640 ディアタナ強襲
いったんシャネルのところに戻り、カクカクシカジカとこれからのことを話した。
松前藩というものがあり、土方たちがそこを攻めに行った。新選組だけでは不安なので、海軍からも開陽丸が援軍に出る。そこに俺も乗って行くが、一緒にどうだい?
なんの色気もないデートのお誘いだったが、シャネルはすぐに頷いた。
「良いわよ」
「じゃあ行こう」
「その前に着替えるわ」
つまり小一時間ほど待っていてくれと、そう言っているわけだ。
「お早くしてくださいな」と、俺は少しだけおどけて言う。
あまり急かすと怒るかもしれないから。ことオシャレに関しては、シャネルには譲れないものがあるのだ。
「ねえシンク、黒と白、青もあるわね。それに赤も。どれが好み?」
「ピンク」と、俺はてきとうに答えた。
どうやらいまからどの服を着ていくか悩むらしい。
というか、いま着ているゴスロリドレスのままで良いと思うのだけど?
「そういえばシンク、あの女神は見た?」
「ああ、さっき澤ちゃんの部屋にいたぞ」
「なにしてるのかしら?」
「さあ、暇してるんだろ」俺と同じように。「いちおう、シャネルが話をしたいってのは言っておいたから」
「ありがとう。なら後で来るわね」
「だと思う」
「ときにシンク」
「なんでしょう?」
「私、これから着替えるのだけど?」
「これは失敬」
俺は慌てて部屋を出た。
廊下だ。少し寒い。
「さてさて、俺は俺で準備でもしておくか」
そう独りごちて、周囲を見回す。なんとなく嫌な予感がした。
「なんだ?」
目を凝らして、意識を集中する。
だがなにもない。
気のせいか?
「ほ・う・ば・い」
いきなりだった。
後ろから首元に手を回された。
そのまま首をしめられる。
「うぐっ……ア、アイラルン?」
首をしめると言ってもキマっているわけではなく、冗談みたいな力でだ。
「そうですわよ、朋輩」
だが俺は違うと悟った。
――これはアイラルンじゃない!
首を絞めている誰かの体を背中にのせて、そのまま一本背負いのように投げ飛ばした。
一切の手加減はしなかった。
もしこれで本物のアイラルンだったとしても構わない。脳みそ打って死んでしまっても、あとでごめんねをすればいいだけだ。
だが、アイラルンの偽物は投げ飛ばされた先で床にぶつかることはなく、ふわふわと中空に浮いていた。
「あら、どうして分かったんでしょうか?」
「さすがに二度目だ、すぐに気づくさ」
「今回は呼び方もちゃんとしたのに。ヘドが出るような呼び方ですね『朋輩』って」
「じゃあ、あんたは俺のことをなんて呼ぶ? ディアタナさんよ」
「様、でしょう? この下郎が」
ディアタナはアイラルンの姿をしていた。金髪の長い髪と、どこから神聖な雰囲気のローブを着て、しかし違うところはアイラルンよりも顔に知性が感じられるところだ。
ディアタナが手をかざす。
すると俺の体が動かなくなった。
「なっ――!」
初めての経験だ。
体を動かなくされたのは。
「まったく。こんな場所まで来るから小間使を送ることもできずに、このディアタナが直々に出てきたんですよ? 感謝してくださいね」
「アリガトウゴザイマス」
口が勝手に動いた。
「はい、感謝がちゃんとできて偉いですね」
なんだ、この女は?
なんのために俺の目の前に現れた?
「さて、榎本武揚さん」
ディアタナはわざわざ俺のことをタケちゃんの名前で呼んだ。
「なんだ?」
「貴方には謝っておきましょう」
「なにを?」
ディアタナは微笑みもせずに無表情でおれを見つめる。
その表情からはなにも読み取れない。なにも考えていないのではないかと思えてしまうくらいだ。あるいは遠謀深慮な考えがおつむの中につまっているのか。
「あんな女神にたぶらかされて、この世界にやってきて、大変なこともいろいろあったでしょうに」
「なにが言いたい?」
「私は慈悲深い女神です。なので貴方のような哀れな下郎にもチャンスを与えます」
「なに?」
「ここで手を引きなさい。そうすれば、許して差し上げます」
「手を引け?」
「そうです。ドレンスに帰りなさい。そしてアイラルンとは手を切り、金輪際関わりを持たないでください。安心なさっていいですよ、どうせあの女神は近々消えますので。もうこの世界に現界し続ける力もほとんど残っていないでしょうから」
「なにっ!?」
アイラルンが、消える?
「どういうことだ?」
「そのままの意味ですわ!」
背後から、さらに声が聞こえた。しかし振り向くことはできない。体が動かないのだ。
「あら、アイラルン。早かったんですね」
「いきなり五稜郭の中に猫さんが出てきて、なにかと思っていたらこういうことですの。わたくしの大好きな猫ちゃんをおとりに使うなんて!」
なんだアイラルン、猫派だったのか。
ちなみに俺は犬が嫌いだ。昔噛まれたからな。
「タイムアップ、ですか。ここで貴女とやり合うつもりはありません」
「臆しましたわね!」
「勝手に言ってなさい。それでは榎本武揚さん。ごきげんよう。寝返る気になればいつでもどうぞ? 歓迎はしませんけれど」
そう言ってディアタナは消えた。
それと同時に俺の体は動くようになった。
「はあ……はあ……なんだったんだ?」
まさか呼吸まで止められていたわけではないが、息がきれている。プレッシャーにあてられた。
「朋輩、大丈夫ですの?」
「たぶん」
「それより、あっちに猫がいましたわ!」
俺はアイラルンの顔を見る。
ニコニコ笑っている。
こいつ、もしかしてバカか?
……たぶんバカだな。
そして俺も。
「猫か。猫は噛まないからな、見に行こう」
「シャネルさんは?」
「一緒に行くって。いまは着替え中」
「なるほど。でしたら待たされますわね」
それにしても……。
「どうしてディアタナが来たんだろうか」
「さあ? あの女の考えることは分かりません」
嘘だな、と俺はなんとなく思った。
たぶんアイラルンは分かっている。なぜディアタナが俺のもとに来たのか。
あの女神は俺に、ようするに裏切れと言っていたのだ。アイラルンを。
まさかそんなはずは。俺がアイラルンを裏切るわけがない。
だがしかし――。
「朋輩、はやく行かないと猫ちゃんが逃げちゃいますわ!」
ほがらかに笑うアイラルンのバカ面を見ていると、これで本当に大丈夫なのだろうかと不安になるのだった。




