732 ディアタナの取引
世界が停まっている。
動かない。何もかもが凍りついたようだ。
しかし俺は意識を持っている。体は動かないのに、時間は停まっているのに、俺の脳は動いているのだった。
俺の刀はディアタナの胸元へ伸びている。
あと数センチ。いいや、あと数ミリでその切っ先はディアタナに触れ、そのままこの女神のことを消し去っていただろう。
「はあ……はあ……はぁ」
ディアタナは目を見開いて、俺を見据えていた。
その息は荒く、また額には大粒の汗をかいている。
女神をさしてこういう表現はおかしいかもしれないが、実に人間らしい表情をしていた。
恐怖と緊張がないまぜになって、それから開放された人間が見せる糸の切れたような安堵、しかし怯えはまだ残っている、という表情だった。
「ま、間に合った……」
どうやらディアタナからしても、この時間停止はギリギリの技だったらしい。
ふざけるなよ、と俺は思った。
相手に何でも言うことを聞かせられる命令に、瞬間移動、それにくわえて時間停止だって? こんなやつにどう勝てばいいんだ。
もっとも、この技がディアタナの隠し玉ならばこの後はないわけだ。
つまりこれさえ打ち破れば――。
いや、これ無理でしょ。
どうしろって言うんだよ。だって俺の体、動かないし。というか時間、停まってるし。
え、俺いま生きてるの? 時間の停まった状態で意識のある人間って生きてるって定義できるのか? だって心臓は? そりゃあ動いてないし。そもそも脳だって動いてないでしょ。こう、ニューロンがどうとかがどうとかでミミズさんが隣に伝達……。
ダメだ、混乱してきた。
ガングーと話をしたせいで、できもしない理屈をこねくり回そうとしてしまう。
「停まっています、よね?」
そう、停まっている。
そうだ、アイラルンは?
あいつだって腐っても女神のはずだ、この状況でも動ける可能性はあるはずだ。
そう思って意識をアイラルンの方に向けてみたが、アイラルンはディアタナの体を掴んだまま、動かない。流れ出ていた血も止まっているようだ。
――ダメか。
万事休すである。
「榎本シンク、意識はありますよね」
あ? なんだ、ディアタナのやつ。俺に話しかけてきたのか。
「そうでした。喋ることもできませんよね。分かりました、いま口だけは動かさせてあげます」
ディアタナが指パッチンをする。
「うわっ、いい感じの音が出てる。俺こんないい感じの指パッチンできないな」
自分で思ったことが、口に出た。
それに自分でも驚く。
「……この状況でよくもまあ、そんな軽口を」
「喋れるとは思わなかったがな」
もちろん動くのは口だけだ。体は動かない。
そして俺はあることに気がつく。この状況、俺とディアタナは同じだ。ディアタナも足は動かしていない。口と手だけが動いているのだ。
あるいはこの状況、ディアタナからしても本当にギリギリなのかもしれない。
「どうして、私が貴方だけを喋る状態にしたと思いますか」
「さあ、分からないな」
俺は軽く答えながらも、注意深くディアタナの考えを読もうとする。
この状況化で動いているのは俺とディアタナだけ。偶然ではないはずだ。
「まずはそう、賛辞を贈ります。貴方がたの強さというものを、私は少しだけ見くびっておりました」
その褒め言葉を聞いて、喜ぶほど脳天気な頭は持ち合わせていなかった。
むしろいきなり何を言い出すのだと不気味な気すらした。
「なんのつもりだ」
褒め殺し、というやつか?
