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676 燃える五稜郭


 海賊船にかかげられた旗は、ドレンス国旗ではなくジョリー・ロジャー。つまりはドクロをかたどる海賊旗だった。


「本当は蝦夷共和国の国旗でもつけたかったのですがね!」


「はは……俺たち、そういうのも作ってなかったな」


「ですのでこちらにしました!」


 俺はなんだか自分たちが国旗すら作っていなかったことがとても恥ずかしく思えた。


 そんなことすらせずに、戦いばかりやっていた。まともな国とは言い難かった。


 後世の歴史は、俺たちの行為をいったいどう見るだろうか。バカな建国をして、人々を苦しめただけだと思うだろうか。


 甲板に立つ俺は、どこか憂鬱な気持ちで海賊旗を見た。


「榎本さん、弁天台場まではすぐですからね!」


「うん」


「その間に敵と出会ったらどうしましょうか!」


「できれば逃げたいところだね。敵っているの?」


「もちろんですとも! そこらへんにウヨウヨと!」


 もしかしたら、俺は思った以上に危険な船出をしてしまったのかもしれない。


 考えて見れば海はすでにあちらの領分で、俺たちは囲まれている状況なのだ。


「大丈夫だろうか」と、俺は思わず弱気に言ってしまう。


「おまかせください! どんな敵が来ようとこちらの速力にはかないません。一撃離脱で逃げ切って見せますよ!」


「頼みます。俺にはやらなくちゃならないことがあるんです」


 分かりましたよ、とキャプテン・クロウはうなずいて船員たちに指示をだすために去っていった。


 俺の隣にはシャネルがいた。シャネルは海を見ている。なにを考えているのか分からないが、真剣な表情をしていた。


「ねえ……シンク。あれって、なにかしら?」


 シャネルが海の中を指差した。


 なにやら小さな生き物が動いていた。


「知らないけど、魚でしょう」


「ふうん、食べられるのかしら?」


「いや、知らないけど。なんだ、お腹すいてるのか?」


「そうかもしれないわ。ねえシンク、何か食べる?」


「いや、べつに……」


 お腹はすいていなかった。まったくと言っていいほどに。


 よく考えれば今日は朝からなにも食べていないはずなのだが、不思議だ。


「そんなはずないじゃない。何か食べておかないと体に毒よ。ちょっと待ってて、探してくるから」


「うん……」


 もしかしたらシャネルは俺のことを気づかってくれているのだろうかと思った。


 たぶんそうだろうな。


 しばらくすると、シャネルはアイラルンを引き連れて、両手におにぎりを抱えて戻ってきた。


「はい、シンク。食べましょう」


「朋輩、これはおにぎりですわ!」


「いや、見りゃあ分かるけど」


「これならシャネルさんでも失敗しませんわ!」


 うん? ということはつまり、このおにぎりはシャネルが作ってくれたのか。


 たしかに、料理が苦手なシャネルでもおにぎりくらいは作れるよな。


「失礼ね、べつにいつも失敗なんてしてないでしょ」


「えっ!? そうでしたの?」


「なによ。シンクはいつも美味しいって食べてくれるわよ」


「あはは……」


 ノーコメントで。笑ってごまかしておこう。


「シャネルさん……べつに味覚がおかしいわけじゃないのに、どうして自分の料理はカーボンになるんですの?」


 カーボンって、つまり炭素のことね。


「火力の問題だろうな」


「足らないの?」


「強すぎなんだろうな」


 あはは、と笑う。笑ってからおにぎりを受け取った。


 もちゃもちゃとそれを食べる。さすがのシャネルもおにぎりは失敗しないようだ。


「美味しい?」と聞かれたので、「美味しいよ」と返しておく。


 ひとくち食べて気づいたのだが、やはり俺はお腹が減っていたようだ。そんなことに気づかないほど落ち込んでいたわけだ。


 具材は梅干しだった。


「酸っぱいなぁ……」


 涙が出そうだった。


 なんでかは、自分でも分からないけど。


「朋輩……あれって……」


 アイラルンが、遠くの陸地を指差した。


 俺はそちらを見た。


 煙があがっていた。


「五稜郭の方か」


 というよりも、函館の方というべきか。


