737 美しいシャネル――陽はまた昇る
気がつけば森の中だった。
――ここは?
俺はいままでの事を思い出そうとする。
そうだ、たしか俺はこの森の中から五稜郭に向かったのだ。そこでシワスを殺して、その後でディアタナにあちらの世界。よく分からない空間に連れて行かれたのだ。
シャネルは、ずっとここで待っていてくれた。
そして迎えに来てくれたのだ、俺を。
戻ってきたのは、この森ということか。
ずいぶんと長いこと時間が経った気がするのだが。
「んっ。シンク、調子はどう?」
「……なんか疲れてる」
「そりゃあそうね、魔力をずいぶんと使ったもの。私もくたくたよ」
俺はあたりを見回す。
アイラルンを探したのだ。しかしどこにもいない。当然か、あの女神は消えてしまったのだ。
全てが終わったのだ。
そう思ったら、なんだか俺の胸の中に不思議な悲しさが去来した。
昔、どこかで聞いた。物語には2つの種類があると。それはつまり、『終わる物語』と『終わらない物語』だ。
俺の物語はこれで終わったのだ。
「シンク、動ける?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
疲れているが、怪我をしてるような箇所はどこにもない。シャネルが治してくれたのだろうか。
「じゃあ、ドレンスに帰りましょうか」
「帰る……か」
「なにかおかしいかしら?」
「いいや」
そうだ、物語が終わっても俺にはまだ帰れる場所がある。
それは俺にとって優しい事実だった。
俺たちはそれから、森を出て弁天台場の方から、海の方へと向かった。
キャプテン・クロウの海賊船が、そこの入り江に隠されているからだ。
はたして、海賊船は俺たちが出てきたときと同じ場所で、同じように錨を下ろしていた。
俺たちの姿が見えると、見張りをしていた海賊が手を振ってきた。俺は気安く手を振り返す。
しばらくすると桟橋が降りてきて、そこから隻腕の男が降りてきた。キャプテンだ。
「榎本さん、ご無事で!」
「ええ、まあ。キャプテンもありがとう、待っていてくれて」
「それが私たちの仕事ですからね!」
キャプテンは豪快に笑う。耳を覆いたくなるようなどら声だったが、その笑い方には力強さがあった。
「キャプテン、もう目的は全て達しました。ドレンスに帰りましょう」
「はい。しかしあの女性の方は? たしかアイさんと言いましたよね」
「えっと……あいつは」
「あの人はね、こっちで幸せになったんですよ」
シャネルが俺に変わって答える。
その返事には、これ以上なにも聞くなという雰囲気があった。
「そうですか。ではこれで出港ですね。どうぞ、お乗りください」
俺たちは船へと乗る。
キャプテンが船員たちの尻を叩く。
「野郎ども、船を出すぞ! 我らがドレンスに凱旋だ!」
凱旋かどうかは分からないが。
そもそも俺たちがこのジャポネに来たのは、元あっあ政権である幕府軍を助けるためだ。来た時点でそれはすでに風前の灯で、なんとか手を尽くしたがダメだった。
最後はこの蝦夷地にまで来て、新政府どころか新しい国までつくったのだが、それは砂上の楼閣だったというわけだ。
「でも、頑張ったんだよな……」
だからまあ、凱旋と言ってもいいのか。ちょっと自分に甘いかな?
船が出ると、その速力に驚いた。
俺は部屋には戻らず、甲板で海を見ていた。なんだかかび臭い船内で休んでいる、というのも嫌だったのだ。俺はなんとなく、荷おろし症候群のようになっている。
「快調ですな!」
隣に、キャプテンが来る。
「なんだか速いように感じられますが」
「ええ、そうなんです! どういうわけか、魔石の動力が使えるようになりまして! いまは2つの力をフルに使って動いていますよ!」
なるほど、だから速いのか。
けれどどうして魔石が使えるのだろうか? たしか、ジャポネでは魔法が使えなかったはずだが。
「ああ、なるほど。ディアタナがいなくなったからね」
シャネルはすぐにその理由に気づいたようだ。
なるほど、と俺は理解する。あしかにディアタナが消えれば、このジャポネに張られていた結界がなくなるのも当然か。それで魔法が使えるようになったのか。
とすれば、ジャポネという国もこれから様変わりしていくかもしれない。
俺たちが歴史を変えた、とは言わないが。
「女神がいなくなったのよ、これからどんどん変わっていくことになるわ」
「なんだか責任を感じるな」
「あら、どうして? シンクが責任を感じることなんて一つもないのよ」
そういうものだろうか?
