714 シャネルの門
息がきれていた。
俺の周囲には何もない。
切り捨てた影たちは消えてしまっている。
ここまで動いて動いて、頑張って戦い続けたのにその成果がまったく見えないなんて寂しいことじゃないか?
みればガングーは手を止めていた。
「ふうっ……何とかなった、な」
「なんとか?」
「時間はきちんと稼いだ。俺の仕事は終わりかな」
ガングーは疲れ切ったように微笑んでいる。
腕が上がらないのだろうか、だらんと下がっている。その息遣いは、まさしく虫の息で。俺の耳でもほとんど聞き取れないくらいだった。
「ガングー、あんた大丈夫か?」
「大丈夫って質問はよくないんだ。そう聞かれたら人間はとっさに大丈夫って答えちまうから」
「おい、本当にどうした?」
疲れているというよりも死にそうに見えるぞ。
たいして俺は無傷に近い。何百もの敵を倒したが、それでも攻撃は受けなかった。
「榎本シンクくん、人間にはできること、できないことがある」
「そ、そうだな」
「けれどできないことを、やろうと挑戦することは誰にでもできるんだ」
「分かってる」
「その挑戦のはてに、できなかったことができるようになることだってある」
まるで今際の際の言葉のようだった。なんとかして俺に何かを伝えようとしているように思えた。
「来るぞ」と、ガングーは言う。
「なにが?」
見れば街頭のテクスチャは崩れきっていた。
いつの間に?
すでに周囲の光景にはリアリティはなく、古い時代のゲームのポリゴンのように荒いものになっている。
「ガングー、大丈夫か?」と俺はもう一度聞いてしまう。
「ああ、大丈夫だ」
ガングーが腕を上げて指さす。俺はその方向を見る。
そこには扉があった。
装飾華美のゴテゴテとした両開きの扉が、空間を無視するようにポツンと置いてある。周囲の光景からは浮いている。
どこかで見たことのある扉だと思った。
「この門を通るものは全ての希望を捨てよ――」
ガングーの言葉に、俺は振り返る。彼は力なく笑っている。
「どっかで聞いた言葉だ」と、俺は答えた。
けれどその言葉の反面、俺にはその扉から希望が出てくるように思えた。
あれはシャネルがこの場所とあちらの世界をつなげるために作った扉なのだ。
「開いてやりな」と、ガングー。「あっちからは開けないのかもしれない」
「ああ」
扉を開ける。
その中にはブラックホールのような空間が広がっていた。
俺がこの世界に来たときと同じような空間。
そこから、手が伸びてきた。
その手は何かをつかもうとするように動いている。
「シャネル!」
俺は彼女の名前を呼びながらその手を掴んだ。
早く会いたいという思いをこめて力を入れる。すると、
「痛い痛い、痛いですわ!」
やる気をなくさせるような声が……。
「もっと優しくしてくださいませ!」
「はあ……なんだ、アイラルンか」
俺は一息に見えていた腕を引っ張り出した。
ズルっ、という音がしてアイラルンは扉の中から出てきた。その瞬間に俺が手を離したものだから、アイラルンは勢い余って地面にぶつかり、突っ伏した。
「朋輩……いきなり離さないでください」
「あ、いや。すまん」
まるで地面に潰れたカエルのように、アイラルンは倒れている。
手を貸そうとしたら、「いいですわ」と断られた。
アイラルンは立ち上がり、俺を見て、その後でガングーを見た。
「ごきげんよう」と、少し険しい顔で言う。
「女神アイラルンか。こうして会うのは初めてだな」
「ですわね」
へえ、この2人は初対面なのか。
「ねえねえ、アイラルン」
「なんですか?」
「あのさ、そのさ……」
シャネルは? と聞くのがなんだか恥ずかしい。
まるで俺がシャネルのことを大好きで、もう一時も近くから離れたくないみたいじゃないか。
実際そんなことはない。
俺だって男の子だ、なんだって1人でできる。
ただ、シャネルが心配なだけだ。
「ああ、シャネルさんでしたら――」
ギイィツ、と重い音がして扉が閉じてしまう。
「え?」
「シャネルさんでしたらあちらにいますよ」
「なんで、どうして?」
「シャネルさんはお留守番です。朋輩もその方が良いでしょう?」
俺は少しだけ考える。
たしかに危険かもしれない。
いまからどんな戦いをするのか分からないのだ。シャネルがいては、それを守りながらとなるかもしれないし。
それでもしシャネルが怪我でもしようものなら、俺は悔やんでも悔やみきれないだろう。
「しかしシャネル・カブリオレがよくそれを許したな。なにがあろうとこちらに来るかと思ったぞ」
「それでしたら少しばかり嘘を教えました。そもそもシャネルさんが開けた門は1人用ですわ。わたくしが通ればすぐに閉じるようになっております。かなりの魔力を使いましたでしょうから、もう一度門を開けるというのは無理でしょうね」
「なるほど。あとでシャネル怒るぞ」
「おほほのほ。大丈夫ですわよ、どうせもう会いませんわ」
その言い方にはアイラルンの悲壮な意思が込められていた。
この女神はここが最終決戦だと覚悟しているのだ。そしてここで死ぬということも。
「さあ、行きますわよ朋輩! 目指す場所はそう、宿敵ディアタナ!」
「宿敵って、そりゃあお前のだろ。まあここまで来たんだ、最後まで付き合うけどさ」
アイラルンは手を上げて、まるで観光地の案内をするバスガイドさんのように歩きだした。
「行って来いよ、榎本シンク」
「あんたは来てくれないのか?」
「俺はどうせここから動けないんだ。俺の心はもうここに縛り付けられる。キミのように自由にはなれないんだ」
そういうことも、あるのかな。
「ガングーさん。せっかくお会いしたので、これだけは聞いても良いですか?」
「なんでしょう、アイラルン」
「貴方は、わたくしを恨んでいますか?」
ガングーは少しも考えなかった。
「いいえ。恨んではおりません。貴女は女神として精一杯をやった。俺は人間として精一杯をやった。それだけのことです」
「ありがとうございます」
さあ、朋輩。行きますよとアイラルンが俺の手を引っ張っていく。
俺は2人の会話の意味が理解できなかった。
が、この2人には2人の思うところがあるわけだろう。
俺たちが歩きだすと、あたりには何もなくなった。
真っ暗、いいや光源が無いという意味の闇ではなく、本当になにもない空間に。違う、きっとここには空間や時間すらもなく――。
振り返ると、何もなかった。
ガングーもいない。
「あの人はいつまでもあの場所にいるのか?」と、俺はアイラルンに聞いた。
「いいえ。ディアタナさえ倒せば、あの人もあの場所から開放されますわ」
「そうか」
俺はガングーが見せてくれたスマホの画面を思い出す。
綺麗な人だった。
ガングーはまたあの人に会えるのだろうか、分からなかった。