俺は他人に褒められることに慣れていない。だから、こういうふうに言われても嬉しさよりも警戒感が先に来てしまうのだ。
ディアタナはもう一度、指をパチンと鳴らした。
すると、俺の体は全て動くようになった。ディアタナも同じらしく、この時の停まった世界の中で俺と、ディアタナだけが自由に動けるようになった。
ディアタナは両腕を広げて、精一杯というような感じの笑顔を俺に向けた。
そして一言、
「取引しましょう!」
分からない、いきなり何を言っているのだこの女神は。
「取引だと?」
「ええ、そうです。この女神と取引ができるなんて、光栄だと思いなさい――」
この期に及んで、このディアタナとかいう女神は……。
俺の目があまりにも嫌悪感を含んだものだったことに気づいたのか、ディアタナは慌てて取り繕うような笑顔になる。
「失言でした」
「あんたはそうやって、人間をバカにすることしかできないのか」
俺は自分の持つ刀を見る。
真紅に輝く刀身は、停まった時の中で、たしかに大量の魔力を溜め込んでいる。
「失礼、こういう言い方しかできないこの女神を許しなさい」
「はっきり言わせてもらうが、あんたと取引するようなことはまったくない。さっさとこの時間を動かせ」
いいや、その必要すらないのか。
このまま俺がディアタナを切り捨てれば全てが終わる。そうだ、そうしよう。
俺は手に力を込めて、ディアタナにお斬りかかろうとする。
だが、
「元の世界に戻してさしあげます」
俺の動きは、止まった。
「な……んだと?」
言っていることの意味が分からない。
いいや、意味は分かるのだが。なんと言えばいい? わけがわからない。
「戻りたくありませんか、元の世界へ」
「戻りたくないね!」
俺はすぐさま答える。
誰があんな場所に。俺はこの異世界で生きていくと決めたのだ。その方が幸せだとそう思っている。
「警戒しているんですね、分かります。でも大丈夫ですよ」
「あんたの言う大丈夫なんて言葉、信用できるか!」
「できなくても、してもらいます。ねえ、榎本シンク。ゆっくりお話しましょうよ。膝を交えて、腹を割って、しょうじきに――」
裏がある、と思った。
この女神の言うことは何一つ、信じられないと。
こういった甘言に騙されて、ひどい目に合うのは嫌だ。
「榎本シンク、本当は帰りたいのでしょう。元の世界に」
「答えは『NO』だ」
「ご両親、どうしているか知りたくありませんか?」
「はんっ! 親だって? あんなやつらのこと知るか! ただ俺を産んだっていうだけの人間だ。俺にとってどうでもいいね――」
「悲しんでらっしゃいますよ、貴方がいなくなって」
「嘘だ!」
そんなはずがない。
あの親たちに限って、俺がいなくなって悲しむだなんて。
むしろ喜んでいるはずだ、引きこもりのダメ息子がいなくなったことに。
だってあの人たちは――俺のことなんて愛していなかったのだから。
「本当ですって。お母様は毎日貴方を思って泣いています。お父様は貴方を探していろいろと手を尽くしています」
「そんなはずがない!」
「ねえ、榎本シンク。まずその刀を置きましょう。そんな物騒なものを持っていてはお話ができませんよ」
ディアタナはいかにも優しい声色で俺に語りかけてくる。
その声は、いやおうなしに人の心を優しくなだめるような、そういった不思議な力があった。
「あの人たちが、俺を心配しているのか?」
そんなことはないと思いつつも、俺はそう聞いてしまう。
「ええ、そうですよ。ご両親は貴方を愛していました。それを貴方が気づかなかっただけ」
絶対に嘘だと、頭では分かっている。
しかし俺の心が、ディアタナの言葉を信じたいと泣き叫んでいる。
俺は親に愛されていたのだと、失望され軽蔑されやっかまれていた訳ではないのだと、そう信じたがっているのだ。
「考えてもみてください、榎本シンク。自分の子供が嫌いな親がいますか?」
「あの人たちだ――」
俺は最後の抵抗に近い言葉を絞り出す。
「いいえ。本当に嫌いでしたら、引きこもる貴方のことを優しく見守ってなんてくれないはずですよ。貴方に期待していたからこそ、貴方を愛していたからこそ、ご両親は貴方の復活を待っていたのです」
騙されるな。
こんなの嘘だ。
ディアタナは、俺が言ってほしいことを言っているだけなのだ。
あの人たちは俺になんて、まったくの無関心だったじゃないか。顔だってずっと見ていなかった、ただお金だけ置いて、俺を独りぼっちにした!
けれど、それすら愛情なのだとしたら?
未熟な俺には何も分からなかっただけだとしたら?
「さあ、榎本シンク。刀を置いてください」
俺は、刀を置く。
べつに戦意を喪失したわけではない。ただディアタナの話をもう少し聞いてみたかったのだ。
大丈夫だ、刀はすぐに取れる場所にある。だからもしディアタナが変な素振りをみせたら、これをとって斬りつけてやる。
だから、
「取引ってなんだ」
俺は話の先をうながした。