「でも、俺たちが女神を殺して――」
シャネルは、キャプテン・クロウを追い払うような笑顔を見せた。それで自分が邪魔者だと気づいたのか、キャプテンはそそくさと去っていく。
「ねえ、シンク。ご覧なさいよ」
そう言って、シャネルは水平線の向こう側を指差した。
穏やかな海が広がっている。はるか遠くに、点のように陸地が見えている気がする。あれは、どこだろうか? 大陸の方……俺たちの世界の尺度でいえばロシアとかそこらへんだろうか。
「見たけど」
「どう思う?」
「どうって……綺麗だな、としか」
その答えで良いのか分からないが、シャネルはにっこりと笑った。
良かった、どうやらそれがシャネルの求めていた返答だったようだ。
「ええ、そうね。美しいわ。世界ってとっても、美しい」
あんただって美しいよ、とは言えなかった。
……いいや、違うのか。
そういうのはダメなのか。
俺だってもっとシャネルにしょうじきに気持ちを伝えていくべきだ。
それだって、立派に前に進むことなのだ。
「あ、あのさ……あの、うん」
「なあに?」
「シャネルもっ! そ、その……」
「私も?」
「お前も綺麗だよ!」
言った!
言ってやったよ!
言っちゃった!
これ、けっこう緊張するんだな!
「あら、そう。ありがとう」
けれど俺の緊張とは裏腹に、シャネルはすまし顔だ。
なんだかなぁ、俺だけが緊張しているみたい。
と、思ったらシャネルは顔をそらした。そして、俺には表情が見えないように、海の方を向く。
おやおや、これは?
こと、恋愛においては察しの悪い俺だが、もしかしたらという第六感が働いた。
回り込んで、シャネルの顔を眺める。
すると、シャネルは嬉しそうに口元を曲げながらも、必死で表情を取りつくろおうとして顔が真っ赤になっていた。よく見れば耳も少し赤い。
「な……なによ」と、珍しくぶっきらぼうに言うシャネル。
「いやぁ? なんにもないですよ~?」
俺はシャネルを照れさせたことが嬉しくて、小躍りしそうになった。
そうかそうか、シャネルだって照れるのか。つまり俺のこと、好きってことだな。うんうん。
「もうっ、シンクがおかしなことを言うから、何を伝えようとしてたか忘れっちゃったじゃない」
「それは失礼しました」
「責任とってよね」
「責任?」
「何か面白い話でもしてよ」
なんという無茶振りだ。
俺は迷うだけ迷ってから「俺の元いた世界の話でもする?」と、切り出した。
「シンクの元いた世界? そうねえ、気になるわ」
どうせ全てが終わったのだ。
全部教えても良い、と思った。
それから、俺はシャネルに自分のことを話した。
両親のこと。
幼い頃に仲の良かった友人である、金山のこと。
また、学校でイジメられていたことも。
シャネルは俺の話を真剣に聞いてくれた。
そして全てを話し終わって、彼女は俺に言った。
「ありがとう」
「ありがとう?」
「ええ、話してくれて。辛かったのね」
そう言って、シャネルは俺をその豊満な胸元へと抱き寄せた。
「むぐっ!」
息ができない。
シャネルの甘い匂いに窒息しそうだ。
でも、悪い気はしない。というかおっぱいは大好きだ。嫌いな男なんているの?
「私の話も聞いてくれる?」
「もちろんだけど、その前に少し離れてくれ」
「あら、ごめんなさい」
シャネルはそう言って、俺を離す。
けれどそれはそれで名残惜しかった。
俺はなんとなく、シャネルの胸を見つめてしまう。
「エッチ……」と、シャネルは顔を赤くした。
「ご、ごめん!」
慌てて謝る。
「いいのよべつに、見たかったら見る? 触りたかったら触る? どうせ邪魔者もいないし」
邪魔者、と言われてすぐに思いついたのはアイラルンだ。
たしかに、もうあの女神はいない。
つまり俺はシャネルと――エッチなことをしても良いのだ!
復讐も終わったのだし。
しかし俺は首を横にふる。いまはそれよりも、
「キミの話をまず聞かせてくれないか?」
それが先だと思った。
「よろしい」
シャネルは満足そうだ。もしこれで先に性欲に突っ走っていれば……もしかしたらシャネルは怒ったかもね。まさかそれでフラれることはないと思うけど。
シャネルはポツリポツリと、自分のことを語り始めるのだった。
たぶん、俺たちはまだお互いのことを深くは知らない。
知っていることもあるかもしれないけど、知らないことも多い。
これまでの旅で知ったことが、シャネルの全てではないのだ。1人の人間が、1人の個人を完璧に理解しようとする時、それはきっと一生を尽くしても間に合うかどうかのおお仕事になるだろう。
俺はいまから、それをしようと思う。
シャネルのことを、これからもっと知りたい。全部知りたい。そして、俺はシャネルとずっと一緒にいたい。そう思った。
水平線の先にはなにもない。
けれど、そこには、陽はまた昇る。