 胸の中に、ムカムカとした嫌な感覚がある。それは誰か大事な人が死ぬときに感じるものだ。俺は目を凝らして、その煙の方を見た。


 たぶん、普通の人間の視力ならば見られなかっただろう。


 だけど俺には見えた。


 やはり燃えているのは、五稜郭だ。


「誰かが火を付けたんだ」と、俺は言った。


 だけど、俺の勘ではその火をつけたのは澤ちゃんだった。おそらく、この嫌な予感は澤ちゃんがいままさに死のうとしているからだろう。


「敵が焼き討ちしたのかしら? でもおかしいわね、町に火をつける必要なんてないはずだけど。それとも――」


「シャネルはどう思うんだ?」


「やぶれかぶれ、とは思えないわね。もし火をつけたとしたら澤さんかしら」


 どうやらシャネルも同じようなことを考えていたらしい。


「死ぬつもりか」


「きっとそうね。私でもそうするわ」


 さらっとシャネルが怖いことを言った。


「そんなこと言うなよ」


「貴方が死んだら、私だって同じことをするわ。それは当然のことよ」


「いや、まあ……うん。ありがとう」


 感謝の言葉が正しい返答なのか分からない。


 いつしか陸地ははるかに遠くなり、いかに俺の目をもってしても五稜郭から出る煙は見えなくなった。


 俺はそれで船の中に入ろうと思った。弁天台場までは距離があり、まだ時間がかかるだろうから。


 けれどなんだか嫌な予感がしてその場にとどまる。


「なんだろう……なにか、来るのか?」


 この嫌な予感が外れることは、まずない。


「どうかしたの、シンク。怖い顔してるわよ」


「なんか嫌な予感がするんだ」


 目を凝らす。


 しかし視界に見えるのはどこまでも続く水平線ばかりだ。


「あ、このおにぎり美味しいですわ。朋輩、もっと食べます?」


 いかにも脳天気なアイラルンは、俺の雰囲気などまったくお構いなしにおにぎりを食べている。そして、


「うっ!」


 喉につまらせたのか、自分の胸をドンドンと叩いている。


「ちょっと、なにしてるのよ」


「く、くるしい……」


「一息に食べ過ぎなのよ。もうっ」


 シャネルがアイラルンの背中を叩いた。すると、ポンッ! というような音がして、アイラルンの口から梅干しの種が飛んできた。


 その種は不運なことに俺の頬に当たる。


「いてっ!」


「ごめんなさいですわ、朋輩」


「お前なあ……中に入ってろよ」


「なにかありましたの?」


 俺は飛んできた梅干しの種を拾い上げた。船の甲板に転がしておくのはいけない気がしたのだ。なんの気なしにポケットの中に入れておく。


「嫌な予感がするの。もしかしたら戦闘になるかもしれない」


「こんな海のど真ん中で、ですか?」


「そんなこと言って、このジャポネに来るときもクラーケンに襲われただろ。あんな感じで敵がくるかもしれない」


「それもそうですわね。朋輩、でしたらわたくしは中に下がっておりますわ。シャネルさんはどうなさいます?」


「危ないのかしら、シンク?」


「たぶん」と、答える。


「じゃあ私はここで手伝うわ」


 俺としてはシャネルにも中へ入っていてほしかった。もし本当に戦闘になれば、シャネルを守りながら戦うことになる。


 この国では魔法を使えないシャネルは、はっきり言って足手まといだ。


 けれど、シャネルがあまりに純粋に俺を見つめるものだから、俺は彼女の好意を否定できなかった。


「危ないと思ったら逃げろよ」


「あら、貴方がいて危なくなるの?」


「……守るよ」


 もとよりそのつもりだった。


 アイラルンは船内へと戻っていく。俺は、シャネルと一緒に水平線の向こうを見つめた。


 そしてしばらくしてだ。


 最初、点のように見えるなにかがあった。


 それは真っ直ぐこちらに近づいてくる。


 嫌な予感は強くなる。


 なにか粘っこい気配が、俺をからめるように包み込む。どうやら敵も俺がここにいることは気づいているらしい。


 だとしたら、この気配は殺気か?


 俺は思わずほくそ笑む。


「シワス――」


 その憎き復讐相手の名前をつぶやいた。


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