708 バグ
見えているシャネルの姿は、俺が去ったときとなんら変わらぬものだった。
それに安心感を抱くのもつかの間、映像の中のシャネルは少しだけ怒ったような表情をしてみせた。
『ねえ、アイラルン』
『なんですの?』
『貴女、さっきからため息が多いわよ。見苦しいからやめてちょうだい』
『これは失礼しました、ですわ』
『なによ、その喋り方』
苛立つように唇を尖らせるシャネル。
きっと俺のことが心配で、それで気が立っているのだ。そういう気持ちは分かる。俺だってシャネルが俺の知らないところで危険な目にあっていたら、自分の不甲斐なさに苛立つだろう。
「榎本シンクくん、彼女のことについて話そうか」
「シャネルの?」
ガングーはいつの間にか飲み物を飲んでいた。どこから現れたのか知らないが、テーブルの上にはコーヒーカップあった。
しかしその中身はコーヒーには見えなかった。
どちらかと言えばカフェオレのような色をしている。しかし匂いは、いかにもなコーヒーだ。きっとミルクと砂糖をたっぷり入れているのだろう。
「いいか、榎本シンクくん。彼女はバグだ。この世界のバグ」
「バグって……つまり虫?」
ガングーはその堀の深い顔を複雑に歪めた。
俺のつまらない冗談を本気にとれば良いのか迷っているようだった。
「バグと聞いてそちらを想像するか、キミは」
「あ、いや。冗談。ごめん」
「……まあ良い。バグ、つまりはプログラムに潜むミステイクのことだな」
「もちろん分かってる」
「俺はキミの冗談を分からなかったぞ」
「それはごめん。昔からつまらないって言われる」
話の腰を折ってしまった。
話の腰……?
あれ、よく考えたら話の腰ってなんだ? 話に腰があるのか?
いや、いまはこんなことを考えてる場合じゃないはずだ。
「この世界を作ったのがディアタナというのは、もう知ってるな?」
「え? いや、知らない」
そうなの?
世界を作った……どういうことだろうか。
「アイラルンからそこらへんは聞いていないか」
「あ、ごめん。聞いたかも。たしかディアタナはこの世界を作って、しかもこの世界の時間を止めているとか。動かないように」
「そうだな。それがあの女神による、この世界の管理だ」
「なるほど、つまり管理人さんなわけだな。ネトゲとかの。あれ? もしかして俺っていまアカBANされたような感じ?」
「ははっ! それは言い得て妙だな。そういうことだ、俺たちはやり過ぎた。だから女神は俺たちをこの場所においやった」
なるほど……。
「にしても世界を作ったねえ。そんな簡単に作れるものなの? 世界って、プラモデルじゃあるまいし」
「女神だからな。それくらいできるんだろう。ちなみに俺がこのカフェテラスを作ったことと、アイラルンが世界を作ったことはだいたい同じようなものだ。その規模は天と地だがな」
「じゃあ、あんたも世界を作れるのか?」
「人間の頭じゃ無理だ。そこまでの自己がない」
「自己がない?」
「そう。世界を作るというのはようするにその全てを1人で管理するということだ。自動のプログラムをいくら作ってもほころびが出る。それを可能にする方法は神そのものの意識というか、自己を偏在させるしかない。だけどキミも言っただろ。自分ではない自分は、自分ではないと」
「ここにいる自己だけが、俺だからな」
「けれど神はそうではないんだろう。ここにいながら、同時に他の場所にも存在できて、それは同じ意識を持つ自己なのだ。クローンとも違う、コピーとも違う。ただ同じもの」
「想像できないな」
いや、言っていることは分かる。
ただ自分がそういう状況になっているということが想像できないのだ。
「ま、難しい話をしても仕方ないな。人間の脳じゃリソースが足りないとだけ思っておいてくれ」
「了解」
「とりあえず、この世界を作ったのはディアタナだ。それはとてつもなく複雑怪奇なプログラミングによって作られた世界と思ってくれ」
「ああ」
「ここで問題なのは、女神というのは万能ではないということだ」
俺はアイラルンのことを想像してみる。
あれもいちおうは女神のはずだ。
うんうん、と頷いた。
「たしかに、ポンコツだもんな」
「まあ、アイラルンは……そうだな。けれどあの女神も頑張っていたんだと思うぞ。俺たちのためにな」
「俺たちってのは?」
「俺たち全員さ」
そう言ってガングーは遠い目をした。
それは昔を思い出すような目で。かつてガングーとアイラルンの間になにがあったのかは分からないが、聞かないほうが良いのかなとなんとなく思った。
「それで、その女神様が作ってくれたこの素敵な世界で、俺たちは邪魔者だったわけだ」
「そう。そしてシャネル・カブリオレもな――」
「シャネルが?」
「彼女はバグだ。どれだけディアタナが頭を使って細心の注意を払って世界を作っても、どうしようもなく発生してしまったバグ」
「そうだったのか」
たしかにシャネル、少しおかしなところがあったもんな。
しかしバグ、というのはどういうことだ?
べつにシャネルは超人的に達観しているだけで、そうおかしな挙動――つまりゲームで例えると壁抜けみたいな?――をしているわけではないだろう。
「バグと言ってもまあ、それ自体がこの世界に悪影響を及ぼすわけではない。彼女と、あとはココ・カブリオレもそうだな。どうも俺の遺伝子が入るとディアタナには読めない不具合が出るらしいんだ」
「いったい不具合が出るとどうなるんだ?」
「強すぎるんだよ。五行魔法。聞いたことがあるだろう?」
「ああ、分かる。ココさんが使えた魔法だな、あとは金山も。五属性全部の魔法を合わせて使えるんだろ?」
「そうだ。この世界を形成する五行全ての元素を使いこなすことができる」
「でもシャネルはそんなの使えないぞ」
「使えないんじゃない、使わないだけだ。本人もべつにできるとは思っていないのだろう、いまのところは。けれどきっかけさえあれば――」
「できるようになる?」
「そう。普通はそんなことはできない。人の持つスキルは3つまで。使えてもせいぜいが三属性の魔法までだろう。けれどシャネル・カブリオレやココ・カブリオレは平気で相生相剋を使いこなし、やがてそれは五行を統べる。五行全てを操れるならば、世界を書き換えることもできる。これは、はっきり言ってディアタナにも都合が悪い」
「なるほど、だからバグか」
自分の作ったプログラミングを勝手に書き換えていくようなものだ。意図せぬ不具合どころの騒ぎじゃない。
「あの2人にはこの世界を改変するほどの力があったんだ」
「じゃあディアタナはどうしてシャネルやココさんを放置しておいたんだ? 俺たちみたいにこの世界に閉じ込めればよかったのに」
「そうもいかないのさ。バグを取り除けば、それで他のバグが出てくるなんて聞いたことがあるだろう? だからディアタナからすれば放置できるならばできるだけ放置したかったのだろう。あの小さな村で一生を過ごすならそれで良かった」
「でもそうはならなかった」
「そうだ。アイラルンに狙われたわけだな」
「狙われた?」
「お前たちのパートナーにするために」
俺は少し嫌な予感がした。この先は、あまり聞きたくなかった。




