733 誕生日のケーキ
「取引って?」
俺が聞くと、ディアタナは本当に優しい笑顔で俺を見た。
まるでこの世の全ての慈悲を集めたような、そんな笑顔だ。
「悪い取引ではありませんよ」と、ディアタナ。
「詐欺師っていうのはたいてい、そう言うんだ」
この停まった時の中で動いているのは俺とディアタナだけだ。
アイラルンは少し離れた場所で七支刀を刺されて停止しているし、シャネルは杖を構えている。その杖の先から伸びる蛇の形をした炎は、たしかにこちらの方へと向かおうとしているが、その途中で止まっていた。
「榎本シンク、貴方の望みはなんですか?」
「なに?」
いまさらそんな事をなぜ聞く。
だが答えなければ話が進まないのかもしれない。
「それは、復讐だけど」
「そうですね、貴方に酷いことをした5人に復讐をする。ええ、知っていますよ。本当にあの5人は酷い人間ですね。いいえ、もちろんあの5人だけではありません。教室にいながら傍観していた人々も同罪です」
「……ああ」
だけどその復讐は終わったのだ。
「本当に偉いと思いますよ、榎本シンク。貴方は艱難辛苦の果てに当初の目的であった復讐を達成しました。おめでとうございます」
「何が言いたい?」
ディアタナはわざとらしい拍手をする。
それが俺には腹立たしい。
「つまりですね、榎本シンク。貴方の復讐はすでに終わり、貴方がここに来たのはアイラルンにそそのかされてだということです」
「そそのかされた、という言い方はずいぶんと露悪的だ。俺は自分の意思でここに来た。アイラルンを助けようと思ってだ」
「でも考えてみてください、そんな義理はありますか?」
「あるさ。アイラルンは俺に未来をくれた。部屋の中で引きこもっていただけの俺をこの異世界に連れてきてくれた。それで俺はシャネルと会って、変わることができたんだ。これはもう感謝してもしきれないことだ」
もちろん感謝しているなんて、恥ずかしくてアイラルン本人には言えないのだが。
「はあ、なるほど。恩義があると。貴方はいい男ですね」
「褒めているのか?」
それともけなしているのか。
「もちろん褒めています、心の底から」
「嘘くさいぞ」
だが、他人に褒められるのは悪い気はしない。これはきっと、俺の自己肯定感が低いから、誰かに認めてほしいという願望の現れだろう。
「ねえ、榎本シンク。貴方はもうじゅうぶんにアイラルンに尽くしました。もう良いじゃないですか、ここまできてこの女神ディアタナに深手をおわせた。しょうじきに告白します、私はすでにほとんどの魔力を使い果たしました」
「だろうな」
おそらくこの時間停止がディアタナの最終手段だ。
つまり、俺がすぐそこに置かれた刀でディアタナを斬れば全てが終わる。
いま現在、俺が圧倒的に有利な状態といえる。俺は女神の生殺与奪権を握っているわけだ。
だからこそ、この女神が最後に言う取引が気になっているのだが。
「これから100年か200年か。それくらいは世界に干渉する力を失うでしょう。その間、この世界は動き続けます。時代を進め続けるのです」
「……つまり?」
「アイラルンの目的はすでに達していると言えますね」
そうだ、アイラルンは自分の復讐のためにこの世界の時間を進めようとしていた。100年分か、200年分かしらないが、その間はちゃんと時間が進むのだという。
「ここまで言ったら、分かりますか?」
「俺はじゅうぶんにやったと、そう言うんだろ」
「そのとおり! 察しが良いですね、人間にしては。偉いですよ、褒めてあげます」
尊大な言い方だ。
けれどなぜか嬉しい。
どうしてだ? まるで心の中を侵食されているような、気味の悪さ。俺はディアタナのことを好ましく思っている!?
