685 さよならだけが人生だ
頷く俺を、シャネルは嬉しそうににんまりと笑った。
「そう、好きなの。嬉しいわ」
「あんたはどうなのさ」
俺は少しだけ悔しい思いをしながらシャネルに聞く。
これが惚れた弱みというやつか、好きかどうか聞かれて好きだと答えるのはなんだか負けた気がする。
「好きよ」
けれどシャネルも負けてくれた。
これでお互い負け。いいことだよ、パートナー同士でどっちが勝った負けたとそんなこと考えていると良くないって聞くしね。
シャネルはニコニコ笑っている。
「ねえ、シンク」
「どうした?」
「好きよ、好き好き」
「あ、ありがとう」
なぜだか知らないがシャネルは嬉しそうに言う。
そして俺を抱きしめようとしてくる。
俺は恥ずかしいので身をかわそうとするが。
「なあに、シンク。もしかして好きっていうのは嘘なの?」
そんなこと言われてしまうと俺としては困る。
「いや、好きって言うのは本当だ」
「疑わしいものね」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「キスくらいしてよ」
「恥ずかしいこと言うな」
まさか酔っているのか? そんな、まさか。
しかしシャネルの顔はいままで見たこともないほどに真っ赤で……。
シャネルは体を投げ出すように抱きついてきた。いいや、違う。倒れた?
「お、おいシャネル――」
「すぅ……すぅ……」
小さな寝息。
まさか本当に酔っ払っただけ?
「困ったなぁ」
その場に寝かすわけにもいかない。そんなことすれば服が汚れたと後で怒られるだけろう。だから俺はシャネルに肩を貸してやる。
「なんだい、寝ちまったのかい?」
島田が来た。
「そうなんだよ。おかしいな、いつもはこれくらいじゃ眠らないんだけど」
「疲れもあるだろう」
島田はどかりと俺の隣に腰を下ろす。なにか話でもあるのだろうか。
「どうしたよ?」
「いや、あんたと少し酒でも飲もうかと思ってね」
「……ん?」
島田は手に酒の入った徳利を持っていた。それを傾けてくる。
「ほら、出しな」
「ありがとう」
俺は杯を差し出す。島田はそこに酒をそそいでくれた。「一杯じゃなかったのか?」と俺が聞くと、「それは副長からもらう分さ」と返された。
なるほど、そういう詭弁もあるのだな。
「ほら、どんどん飲みな」
「うん……悪いね。トシさんは?」
「副長は忙しいのさ。あんまり気にするな」
「そうか。ちょっと言いたいことあったんだけどな……」
島田がくれる酒は強いのか、飲んでいると少しだけ眠たくなった。俺は首をふって眠気を飛ばそうとする。
「言いたいこと?」
「うん……」
「代わりに聞いてやろうか?」
「そうだな……いや、直接本人に言いたいのだけど」
「聞いといてやるよ」
おかしい、と思った。こんなに眠たくなるはずがない。
これは、もしかして酔いではないんじゃないか?
そう思ったが、すでに眠気は抗えないほどまでになっていた。
おかしい、おかしいと思いながら俺は自分の腕をつねってみた。痛みはほとんど感じなかった。
「ほら、榎本。もっと飲みな」
島田が何か言っている。
飲め、と言っているのか?
酒……美味しいものな。飲みたい。
けれど、腕がもう上がらない。
俺はその場に倒れる。シャネルを下敷きにしないように、仰向けに。最後にそれだけ、自分の意思で動くことができた。
「……ふうっ、やっと効いてきたのかい」
島田の声がどこか遠くから聞こえた。
効いてきた? なにが――?
「島田、どうだ?」
土方の声だ。
「はい、眠りましたよ」
「そうか。榎本たちまで死ぬことはないさ。よし、行くか」
「そうですね」
行く、どこへ?
「お前たち、酒は飲み干したな。それでは、出陣だ!」
土方の号令に、兵士たちが威勢のいい声を上げた。
しかし俺は何もできない。意識がとぎれる。
――――――。
そして、どれくらいの時間がたっただろうか。
アイラルンの声が聞こえてきた。
君に勧む金屈巵
満酌辞するをもちいず
花ひらけば風雨多し
人生別離足る
その声がどこか近くから、遠くへと、行ったり来たりして。俺の意識は小さな箱の中に放り込まれるように、この世界に戻った。
「ううっ……やられた」
頭が痛い。ズキズキと。
それだけなら二日酔いみたいなものだが気持ち悪さがない。
「朋輩、おはようですわ」
「おはよう!?」
見れば空が明るい。
寝過ごした。
いいや、違う。
なにか薬をもられたのだ!
立ち上がろうとする。けれど上にシャネルが乗っていて、すぐには立ち上がれなかった。
「ちょっと、シャネル。シャネルってば!」
俺はシャネルの背中をさするように優しく叩く。
「なんだか朋輩、押し倒されいるような感じですわね」
「うるさいよ! シャネルってば、起きてくれよ」
しばらく背中をさするとシャネルは目を覚ました。
「んっ……あら、シンク」
「シャネル、起きたか?」
「恥ずかしい、もしかして寝ちゃってた?」
「眠らされてたんだよ!」
「あら、たしかに。もう朝ね」
シャネルは俺から離れようとしない。それどころか、まるで押しつぶすように俺に体重をかけてきた。べつに重たくはないのだが。
「ふふっ……」
「これもしかして寝ぼけてるのか!?」
珍しいね!
いや、そういう問題じゃなくてさ。
息が――。
シャネルは豊満な胸を、なにを思ったのか俺におしつけてくる。
むにゅむにゅしているせいで、俺の顔にぴったりと張り付いている。そのせいで酸素を吸い込むことができない。
「シャネルさん、そろそろ離れないと……」
「なによアイラルン、貴女もしかして私の恋路を邪魔するつもり?」
「いえ……そうではなくて」
俺は息ができないとシャネルの背中をトントンと叩く。タップのつもりなのだが。
「ほら、シンクもこんなに喜んでる」
シャネルは何か勘違いしている!
「色ボケはいけませんわ」
「色ボケとは失礼ね。まあ、冗談はこれくらいにしておきましょうか。ごめんなさい、シンク。私も寝ちゃってたわ」
シャネルが俺からやっと離れてくれて、それで息ができるようになった。
うーん、いままで何度かシャネルに顔に胸を押し付けられたが、もしかしてシャネルさんこれ好きなのか? いや、俺ちゃんも好きだけどね。
おっと、そんなことを考えている場合じゃない。
「土方たちはどこに行った! 追うぞ」
「もう遅いかもしれないわ」と、シャネル。
「だとしてもだ!」
どれくらいの時間がたっているのだろうか。戦闘はすでに終わっているかもしれない。土方たちが勝つ可能性は万に一つもなかったはずだから、勝利するのは……。
「アイラルン、貴女どうして私たちのことを起こさなかったの」
「わたくしも薬で眠らされておりましたわ」
「嘘おっしゃい。どういうつもり、ちゃんと説明して」
「起こそうとしたけれど、起きなかったのですわ。信じてくださいませ」
シャネルは不満そうにアイラルンを睨むが、俺は信じてやろうよとアイラルンを許した。
ここで仲間割れをしていても仕方がないのだ。
あるいはアイラルンには何か考えがあるのかもしれないが、いまはそんなことどうでもいい。
とにかく、新政府軍がいた村に向かおう。少なくともこの弁天台場だって、うかうかしていたら敵が来るのだから――。




