748 ティンバイの過去1
なにもない荒野を1人の少年が走っていた。その手には年季の入ったモーゼルが握られている。
「殺してやる、絶対に!」
獣のような目をした少年だった。まだ年端も行かぬ彼は、夜の荒野を駆ける。前にも後ろにも人はいない。
普通ならば彼も家で寝ているような時間だ。いや、それどころか誰もが寝ている時間だろう。
だというのにこんな物騒なことを言いながら駆けている少年には、事情があった。
「それで彼女を連れ戻す!」
彼の名は張天白。将来の大馬賊であるが、このときはまだモーゼルを撃ったこともない少年だった。
それでもティンバイには殺さなければならない相手がいた。
それはこの地域を支配する金持ちの男だ。
なぜ彼がこの男を殺さなければならないのか、答えは簡単だ。この男がティンバイから愛する女性を奪ったからだ。
ティンバイの幼馴染であるリンシャンが連れて行かれた。村人たちはそれを止めるどころか、少しばかりの金に目がくらんで率先してリンシャンを送り出した。
両親ですら、これで当面の生活ができると言っていたくらいなのだから。
ティンバイはそのとき、リンシャンをなんとか止めようとした。けれど大人にはがいじめにされれば何もできないし。リンシャン本人もこれで良いのだと自分に言い聞かせるように連れて行かれて。
――どうしようもなかった。
しかし、どうしようもないことをただ諦めてしまえるほど、このときのティンバイは大人ではなかった。もちろん、それは今もそうなのだが。
ティンバイがリンシャンを助けに行くには数日の準備を要した。
ティンバイは馬鹿ではない、ただ闇雲に突撃してしれきった往生をするようなことはしない。武器はある、作戦も考えた、きちんと屋敷の間取りも調べてきた。
昨今のルオでは、ちょっとお金を持つような人間ならば自分の家に護衛の一つでも置く。それだけこの国全体の治安が悪いということなのだが、ティンバイが命を狙う男もその例にもれず護衛を数人、雇い入れているようだった。
問題はこいつらをいかに殺すか。
あるいは殺さずとも、ばれないように侵入するほうが良い。おそらくはこちらの方が最終的な目標を達成しやすいだろう。
モーゼルを撃てば音がする、音がすれば侵入者の存在はすぐにバレてしまう。そうなれば本当に殺したい相手を殺せないかもしれない。
そういうことを冷静に考えながらも、ティンバイは数里の道を駆け抜けた。
息は少しきれている。それを整えながら夜空を見上げる。
美しい月が輝いていた。
――その月はまるでティンバイのことを見ているようだった。
「はんっ、ジロジロ見やがって」
ティンバイはそうつぶやきながら、自分が緊張していることに気づいた。
まさか月が人を見るわけがない。だというのに妙に視線を感じたのは、きっとこれからする行為への背徳感からのものだろう。
人間が人間を殺すなんていうことは、とうぜん正義に反することである。
では悪であろうか?
それも違うと思う。
正義がなにかはわからないが、悪とは弱いことである。弱さからくる全てのものこそが悪なのである。そういう意味では、リンシャンが連れさられるその時に彼女を助けられなかったティンバイは悪であったろう。
しかしティンバイはいま、こうしてリンシャンを助けに来た。
それは弱い人間のできることではない。
ならばこれは、きっと正義であろう。
「よし、行くぞ」
ティンバイは自分にそう言い聞かせる。
屋敷の周りには高い塀があった。門の方をちらっと見たが、そこには人がいる。おそらく番をしているのだろう。
ティンバイはもとから塀をよじ登るつもりで来ていたので、鉤爪のついたロープを用意していた。それをうまく引っ掛けて、壁を登っていく。
月明かりはまるでティンバイを応援するかのように煌々と夜を照らしていた。もとから夜目の効くティンバイだったので、ここまで明るい月夜ならばまるで昼間のようにあたりが見えた。
むしろ新月のほうが嬉しいくらいだったのだが。
こういうところがままならないのが人生である、とうそぶいてみせるくらいの余裕はまでティンバイにある。
緊張の中にも、ティンバイは冷静にものを考え、そして慌てすぎないだけの胆力がすでに備わっているのだった。
誰にも見つからないまま屋敷の中に侵入する。
中の間取りは調べたとはいえ聞きかじりのものだったので、すぐに屋敷の主の部屋がどこかは分からなかった。
――ギシッ。
と、音がした。
ティンバイはとっさに手近の部屋に隠れた。
廊下を誰かが歩いている。
ギシッ、ギシッ、と音がする。どうやら屋敷の中にも見回りがいたらしい。
どうするか、とティンバイは迷った。
音を聞くに、見回りをしている人間は1人だけ。どうやらこの部屋の前は通り過ぎたようなので、いま飛び出せば背後をとることができる。
だがモーゼルを一発でも撃てば音がする。
迷ったのは一瞬で、すぐに答えたはでた。
ここはやり過ごす。
緊張の中で、なにもせずにじっとしているというのは耐え難いものがある。
それでもティンバイは待った。
やがて音がしなくなり、ティンバイはそっと扉を開ける。
「ふうっ……」
見回りに見つかる前にリンシャンを助けださなければならない。時間との勝負だった。
屋敷の中を闇雲に歩く。
だいたいの間取りは知っており、この屋敷の主人の部屋がどこかも分かっていた。しかしリンシャンがどこに閉じ込められているのかは分からなかったのだ。
音を消して歩いていると、少しだけ扉が開いて明かりがもれている部屋を見つけた。
リンシャンだろうか、と期待しながらティンバイはその部屋に近づく。
そして中を覗き見た。
中にはガラの悪そうな男たちがいて、酒盛りをしていた。
「それにしてもよ、この前のガキ。ありゃあイイ女になるぜ」
「器量よしって感じだったよな」
それがリンシャンのことであるのはすぐに理解できた。
ティンバイはいますぐにでも中に入って、リンシャンのことを下品に酒の肴にしている男たちを撃ち殺してやりたかった。
「でもよ、もったいねえよな」
「ああ、首都の方に連れて行ったんだろ?」
「らしいな。知ってるかよ、噂じゃあ国中からガキを集めてなんかしてるらしいぜ」
「なんかって、なんだよ?」
「そりゃあ危ねえことさ。聞いた話じゃあ、集められたガキどもは一人も帰ってこねえらしいぜ。ドレンスに戦争で勝つために、なんか実験をしてるんだとさ」
「ひい、おっかねえ」
「まったく、この国はあんなこてんぱんに負けちまったのに。まだ戦争をするつもりかねえ」
男たちの会話を盗み聞きして、ティンバイは唇を強く噛んだ。
――遅かった。
リンシャンはもうこの屋敷にはいない。ルオの首都へと連れて行かれた。
ティンバイはすでにこの屋敷の中にリンシャンがいないことを知らずに、こうして命がけで侵入してきたのだ。
だが、リンシャンがいなかろうとやることは一つ、残っている。
そうだ。
この屋敷の主人を殺すのだ。




