657 勇者の女
「もう、ずいぶんと前のことに思えるわね」
シャネルは笑いながら言う。
昔のことなんてもうほとんど覚えていないし、そもそも覚えていたくない記憶もたくさんあるけれど、シャネルと過ごした記憶は全部大切なものだ。
「俺たちはクリスに会ってるのか?」
「ええ、そうよ」
「前から?」
「覚えてないでしょう?」
うん、と頷いた。
「あれはそうね……私たちが会ったばかりの頃よ」
シャネルはどこかもったいぶる。いつもはこういうことをあまりせずに直接的に言う子なのに。もしかして、と俺は思った。
「なんか、気をつかってる?」
「あら、どうして?」
「いや、なんとなくだけどさ。俺のこと傷つけないようにしてる気がして」
どうかしらね、とシャネルは無表情につぶやいた。
それで俺は逆に自分が気を使われていたことを確信した。
なんだろうか。あのクリスという女は俺にとってそんなに重要な人間だったのだろうか。俺の心を乱すほどに。
「知りたい」
と、俺ははっきり言う。
「ええ、そうね。あの女は――」
シャネルがいままさに言おうとしたところで、部屋の扉がノックされた。
誰だろうか、いま良いところだったのに。
「朋輩!」
俺たちがなにかを言う前に扉が開け放たれ、アイラルンが入ってくる。
「ああ、アイラルンか。どうした?」
「どうしたもこうしたもありませんよ、襲われたのですって!?」
「耳が速いね。土方から聞いたの?」
「はい、そうですわ! 大丈夫だったということですが、本当ですか?」
「いちおうね」
「怪我をしてますわね」
「まあね」
ふと見れば、シャネルが少しだけ不機嫌な顔をしていた。話の途中で入ってこられたからだろう。
「なによ、アイラルン。そんなに慌てちゃって」
「だ、だって朋輩が。あの女の刺客でしょう!」
あの女というのはつまりディアタナのことだろう。
「まあそうだね。いきなりだったから困ったよ」
そういえばアイラルン、さっきまでお酒をたくさん飲んで酔っ払ってたのに、いまはシラフみたいだ。てっきり高いびきでもかいて寝てると思ったんだが。
「まったく、油断も隙もあったものではありませんわ!」
「でも簡単に撤退していったぞ」
そこが気になっていた。
「そうなのですか?」
「ああ」
あっけないほど簡単に。どうしてだろうか、と俺はずっと考えていた。もちろん答えは出ていないが。
「殺すつもりがなかったってこと?」と、シャネルが聞いてくる。
「いや、殺すつもりはあったと思う。少なくともシワスの方は。けどクリスの方が撤退を決めてた」
「どうしてでしょうか? ちなみに朋輩、そのときは不利でしたの?」
「なんとも言えないな。まだまだこれからって感じだったけど」
互角。
いや、俺が少しだけおされていたかもしれない。
「たとえばだけど、シンクだけしかいなかったからじゃないかしら?」
「え?」
「どういうことですの、シャネルさん」
「たぶん、全部つながってる話なのよ」
「全部?」
「クリスが魔法を使える理由も、あの女がここに現れた理由も、シンクだけなのを見て撤退した理由も。全部、全部」
「それらが全て、クリスっていう女の正体につながるわけか?」
「そうよ」
「教えてくれ、シャネル。俺たちはあの女とどこで会ってる?」
「あの女はね――
「あ、待ってくださいませ。当ててみせますわ! えーっと、分かりました! 朋輩の生き別れの妹ですわ!」
アイラルンがバカなことを言う。
「お姉ちゃんかもしれないぞ?」
思わず俺もそれにのってしまった。
「はあ……」
シャネルが露骨にため息を付いた。
「あなた達、もう少し真面目にできないの? こっちは真面目なつもりなのだけど」
「ごめんなさい」
「すいませんですわ」
でもだって、シャネルがあんまりにもシリアスは雰囲気で。なんというか、怖いのだ。
覚悟ができていない。
あの女の正体を知ることでもしかしたら自分の中でなにかが決定的に変わってしまうのではないかという気すらする。
嫌な予感だ。
「あの女はシンクの生き別れの姉妹でもなければ、私の血縁者でもないわ。アイラルンなんてもっと関係ないでしょうね」
「ですわ、ですわね」
なんだよその言葉。なんか語呂良いな。
なんてふざけている場合じゃないんだろうな、いま。
「シャネル、もうふざけないからさ。教えてくれ」
分かったわ、とシャネルは頷く。
「あの女ね、勇者のパーティーにいた僧侶よ」
「え?」
勇者のパーティー?
っていうと、つまり。
月元と一緒にいたやつら?
過去の記憶を引っ張ってくる。たしかにかなり昔のことのように思えた。
月元のパーティーは4人組だった。勇者である月元。魔法使いの女、武道家の女、そして、僧侶の女。
美人揃いで、俺は異世界に来てそうそうすごく嫌な気持ちになったのを覚えている。
そしてたぶん、その中でも一番だったのが僧侶の女だ。清楚で、可憐で、いかにも男のことなんて知ら無さそうで。けれど好きになってくれたら全力でつくしてくれそうで。
あんな子と付き合ったら人生楽しそうだな、なんて思ったものだ。
「えっと……あの女は最後どうなったんだ」
たしか俺とシャネルが月元を殺したのは、ドラゴンの住む山の山頂でだ。あそこでシャネルは魔法使いの女を魔法で焼き殺した。俺は『グローリィ・スラッシュ』で月元を殺した。武道家の女のことはよく覚えていないが、たしかシャネルが殺したんじゃなかったかな?
それで、僧侶の女――クリスは。
「あいつはたしか、山から飛び降りて自殺したはずだ」
「生きてたんでしょう、あの様子を見るに」
「そういうことだろうな……」
まさかあの崖みたいな場所から落ちて死なないとは。九死に一生を得たということか。もしかして顔の方帯はそのときの怪我か? あのしわがれた声も?
「へえ、生きていたんですの。それは良かったですわね」と、アイラルンは事情も知らずに言う。「でもどうして、その女の人が再び朋輩の前に現れたんですの?」
「決まってる」と、俺は言った。
「そうね」と、シャネル。
アイラルンは首をかしげる。
こいつには人の心がないのか? 誰だって分かることだ。
というかむしろアイラルンの専門だと思うのだが。
「あの女の目的は復讐だ」
「そうね、それも私たち2人に対する」
だから俺だけではなく、シャネルも揃っているときに殺そうとしたのだろう。
あのとき山頂で、俺たちが月元にやったように。
「なるほど、そういうことですの!」
アイラルンも分かったようだ。
「過去からの刺客……か」
まさか俺が復讐を願うように相手も俺たちに復讐したがっていたとは。
これも因果か。
因と業が複雑にからみあって、俺たちの人生というものは進んでいく。
なにがあるか分からない、一寸先は闇である。
しかし、まさか自分が復讐される側になるとは思わなかった。
「因業ですわね」と、アイラルンが言う。
俺は唇を噛んで、静かに頷いた。




