656 クリスの正体
部屋に戻るとシャネルがいた。
先に戻っていたシャネルは、いつものように本を読んでいた。シャネルはよくテーブルなどに座らず、ベッドに腰を下ろして本を読んでいることが多い。しかし寝転がるわけではないのだ。不思議な本の読み方だなといつも思う。
「シンク、おかえりなさい」
「ただいま」
「って、あれ? どうして怪我してるの?」
「襲われた、あのシワスとかいうやつらにだ。ったくよ、いきなりだったぜ」
「大丈夫? って、聞くのは愚問ね。無事で帰ってきてくれて嬉しいわ」
「どうも」
そこら中を怪我しているだろうが、大きなものはない。すべて軽症だ。痛みだってほとんど感じなかった。
「座って、顔に血がついてるわ」
「え、本当か?」
「ええ」
シャネルがタオルを水で濡らした。部屋にはもちろん水道なんてひいていない。なのでシャネルが使ったのは飲料水だ。少しもったいないな。
タオルで頬のあたりを拭かれる。
「いたっ……」
「しみる?」
「うん」
「切れてるわよ、ここ。でも血はもう固まってるわね」
「赤血球さんの活躍のおかげだな」
「なに、それ?」
「血だろ?」
知らない、とシャネルはおかしそうに笑った。まあそうだよな、と俺も笑う。
「それで、どんなふうに襲われたの?」
「いきなり来たんだよ、あいつら。俺はアイラルンとアルコールを飲んでたんだけど――」
「そこまでは一緒にいたわ」
「だな。それで、アイラルンが先に戻ったんだよ。俺は酔いを覚まそうと思ってその場に残ったんだ」
「偉いわね」
「だろ?」
シャネルの前で酔っ払っているところを見せたくなかった、というのもある。なにせ恥ずかしいからな、好きな人の前で酔っ払うのは。いまさら言うか、って話しではあるけど。
「でさ、そうこうしている内に土方が来たんだよ」
「土方さん? なんで?」
「さあ、たまたまだと思うけど」
そもそも土方たち新選組は五稜郭ではなく町の方に拠点を構えているのだ。
それなのに五稜郭にいたのは、なにかしらの準備かなにかをしていたのだろう。澤ちゃんに相談でもしていたのかもしれない。
「つまりなあに? シンクは土方さんと2人きりでいたわけね」
「いや、まあそうなるけど」
え?
あれ?
もしかしてこれ、シャネルさん怒ってます?
痛い、痛いよ! なんか頬を拭くタオルに少しだけ力が込められている気がする。
「で、どんな会話をしたわけ?」
「普通の会話だって。みんなの士気が下がってるからどうにかするべきだとか、そういう。それにさ、すぐにあいつらが来たんだ。あんまり話してる場合でもなかったよ」
「どういう感じで来たの?」
「それがいきなりだったんだよ。もう本当にいきなり現れた。たぶんあれ、魔法だと思う」
俺が言うとシャネルは少しだけ考えるそぶりを見せた。
頬を拭いていてくれたタオルが止まる。
「なんであいつら、魔法が使えるんだ?」
「分からないわ。ただ――」
「ただ?」
「違ってるかもしれないし、これで正解かもしれない。仮説はたてられるわよ」
「聞かせてくれ」
知りたかった。
だって卑怯じゃないか。このジャポネでは魔法が使えないということでやっているのに、あいつらだけ魔法を使えるだなんて。
どういう理由なのか純粋に気になる。
「まずそうね、この国で魔法が使えないのはディアタナの結界があるから。そこは確定よね」
「らしいね」
ドレンスからこちらに来るとき、海上で不思議な膜のようなものを超えた。あそこから先がジャポネであり、そこに入れば魔法は使えなくなった。
「ポイントはあの杖ね、あのクリスって女が持っていた杖よ」
「よく名前覚えてるね」
しょうじきなところ、俺はクリスという名前も今回思い出したくらいだ。シワスのことは覚えていたのだけどね。なにせやつはタケちゃんを殺した復讐相手なのだから。
「そりゃあ覚えてるわ。といってもね、私もこの前ヘスタリアで会ったときは忘れてたけれど」
「ヘスタリア?」
なんのことだろう、と思った。
たしかに俺たちはヘスタリアに滞在していたことがある。教皇選挙――つまりはコンクラーベのさいに色々と手伝いをしていたのだ。暗躍、と言ってもいい活躍だったかもしれない。
「もしかしてシンク、なにも覚えてないの?」
「えーっと……」
さて、どう誤魔化そうか。
「じ~」
しかしシャネルは俺の裏の裏まで読もうと言わんばかりにガン見してくる。
これは無理だな、誤魔化せない。
「ごめん、なんも覚えてない。え、どういうこと? 俺たちってもしかしてあのシワスたちに会ってたのか?」
「男の方には会ってないわよ」
男の方……。
これ、シャネルはシワスの名前は覚えていなかったんだろうな。
「でも女の方、クリスには会ったことがあるわ」
ここまでヒントをもらったのだし、もう一回考えてみる。
………………ダメだ。
ぜんぜん思い出せないぞ!
「本当に会ってる?」
「ま、私としてはシンクが覚えてないほうが嬉しいのだけどね。あの女、孤児院にいたわよ」
「孤児院に?」
つまり現在教皇であるエトワールが支援していたあの孤児院か。
そういえばアンさん元気かな。水色の髪が印象的な可愛らしい子だった。
「ちょっと……シンク。なんで頬が緩んでるの?」
「え、緩んでないよ」
「ま、いいけれどね」
そういうや否や、なぜかシャネルは座っている俺の顔の前に胸元をもってきた。そしてわざわざ後ろに手を回すようにして俺の首筋をタオルで拭く。
そうされると、目の前にシャネルの大きな胸が飛び込んでくるわけで。
なるほど、胸の大きな人のことを爆乳とはよく言ったもので。
こうして間近で見ると爆弾のような衝撃があった。
俺はおもわず鷲掴みにしたい衝動をなんとかこらえる。しかし瞬きはしない。目を閉じるのがもったいない。
だが、だが、だが。さすがに照れてしまう。
「はい、後ろも拭いたわよ」
シャネルが離れる。
「あっ……」
残念だ。
「どうしたの? あらシンク、さっきよりも顔が緩んでるわよ」
「そ、そんなことない」
くそ、シャネルめ。臆面もなく自分の武器をつかってくる。
こりゃあ俺ちゃん、将来尻に敷かれるな。もう敷かれてるか?
「それで話を戻すけど。あのクリスって人がもってる杖。あれは『ディアタナの杖』よ」
「えーっと、それなんだっけ?」
「教皇が持っていた杖。所有者が傷を負わないようにするってものね」
「ああ、エトワールさんが持ってたやつか!」
それで俺はこの前の戦闘のことを思い出した。
そうだ、たしかあのとき俺の『グローリィ・スラッシュ』が不思議に無効化されたのだ。
で、あの杖って最後はどうなったんだったか。
ああ……そういえば。
なんとなく思い出してきた。エトワールさんはあの杖を孤児院にいた女にあげたと言っていたはずだ。顔に包帯を巻いた女――。
つまりあれが。
「そうか、クリスか」
いた気がする。
こうして思い出してみれば、たしかにいたと思える。
なるほどな、と俺は頷いた。
「思い出した?」
「だいたいな」
「でも私も忘れてたけど、その前にも会ってるのよ」
「そうなのか?」
分からない。
俺はシャネルに話しの続きをうながした。




