647 座礁、開陽丸
斜めになっている。
もしかしたら俺が疲れて姿勢が悪くなって真っ直ぐ立てていないだけではないのか? なんて一瞬だけ現実逃避をしてみるものの。
どう考えても開陽丸の方が斜めになっている。
「ああ……私がいれば……私が開陽丸に乗っていれば!」
澤ちゃんは悲痛な叫び声をあげて走り出した。
「お、おい!」
土方が止めようとするが無駄だった。
澤ちゃんは走り出し、しかし雪に足をとられて転ける。それでも前に、前にと進もうとする。
立ち上がり、転けて、それでもまた立ち上がり、叫ぶ。
「あああああっ! 開陽丸が!」
また、転けた。
「落ち着いてくれよ、澤ちゃん!」
こんなに乱れる澤ちゃんを見るのは初めてだった。
あるいはタケちゃんが死んだときよりも錯乱している。
雪の中でジタバタと暴れて、なんだか玩具屋で欲しい物を買ってくれと駄々をこねて暴れる子供のようにも見える。
「落ち着いて、まだ斜めになっただけだ」
「ダメですよ! あれはもうダメです! 見てください、スクリューが海上に出ています!」
スクリュー?
ああ、たしかに。
プロペラ――とは少し違うか。扇風機の羽のような形をした推進装置が、開陽丸が斜めになったせいで海の中から海上に露出してしまっている。
あれではどれだけ回しても前には進まない。空を切るだけだ。
「どうすればいいんだ。土方、なにかいい案は?」
「まったくだ、思いつかない」
どうすれば良いんだ。
開陽丸は押しも押されもせぬジャポネ最強の船だ。これを失うことは、蝦夷共和国の戦力を大幅に低下させることになる。
それは士気にも関わる重大な事項。いや、この戦争の趨勢すらも決めかねないくらいの事項である。
なんとしてでも開陽丸を元の状態に戻さなければ。
「考えろよ、俺ちゃん……」
ない頭を回す。
「とりあえず、我々も開陽丸に乗るべきでは?」
土方の言うことももっともだと頷く。
「そうだな。澤ちゃん、ほら立って」
俺は倒れている澤ちゃんを引き起こそうとする。しかし澤ちゃんは放心状態で、ぐったりしていた。
「むっ……重たい。土方、そっちもってくれ」
「私も持つの?」
「はい、ちゃんと持って。せーの!」
「ふんっ!」
と、土方が言った
「案外可愛い声だすんだな」
俺は思ったことを口に出してしまう。
「うるさい!」
怒っちゃった。
「いや、でも声は可愛いわりに力は入ってるよ」
いちおうフォローのつもりだ。
澤ちゃんを2人がかりで立たせた。
「ほら、歩いて。船に行くぞ」
「……もう無理です」
「弱気になってどうするのさ!」
「転覆する可能性もあります。船内には入らないのが懸命です」
「あ、そうなの?」
「しかし中で指揮をとったほうが海兵たちもやる気をだすはずよ」
「……土方氏」
「なにかしら?」
「その喋りかた、変ですよ」
「ぐっ!」
まさか澤ちゃんにそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。
土方は顔を真っ赤にして唇を噛む。
「ま、まあ。とにかく行こう」
こうしていても始まらない。そもそも外にいると下手したら俺たちも凍死しかねない。それくらい寒い。
雪はずっと降り続いているし、風もかなり強いのだ。
「おおい、おおい!」
と港の方から手をふると、開陽丸の甲板にいた人間がこちらに気付いた。
開陽丸はすでに沖のあたりで座礁しているので、港から乗っていくことはできない。なので船の方からカッターと呼ばれる小舟が出てきた。
俺たちはそれに乗り込む。
まさかの手漕ぎ式だ。澤ちゃんは使い物にならず、俺は土方と交代しながらカッターを漕いだ。そして開陽丸にとりつく。
ロープが降ろされた。
なるほど、これを登っていけということだな。ロープをつたって船へと入る。土方もついてくる。
「寒い……手の感覚がなくなってきた」
「おい、榎本」
「どうしたの?」
「登ってこないぞ」
「え?」
見れば澤ちゃんがカッターの上で膝を抱えてうずくまっていた。
「どうする?」
「あー! もうっ!」
俺はもう一度カッターに降りる。せっかくロープをつたって登ったのに、また降りたのだ。気分はお猿さん。しかし猿は寒波の中でまで木登りはしないのである!
「ちょっと澤ちゃん! 頑張って!」
「……どうしてですか?」
「登らないと!」
「登らなくてもいいですよ」
「なんでそういうこと言うのさ!」
さすがに俺も腹がたってきた。
と、思ったら。
地面が浮いた。
いや、違う。そもそも俺たちは地面の上になど立っていない。俺たちは小舟の上にいるのだ。
その小舟が、浮き出したのだ。
「えっ? え?」
意味が分からない。
「……私、登らなくてもいいって言ったのに」
「え、これなに? どうなってるの?」
「上で巻き上げてるんですよ。自動で上がります」
「マジか!?」
え、じゃあなにか? 俺は巻き上げ用のロープをつたっていたのか? バカなのか、俺は。ついでに土方も。
エレベーターのようにカッターは上昇する。さきほどたらされたロープはこれを使って登れという意味ではなく、カッターにくくりつけろという意味だったらしい。
ということで、登った先で土方と微妙な対面。
「いやあ、たまにはこういう運動もいいよね」
とりあえず言ってみる。
「だわね。昔はよく多摩の田舎で木登りをしたものよ」
2人して恥ずかしさを紛らわせるために笑い合う。
「……はあ」
澤ちゃんがため息をつく。
いやいや、もっと大きな声で言ってくれれば良かったのに。
とはいえ澤ちゃんは見るからに気落ちしているし、そういうこともできないのだろう。
「と、とにかくさ。人を集めようよ」
「集めてどうなるのですか?」
「いい案が出るかもしれない!」
「三人寄れば文殊の知恵とも言うからな」
「……まあ、そうですね」
俺たちは2人で妙に澤ちゃんに気を使ってしまう。
なんというか、澤ちゃんいまにも死にそうだ。なんなら海に飛び込んでもおかしくない。それくらいのテンションだ。
「土方、ちょっと澤ちゃんを見といてくれ。なんか危なっかしい」
「ああ。シンクは?」
「俺はみんなを呼んでくる」
「分かった」
なんでもいいけど土方にシンクって名前で呼ばれると少し恥ずかしいな。
まあ、ほんとうになんでもいいのだけど。
俺は船の中をまわり、手が空いてそうな人たちを集めてくる。
不思議なもので、みんな俺の顔を見たら不安そうな表情ではなくなる。それだけタケちゃんが頼られていた、ということだ。
なんだか申し訳ない気もするが。
俺は開陽丸に乗っていた人間たちをできるだけ広い部屋に集めた。とはいえ全員は入らないので、廊下にまで人はあふれる。
俺は集まった人を見回して、微笑んだ。
なあに、心配するなよ、これくらいなんてことないさ。とでも言うように。
しかし内心は、不安だった。その不安を隠すことができるようになったのは、成長だろう。
「さて」と、口を開く。
みんながいっせいに聞き耳を立てる。
「大変なことになったな、力を合わせよう、この中でいい案のあるやつはいないか?」
できるだけ、ゆっくりと言う。
耳あたりの良い言葉を選ぶ。
卑屈にはならないように、そして下手にも出ず、俺は榎本武揚だというような堂々とした様子で。
もういちど、集まったみんなを見渡した。




