674 斜陽
江差は奪取できた。
しかしそれは、シャネルの言う通りのオトリであった。
敵は四方八方から函館を包囲してしまい、我々は戦線を引き下げるしかなかった。
けっきょく、せっかくとった江差もすぐに手放すハメになり、部隊はとんぼ返りだ。しかも土方たちのいる海岸の警備部隊とも分断され、互いに孤立してしまった。
こうなればすでに勝利は無理だ、というのが誰の目にも明らかだった。
「詰み……かな」
と、俺はつぶやく。
「ですね」と、澤ちゃんは否定しなかった。
陸軍は防衛で手一杯。
そして海軍は、すでに壊滅していた。
俺たちの持っていた船は轟沈、あるいは座礁してしまい、ろくに動けるものはなくなっていた。ここに、精強を誇った旧幕府海軍は、全滅したのだ。
もしかしたら、と俺は思った。
開陽丸が沈んだときにすでに俺たちの戦いは終わっていたのかも知れない。
日が沈めば夜が来るように、俺たちの戦争は暗く、厳しいものだった。
五稜郭では会議すらもう開かれていなかった。
そんなものは必要ないということだ。
「斜陽ですね」と、澤ちゃんは疲れたように言った。
「だな。ときに澤ちゃん、俺たちの一番良かった時期というのはいつだろうかね」
「さあ……どうでしょう。私はそうですね、榎本武揚が居たころだと思いますが。あの頃は楽しかったですね」
「俺もそう思うよ。江戸に居た頃か。ああ、こんなことならもっと江戸の町を見ておけばよかったなぁ。それで、いろいろ楽しんで……」
「榎本殿。いいえ、榎本シンク殿」
なんだい? と、俺は澤ちゃんに微笑んだ。
「これまで、ありがとうございました」
まるでお別れの言葉だな、と俺は思って。
そしてそれが間違いではないことに気づいた。
俺たちはいま、五稜郭の一室にいた。
この部屋は澤ちゃんの部屋であり、部屋の中央には棺が置かれていた。その棺の中に入っているのはもちろん、タケちゃんの遺体だった。
なにかしらの防腐処理がほどこされているのだろう、タケちゃんの遺体は傷一つなく、なんならいますぐにでも起きてきそうにも見える。あるいは、それは精巧に作られた人形のようにも。
俺たちはその人形のようなタケちゃんを見下ろして、話をしていた。
「貴方とこうして戦えて、楽しかったです。まるで夢の続きを見ているようでした。ブヨウと共に、この蝦夷の地に来て、念願だった国をつくり……そして彼がその国を治める」
「俺じゃあ無理だったな」
「いいえ、シンク殿は頑張ってくれました」
「そう言ってもらえると少しばかり救われるよ」
「ただ、シンク殿の領分とは違う部分を求めてしまったのでしょう」
「あ、そう思う? いやあ、俺ちゃんってば思った以上にカリスマ性みたいなもんがなくてさ。もちろん知ってたけどさ。たぶん現場指揮とかさせてもらえれば、上手くできたと思うんだけどね」
「ですね。シンク殿は土方氏と一緒に戦っているくらいがお似合いでした」
「同意だね」
だから、そうしようと思う。
「本当に、これまでありがとうございました」
澤ちゃんは頭を下げた。
俺はそれに言葉での返事はせずに、着ていた服を脱ぐことで意思を示す。
ゴテゴテと勲章の取り付けられた服はもともとタケちゃんが着ていた正装だ。こんなもの、俺にはもういらない。これはタケちゃんが着て、埋葬されていくべきだろうと思う。
だから俺は、脱いだ服を棺の中のタケちゃんにかぶせた。
「いちおう、俺なりには頑張ったつもり」と、言い訳のようにタケちゃんに言う。「でも、ごめん、ダメだった」
もちろんタケちゃんは何も言わない。
死んだ人間がなにか言うことなんてありえないのだから。
「シンク殿、これからどうなさいますか?」
「うん、もう少しだけ戦ってみるつもり」
「なんと!」
「いやね、土方のとこに増援に行こうかと思って。って言っても、大したもんじゃないけどさ。戦力なんて俺とシャネルだけだし」
アイラルンが除外だ。
「死にますよ?」
「そのためにこの蝦夷までやってきた人間も多いだろ。澤ちゃん、あんたは?」
「私は違います。いいえ、違いました。ブヨウの夢のために来たのです。その夢が破れたいまはそうですね。あとはゆっくりと死のうと思います。ブヨウと一緒に」
「そうかい」
俺はいま、この瞬間に榎本武揚としての職務を終えた。
これからの俺は元の榎本シンクだ。
もっと上手くできたのではないかという気は、いまでもしている。けれどこれ以上はなにもできなかったとも思う。
一つ言えるのは、俺はいろいろなことを願いすぎたのだろう。
俺にできるのは復讐がせいぜいで、それ以上のことなんてできないのだ。
だから俺は、俺の目標を達成する。
「じゃあね、タケちゃんによろしく」
「はい」
「ああ、それと。タケちゃんを殺した人間のことは俺に任せておいて。絶対にケジメをつけされるから」
「ケジメ、ですか?」
「ああ、殺してやる」
澤ちゃんは首を横に振った。私はそういうの、どうでも良いですよというような態度だった。
けれど、やっぱり「ありがとうございます」とは言ってくれた。
たぶんこれが最後の会話になるな、と思って、俺は澤ちゃんの部屋を出た。
そして俺――榎本シンクは歩いていく。
自分の部屋に戻る。
「お疲れさま」と、シャネルがねぎらうような言葉をかけてくれた。
「うん」
「澤さんへのお別れは済んだかしら?」
「というよりも、タケちゃんとのお別れって言った方が良いかもね」
「どっちでも同じよ、愛する2人は一心同体だから」
シャネルがなにかこちらを見て、返事をしてほしそうにしている。
だけど俺は愛というものがよく分からないので曖昧に笑った。
愛ってなんだろうな、と思う。
澤ちゃんは死ぬつもりだということは童貞の俺でも分かった。タケちゃんと心中するのだ。
――心中。
その言葉の意味は違うかもしれないが、行為としてはまさしくそうだろう。
じゃあシャネルはどうなのだろうか?
俺と死にたいのだろうか。
それは嫌だな、という思いと、そうだったら嬉しいなという思いが混ぜこぜになる。
もし俺と一緒に死んでくれるのなら、それは愛だと思いたい。
けれど俺としてはシャネルに死んでほしくはないわけで、もし俺が死んだとしても、彼女には生きていて欲しい。
「なあ、シャネル。愛ってなんだ?」
「さあ、なにかしらね。私のこの気持ち、じゃあダメかしら?」
「卑怯な答えだ」
「そうね、卑怯だわ。ねえ、そこの女神様。愛ってなあに?」
「もちろん、ためらわないことですわ!」
はは、と、俺は笑う。アイラルンに聞いたのがバカだったな、シャネルさんよ。
「なによ、それ」
もちろんシャネルには伝わらないわけだし。
ただ俺はアイラルンの軽口に安心した。
自分がなんだか恥ずかしいことを考えていた気がした。
「朋輩、若さってなんですの!」
「振り向かないことさ」と、答える。
「ザッツライト、その通りですわ!」
シャネルがぽかんとした顔をしていた。
「なにかの合言葉?」と聞いてくる。
俺はなんでもないよ、と答えるのだった。




