駐車場に生えた海藻が揺れている。

――どうやら、私の頭は本当におかしくなってしまったらしい。

 私は空を泳ぐ海洋動物を見ながら電車に乗った。とりあえず、今日は大学に行かないわけにはいかないのだ。今日は自分のゼミ発表がある。とてもじゃないが、精神病のせいで今日のゼミに出席できないなんて、教授には言えない。

 駅から大学までは徒歩五分。私は大勢の学生に交じって大学に向かった。

 ふと、道から逸れた路地の先に、動く物が見えた。だいたい、1mと少しの、白い影。

 シロイルカの、子供だった。ゴミ捨て場にあるカラス防止の黄色いネットに尾びれが引っかかって動けなくなっていた。

 私は少し逡巡してから、煙草をトートバッグから取り出した。「きちがい」に見られないための、最後の私の理性だった。

 私は火を付けたばかりのそれを咥え、ゴミ捨て場に近づいた。

 藻掻くシロイルカの背をゆっくりと撫でる。不思議な感覚だった。手にはその触感はないのに、頭ではその触感を感覚している。存在しないけれど存在する、そんな不思議な感覚だった。

 シロイルカは私の存在に気付いたのか、少しだけおとなしくなった。私は煙草の火をアスファルトに押しつけて消し、黄色いネットを持ち上げる。

 引っかかっていたネットを取ってやると、シロイルカは優雅な動きで空へと舞い上がる。

 しばらく私の上をぐるぐる回ったあと、シロイルカはどこかへと泳いでいった。

 私は煙草をゴミ捨て場の適当なゴミ袋にねじ込んで、大学への道を急いだ。


 一日大学で過ごして、分かったことがあった。どうやらこの幻覚の海洋動物は、私に危害を加えないこと。スマートフォンのカメラには写らないこと。そして彼らは、他の人間には見えていないこと。

 私が言えに戻ることが出来たのは、夜八時のことだった。研究室の大掃除に付き合わされた私は、疲れ果てていた。

 着替えることも忘れて、私はベッドに倒れ込んむように横になる。

 今はまだ、天井は「天井」だった。水面ではなかった。

 こんな時に眠れたら、どれだけ良かっただろうか。疲れ果てて、何もせずに眠れたら、どれだけ良かっただろうか。身体中の筋肉の疲労信号に従って、全ての感覚を捨て去るのは、何と贅沢なものだろうか。

 起き上がろう、と思った。簡単な夕食を済ませて風呂に入って、精神科の薬を飲み、ベッドでまた悶々とした時間を過ごすのだ――

 持ち上げようとした腕が、動かない。

 私は舌打ちしそうになった。それをしなかったのは、舌まで金縛りで動かなかったせいだ。

 私は反射的に、天井を見た。またあの水面が見えるのだろう――そう思っていた。


 天井は、「天井」のままだった。

 代わりに、真っ黒い肌の女が、天井に立っていた。


 悲鳴すら上げられなかった。代わりに、喉から空気が抜ける、気の抜けた音が出た。

 女の髪は、重力に従って垂れ下がっていた。真っ黒い肌に、眼球の充血した白目の部分だけが妙なコントラストを成していて、半開きの口から黄ばんだ歯が見えた。


 今まで体験したことのない恐怖。殺されるとか、レイプされるとか、そういうものとは全く違う恐怖。

 身体は言うことを聞かない。足の指先すらも、動かない。


 はらり、とカーテンが揺らいだ。白い影が、薄暗い部屋に滑り込んでくる。

 それは三匹のシロイルカだった。黒い女が振り返るより早く、シロイルカはがぶりと黒い女に噛みついていた。

 暴れようとする女をシロイルカはぶんぶん振り回した。壁に女を叩きつけて、それを数回繰り返した。

 三匹の内、もっとも小さい個体が私のすぐ上まで泳いでくる。表情筋を持たないイルカだが、どういうわけか、私は彼が笑っているように感じた。

 三匹のイルカは女を咥えたまま、空を泳ぎ、夜の闇に消えていった。


 何回かの診察と、DSM-IVというテストを経て、私は統合失調症と診断された。

 嫌が言うには、統合失調症の症状は多岐にわたるからそういった幻覚を見ても不思議ではないという。加えて、金縛りに遭っている間の幻覚――入眠時幻覚――も、決して珍しい症状ではないそうだ。

 事実、向精神薬の類いを飲み始めてからはもう海洋動物を見なくなった。それはとてもいいことなのだけれど、私はあの黒い女との遭遇を忘れられそうにない。


 あの真っ黒い女は、私自身の顔をしていた。

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