「あんた、俺に何をした!」
俺はすぐに刀を手に取ろうとする。
だが、その刀の柄を触ったときに、ディアタナの手がその上におおいかぶさった。
「なにもしていませんよ。落ち着いてください、榎本くん――」
その呼び方が。
『榎本くん』という呼び方が。
俺の耳に入って、俺の気持ちを愛撫する。
嫌な感じはしない。俺はなぜか自分が慌てていたことが恥ずかしくなって、刀から手を離す。
「すまない」と、謝ってしまう。
「ええ、良いんですよ」
なにがなんだか、分からない。
俺はこの女神のことが嫌いなはずなのに、悪くないとも思っている。
そう思ってしまえば、すでに直視することすらできない。
だってそうだろう? こんな美しい女神が目の前にいて、普通に接せられる童貞がこの世にいるわけないじゃないか。
俺の頬は、たぶん赤くなっている。
「榎本くんはもう随分と頑張ったんですよ。だから、ご褒美があったもいいと思います」
「ご褒美?」
「ええ。この女神ディアタナが、貴方を元の世界に戻してあげますよ」
「そんなことができるのか?」
「ええ。できますよ」
けれど……。
いまさらあっちの世界に戻ってどうなるっていうんだ。あっちの世界に俺の居場所なんてもうないはずだ。だって俺はただの引きこもりで、この異世界に来てもう何年くらいたった?
高校生ではないことは確かだ。
ヒキニート。
最悪だ。
「不安なんですか?」
「そりゃあな!」
かたや引きこもりの俺。
かたや冒険者としてそれなり以上の地位にいる俺。
どちらが良いかなんて一目瞭然だ。
「ではこうしましょう。時間を戻してさしあげます」
「時間を、戻す?」
どういう意味だろうか。
「はい。榎本くんが戻る、元いた世界の時間は榎本くんが最初にいた世界の時間です。2、いいえ、3年ですか? その分の時間を戻してあげますよ」
「それは……」
たしかにそうなったら嬉しいと思う。
もう一度、高校生のときの俺からやり直すことができる。今度は引きこもらずに、ちゃんと学校に行って……。
「そしたら、あの人たちも。両親も喜んでくれるかな」
「ええ、そりゃあもう! 榎本くんのこと、ハグしてくれるかもしれませんよ!」
「誕生日のケーキも買ってきてくれるかな?」
「もちろんです」
「それでさ、一緒に食べてくれるか?」
「当たり前じゃないですか!」
……それなら、嬉しいかもしれない。
「俺、頑張れるかな?」
「この女神ディアタナが保証しますよ。榎本くんは私を追い詰めた人間なんですから」
そう言われれば、少しは誇らしいことなのかもしれない。よく分からないが。
どうですか? とディアタナは俺を見る。その目は「決めるのは貴方ですよ」という優しさに満ちている。
俺は近くに置いた刀を見る。
赤く輝く、クリムゾン・レッド。その赤はもしかしたら今まで流してきた血の色かもしれないのだ。
もしも元いた世界に戻れば、こんな大変な経験も。痛い思いもしなくてすむ。
でも……やっぱり元いた世界は怖い。
あの世界に戻ってもう一度あいつらにイジメられたら? 俺はちゃんと立ち向かうことができるだろうか。分からない。
「もう少し、考えていいか?」
「良いですよ。何が不安なんですか、私でよければ話てみなさい」
「それは……」
俺は、言葉につまる。
「ゆっくりで良いですから。どうせ時間は、たくさんあります」
「だから、つまり……その……」
またイジメられるのが怖い。
そう言いたいのに、言えないのだ。
「ああ、分かりましたよ! 榎本くん」
「え?」
「つまりそういう事ですか。榎本くん、満足していないんでしょう?」
そう言って、ディアタナは微笑む。
その微笑みは、なんだか嫌な感じがして……いいや、それは俺の気のせいだ。ディアタナの笑顔はいつも通りの素晴らしいものだ。
「復讐したりない、そう言っているんですね?」
ディアタナは任せてください、と頷く。
そして一言。
「でしたらそれも叶えてあげますよ」
と、言った。




